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	<title>Rugby-WorldCup.jp</title>
	
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		<title>ニュージーランドの一番長い夜</title>
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		<pubDate>Wed, 26 Oct 2011 05:26:22 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[2019年大会]]></category>

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		<description><![CDATA[ラグビーワールドカップ2011は、開催国ニュージーランドの優勝で幕を閉じました。開幕から約1ヶ月半NZに滞在し続け、すっかりラグビー漬けの毎日でしたが、それももうすぐ終わりです。 こちらでの様子についてはTwitterで [...]
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<p>こちらでの様子については<a href="http://twitter.com/nao58">Twitter</a>で<a href="http://twitter.com/#search?q=NZ短信">【NZ短信】</a>として書いてきましたが、最後に決勝戦の日について、空気感を忘れないよう書いておこうと思います。</p>
<p>いわゆる「観戦記」は柄で無いので、試合の部分ではなく前後の様子について。<span id="more-4922"></span></p>
<h4>ファントレイル</h4>
<p>朝から晴天に恵まれ、期待と不安でソワソワと落ち着かない一日の始まり。<br />
朝ごはんを食べたり、犬の散歩に行ったり、お昼ごはん食べたり、いつも通りに過ごしたんでしょうけど、何か記憶は曖昧です。ともあれ、17時くらいに車で出発。</p>
<p><a href="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/10/fantrail.jpg"><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/10/fantrail.jpg" alt="" title="fantrail" width="322" height="598" class="alignright size-full wp-image-4926" /></a>決勝戦の今日は「ファントレイル」をやってみることにしました。これは、ニュージーランドを象徴するバイアダクトのワーフ(ジャイアント・ラグビーボールのあるところ)から、最大の繁華街であるクインストリートを抜けて、決勝戦の会場であるイーデンパークまで4km強の道のりを歩いていこうという企画です。</p>
<p>途中にはパフォーマーが居たり、小さな催しがあったり。しかし基本的には、ファンがみんなで歩いたら楽しいよねという、いかにもキウイらしい牧歌的なイベントです。ゆっくり歩いて1時間の道のり。正直、参加者はそれほど多くないと思っていました。</p>
<p>オークランドシティに着いて、駐車場を探します。いつも1日で4ドルの駐車場が意外と空いていたので、さっそく入ることに。「なんだ、やっぱりまだ時間も早いし、そんなに混んでないね」なんて思ったのですが&#8230; 入り口に「今日は26ドル」の看板が。当社比6倍強です。ボッたくりです。道理で空いてるワケで。ちなみに同行していたキウイに訊いたら「ボる」は英語で&#8221;price-gouging&#8221;というそうで、おかげで勉強になりました。</p>
<p>もちろん、こんな暴利を許すわけにもいかず、別の駐車場を探すことに。ま、それほど苦労せずスカイシティに駐車できました。しかし、すでにクインストリートは人、人、人。ワーフのファンゾーンに行って大スクリーンで観戦する人、スポーツバーで飲んで騒ぐ人、バスや電車でスタジアムに向かおうとする人など、みんなこのクインストリートを交差します。思い思いの黒衣に包まれた人たちが、同じようにソワソワと行き交っていました。</p>
<p>もうひとり友達と合流し、5人でファントレイル開始。正確なスタート地点には戻らず、ちょっとズルしてアオテア・スクエアからスタートです。しかし、この時点で<a href="http://twitpic.com/74g699">コースを辿って行く人が多数</a>。ちょっとビックリです。</p>
<p>歩き始めてすぐのマイヤーズ・パークでは、学生が<a href="http://twitpic.com/74g9nf">作品を置いたり</a>、シャボン玉飛ばしたり。それぞれがシッカリと「ブラック」のテイストで、明るい緑の公園がモノトーンで埋められた、なかなか不思議な空間でした。しかし暗い感じは全くせず、子供たちの笑い声が走り回る楽しいスタートです。</p>
<p>ショッピングモールを抜けると、Kロードへ。繁華街ですが、開いてる店はどこも満員。しかし、結構な店が閉まってます。「かきいれ時のハズなのに、なんで今日閉める？！」と妙にお店の心配をするキウイの友達。お店の人も、もしかしたらスタジアムに向かってるんじゃないのかな。</p>
<p>やがてグレートノースロードに至ると、空いている店も出てきました。なぜかインド料理の店で腹ごしらえ。入ったときはガラガラだったのですが、食べてる間に満員に。どうやらシティに近い方から一杯になって、遠い店へ埋まっていっている様子。ともあれ、ものすごく美味しいお店でした。</p>
<p>道端では、ギターを持って歌う人、マオリ民謡にあわせて踊る人、ピエロに扮装している人などが点在しています。彼らは、運営側に頼まれた人なんだろうと。楽しい。フェイスペイントを入れてくれるブースもあって、子供を中心に行列が出来ていました。</p>
<p>そうしたオフィシャルでないファンも、一生に一度かもしれない日を目一杯楽しんでいます。5～6人のゴツい兄ちゃんたちの一団が、スクラム組みながら横断歩道を渡ってきました。巻き込まれたら死にそうな勢い。車道には、サモア旗をつけた車が激しくパンピング。明らかに改造してます。</p>
<p>別の横断歩道を渡ろうとしたら、反対側からラグビーボールをパスしてきた兄ちゃんもいました。受け取った別の兄ちゃん(別に二人は知り合いじゃなく、単なる通行人同士)が、すかさずパント。しかしミスキックで明後日の方向に。最初にボールを投げた兄ちゃんが全速力で拾いに行く姿が、可哀相でもあり可笑しくもあり。</p>
<p>ラグビーのレフリーに扮装しているパフォーマーもいました。何の気なく横をすり抜けようとしたら、キウイの友達が突然彼に指を突きつけられ、「オフサイド！」のコール。続いてレッドカードを突きつけられたり。オフサイドでレッドって、一体どれだけ悪質なのを繰り返したんだろうと爆笑しきり。</p>
<p>沿道の家では、軒先でパーティをしているところが多く見られました。そうした場所ではティーンから20代前半くらいに見える若い子たちが多く、歩いている人とからかい合ったり、塀の上で旗を振ったり。</p>
<p>結局、2時間くらいかかってイーデンパークに到着。思った以上に楽しく、驚くほど多くの人と一緒に歩いてきました。後で発表されたところによると、ファントレイルを歩いたファンは41,000人。超満員のイーデンパークが61,000人ですから、およそ2/3にあたるファンが歩いてきたことになります。みんな元気。</p>
<p>何万人もの人が、同じように黒いジャージを着て、同じ想いを抱いて、笑顔で同じ道を歩く。それだけのことですが、本当に楽しいイベントでした。</p>
<h4>スタジアム</h4>
<p>スタジアム周辺でも、やはり多くのパフォーマーが。しかしこの辺の様子は、大会中の他の試合と大きくは変わらず。試合会場を目前にして、リラックスして歩いてきたファンも緊張が高まっているように見えます。</p>
<p>今回本当に幸運なことに、20試合近く観た中で<a href="http://twitpic.com/74ii8r">最も良い席</a>が決勝戦で当たりました。試合展開が観やすい最上段ブロックの、最前列。国歌斉唱の際に選手と正面で向かい合えるサイドです。</p>
<p>Lv4まで、歩いてきた勢いを駆って階段を使用。ところが、Lv3の踊り場付近で、胸をおさえて苦しそうにうずくまるお爺ちゃんが。同行者らしき3人のお爺ちゃん、お婆ちゃんも心配そうにオロオロしてます。「セキュリティ呼びましょうか？」声をかけると、既に呼びにいっているとの返事。しばらくして少し落ち着いたらしく、起き上がって呼吸を整えていました。「今日は帰った方が&#8230;」普通ならそう思うところですが、絶対に断固、死んでも帰らないんでしょうね。心配でしたが何も出来ず、「気をつけて」と席に向かいました。もしこの日負けていたら、あの人は本当に亡くなっていたんじゃないかと(笑い事じゃないですが</p>
<p>隣の席に座った夫婦は、米国人。今は仕事の関係でNZに住んでいますが、少し前は徳島に居たそうで。しかし、日本代表は応援してたけど、米国代表は一切応援してないそうです。理由を訊いたら「トッド・クレバーが嫌いだから」。なんでもスポーツマンらしからぬ言動が多いらしく。仮にニュージーランドとアメリカが対戦したとして、100%オールブラックスを応援するとのこと。もう、しっかりキウイ。</p>
<p>8時半をまわって、いよいよ試合開始30分前。恒例のニュージーランド・アーミーによる鼓笛隊が登場します。そしてQFから恒例になった、Hakaのパフォーマンス。彼らも「俺、イーデンパークでHakaやったんだぜ！」と語れるのは自慢でしょうね。</p>
<p>続いて、NZの歌姫ヘイリーによるWorld in Union。長い陽の落ちた夜空に、彼女の透明な歌声が響き渡ります。このあたりから、猛烈に緊張してきました。4年間の、いや、24年間の集大成となる瞬間が訪れようとしているのです。</p>
<h4>試合後</h4>
<p>疲労困憊。</p>
<p>歓喜を爆発させるというより、勝った実感が湧かないまま呆然とフィールドを眺めているうちに、セレモニーの準備が整いはじめました。</p>
<p>笑顔でメダルを受け取る選手たちの顔を見ていると、徐々に喜びがこみ上げてきます。そして、故障により途中でスクォッドから外れたことで「メダルは授与されないのでは」と言われていたミルズ・ムリアイナが映し出された時に、唐突に本当に「良かった！」という気持ちになりました。スレイドも、カーターも、すっきりした顔で晴れやかにメダルをかけられています。</p>
<p>隣の夫婦を見ると、奥さんは大きな眼を潤ませていました。周囲のキウイも、号泣しているような人はいませんが、みな一様に胸から湧き上がる感慨を、ゆっくりと味わうかのようにフィールドを見つめています。</p>
<p>エリスカップを掲げるリッチー。比喩ではなく「夢にまで見た」光景です。オールブラックスが勝ち残ったこと。度重なる故障に耐えて彼自身が立っていられたこと。いずれもが当然の結果ではなく、奇跡の産物に思えます。</p>
<p>彼の手招きで、選手たちが集合。紙吹雪が舞い上がりました。フィールド上はかなり風が吹いているようで、選手の上には舞い降りず、少し離れたところに降り積もってしまいます。やがて選手たちがスタジアムをゆっくりと周回しはじめると、スタッフの子供たちが紙吹雪の中を転げまわって遊んでいました。</p>
<p>我々とは反対側の正面まで達すると、集まってHakaが始められます。試合前はカパオでしたが、今回はカマテ。やはりオールブラックスといえば、カマテを観たい。試合後に観客席に向かってやるのはセブンズでは恒例ですが、15人制では珍しいような。</p>
<p>カップは、選手から選手に渡されます。中にはシャンパン(?)か何かが注がれているようで、それぞれ口をつけ、まさに「勝利の美酒」を味わっていました。しかしSBWは、カップを覗き込んだだけで次の人へ。彼はムスリムなので、やはりお酒は飲まないのでしょう。アリ・ウイリアムズは、はしゃぎすぎてカップの蓋を落としてました。</p>
<p>先ほど子供たちが遊んでいた紙吹雪に、イズラエル・ダグとコーリー・ジェーンがダイブ。仰向けに大の字になって、手足をバタバタとさせて笑っています。ダグはその後も、音楽に合わせて踊ったりノリノリ。プレッシャーから解き放たれて、本来のキウイの兄ちゃんに戻った姿なんでしょう。</p>
<p>ヘイリーが再び登場し、1曲歌いました。しかし、選手は既に散り散りに歩いているし、あまり皆聞いていないようでした。ちょっと残念。</p>
<p>ようやくスタンドを後にして、トイレに。隣で用を足しているお爺ちゃんが、しみじみと呟いた言葉が忘れられません。</p>
<p>&#8220;Ah, this is the happiest pee in my life&#8230;&#8221;(人生で一番幸せな小便だ&#8230;)</p>
<p>この日、ニュージーランドでは数多くの「人生で一番幸せな」瞬間をかみ締めた人がいたことと思います。期待を裏切られ続けた24年間は、最後までほんの少し裏切られつつも、ようやく報われました。</p>
<p>そして、2011年ニュージーランド大会は終わりを告げ、2015年大会への道のりが始まっています。次に「一番幸せな」瞬間を味わえるのは、どの国の人たちでしょうか。日本も日本なりに最高の瞬間を、ファンに感じさせてくれることを祈りつつ。</p>
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		<title>魂の詩(1): アイルランドの叫び</title>
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		<pubDate>Thu, 29 Sep 2011 05:20:05 +0000</pubDate>
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</ol>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/09/anthem.jpg" alt="" title="anthem" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4881" />去る9月17日、ニュージーランド・イーデンパーク。アイルランド代表が、オーストラリア代表・ワラビーズを下す番狂わせを演じました。スタジアムを包む&#8221;Ireland&#8217;s Call&#8221;の大合唱が、ここが彼らの祖国から遥か離れた地球の裏側であることが信じられないほど、力強く彼らの代表を鼓舞したと感じます。自分も観客席で、一緒になって歌ってしまいました。</p>
<p>ラグビーでは多くの国が、ああした「アンセム」を持っています。スタジアムやバーで合唱する彼らを見ると、「ニッポン、チャチャチャ」しかない自分たちとしては羨ましくなります。<span id="more-4880"></span></p>
<p>しかし、彼らとて誰かが「これがアンセムですよ」と提供してくれたものを漫然と歌っているわけではありません。その誕生にはそれぞれの物語があり、それゆえに彼らが魂を込める理由があるように見受けられます。</p>
<p>今回、短いシリーズで、いくつかのアンセム誕生について紹介します(実は、<a href="/nations/">各国の紹介ページ</a>に書いてあることの焼き直しですが)。それによって、何かの拍子に日本のアンセムが生まれるきっかけになれば最高なのですが。</p>
<h4>ラグビー「アイルランド代表」であることの特別</h4>
<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/09/Ei-map.png" alt="" title="Ireland" width="330" height="355" class="alignright size-full wp-image-4890" />アイルランドのアンセムについて語るには、イングランドとの長い紛争を無視することは出来ない。ここでその複雑で凄惨な歴史について詳細に記述することはしないが、アイルランドが「アイルランド共和国」と「英国領・北アイルランド」に分裂していることを覚えておきたい。</p>
<p>アイルランドはイギリスによる最初の植民地である。彼らは、英国により宗教的・経済的な迫害・支配を受け続けてきた。</p>
<p>1919年からの独立戦争により、ようやく自由国としての地位を得たアイルランドであるが、今度は内紛に悩まされることになる。イギリスによる圧政の中でも、英国からの入植者や経済的にユニオンの支配下(=庇護下)にあった方が良いと考える者も出てくる。そうしたユニオシストと、逆に英国連邦からも独立をはかりたいナショナリストとの対立が激化。その結果として、北アイルランドは英国領に残ることを選択したのである。</p>
<p>そうした歴史的経緯から、アイルランド共和国の英国への反発感情は根強い。そしてそれは、北アイルランドに対しても同様である。サッカーをはじめ、ほとんどのスポーツで「アイルランド共和国代表」と「北アイルランド代表」は別のチームである。ところが、中に数少ない例外が存在する。そのうちの1つが、ラグビー代表だ。</p>
<p>ラグビーにおいては、「アイルランド代表」といえば、アイルランド島全体の代表を指す。彼らは前述の通り、政治的にのみならず経済・文化・宗教など全てにおいて異なる背景を持つ。しかし、ラグビーに関してだけは同じ旗を仰ぎ、ひとつのチームを応援するのだ。いかにラグビーが特別な存在であるかが分かるだろう。</p>
<h4>アイルランズ・コールの誕生</h4>
<p>もちろん、こうした複雑な背景を簡単に解消することは出来ない。様々に直面させられる難問のひとつが、試合前に歌われる国歌だ。</p>
<p>アイルランド共和国の国歌は、&#8221;<a href="http://www.youtube.com/v/4pHO7GW0MKE?f=videos&#038;app=youtube_gdata&#038;autoplay=1" rel="shadowbox;width=405;height=340;player=swf">Amhrán na bhFiann</a>&#8220;である。英語名は&#8221;The Soldiers&#8217; Song&#8221;。ケルティックの旋律が美しい、国民にこよなく愛されているアンセムだ。</p>
<p>一方、北アイルランドの国歌はイングランドの&#8221;God save the Queen&#8221;である。共和国の人間にとって、憎むべき支配者のアンセム。自分たちが誇る代表チームを送り出すために歌うには、大いに抵抗があった。</p>
<p>そのため、彼らは試合を行う場所によって歌う曲を変えるようなことをしてきた。しかし、その複雑な方法はしばしば混乱や悲憤を招く。特に1991年の第2回ワールドカップで共同開催国となった際には、大舞台での国民感情に配慮して「国歌斉唱を行わない」というルールにしてしまった。主催国が行わないものを、相手チームだけがすることは出来ない。ナショナリズムが発揚されるはずの国際大会において、選手入場からいきなり試合が始まるというのは異様な状況であった。準々決勝でアイルランドと当たったオーストラリアは、試合前にフィールド上で円陣を組み、彼らだけでアンセムを歌ったという。</p>
<p>こうした問題に対応すべく、1995年のワールドカップに向けて作られたのが &#8220;Ireland&#8217;s Call&#8221; である。曲は、Phil Coulterにより作詞・作曲される。すでに共和国で広く愛されている&#8221;<a href="http://www.youtube.com/v/7tiaIuH3oj0?f=videos&#038;app=youtube_gdata&#038;autoplay=1" rel="shadowbox;width=405;height=340;player=swf">The Town I Loved So Well</a>&#8220;を作った人物により、ケルトの心に触れる旋律が奏でられた。</p>
<table>
<tr>
<td>Come the day and come the hour</td>
<td>その時は来た</td>
</tr>
<tr>
<td>Come the power and the glory</td>
<td>力強さと栄光に満ちた時が</td>
</tr>
<tr>
<td>We have come to answer our country&#8217;s call</td>
<td>我らは応える、故郷の叫びに</td>
</tr>
<tr>
<td>From the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドの誇る4つの地方からの</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>Ireland, Ireland</td>
<td>アイルランド、アイルランド</td>
</tr>
<tr>
<td>Together standing tall</td>
<td>共に並び立つ</td>
</tr>
<tr>
<td>Shoulder to shoulder</td>
<td>肩を組み</td>
</tr>
<tr>
<td>We&#8217;ll answer Ireland&#8217;s call</td>
<td>共にアイルランドの叫びに応える</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>From the mighty glens of Antrim</td>
<td>アントリムの大峡谷から</td>
</tr>
<tr>
<td>From the rugged hills of Galway</td>
<td>ゴールウェイの連なった丘から</td>
</tr>
<tr>
<td>From the walls of Limerick and Dublin Bay</td>
<td>リムリックを囲む壁やダブリン湾から</td>
</tr>
<tr>
<td>From the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドの誇る4つの地方からの</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>Hearts of steel and heads unbowing</td>
<td>決して折れない鋼の心</td>
</tr>
<tr>
<td>Vowing never to be broken</td>
<td>永遠に破られない誓い</td>
</tr>
<tr>
<td>We will fight until we can fight no more</td>
<td>精根尽き果てるまで闘い抜く</td>
</tr>
<tr>
<td>For the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドが誇る4地方のために</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>Erin&#8217;s warriors, clad in emerald</td>
<td>エメラルド色を纏った、エリンの戦士たち</td>
</tr>
<tr>
<td>Steadfast souls confront their challenge</td>
<td>確固とした魂で、困難に立ち向かう</td>
</tr>
<tr>
<td>&#8216;Neath the glass sky they assemble</td>
<td>澄み切った空の下に集結した</td>
</tr>
<tr>
<td>For the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドの誇る4つの地方よ</td>
</tr>
</table>
<p>歌詞については、こうした経緯から、比較的曖昧で当たり障りの無い「共に闘おう」という内容になっている。しかしこれも、曲が発表されてから国民の間で多くの議論を経て、少しずつ変更されながら作り上げられたものになっている。</p>
<p>少しだけ歌詞を補足しておくと、繰り返し出てくる「4地方」というのはコノート、マンスター、レンスター、アルスターの4つを指している。このうちアルスターの大部分が北アイルランドにあたる。つまり、4地方とはアイルランド島全土を意味している。「エリン」というのは、アイルランド古語で「アイルランド」の意味。我々にとっての「ジャパン」が「アイルランド」なら、「エリン」は「日本」ということになろうか。</p>
<h4>クローク・パークの叫び</h4>
<p>この「アイルランズ・コール」が人々の心に深く刻まれた最大の出来事は、発表から12年が経過した2007年のシックスネイションズであったかもしれない。この日、ダブリンのクローク・パークでアイルランドとイングランドの試合が行われた。</p>
<p>アイルランド最大の収容人数を誇るこのスタジアムは、アイルランド独立戦争中の1920年に、イギリス軍の突然の発砲で14人が殺された「血の日曜日」が起きた忌まわしい場所でもある。元々「アイルランド文化を守るため」に設立されたスタジアムであったが、紛争後も頑なにゲーリック・ゲームズを中心としたローカルイベントのみに使用が許されてきた。今やアイルランドの国民的スポーツになっているラグビーやサッカーも足を踏み入れることの出来ない聖域となっていたのだ。</p>
<p>しかし2006年、ランズダウン・ロードの改築に伴い、大論争の末に他のスポーツもクローク・パークで試合が行えることとなった。そして翌年のシックスネイションズで、イングランドとの歴史的試合が実現したのである。</p>
<p>なにしろ、イギリス軍による虐殺の舞台である。最初に英国国歌&#8221;God save the Queen&#8221;が演奏された時には緊張が走ったことは想像に難くないが、まったくブーイングも起きずに平穏に歌い上げられた。続いて、アイルランド共和国国歌である&#8221;Amhrán na bhFiann&#8221;が歌われる。そして、最後に流されたのが&#8221;Ireland&#8217;s Call&#8221;であった。下の動画は、その時の様子が収められている。Ireland&#8217;s Callが始まり、明らかに歌声が大きくなっている。これは、北アイルランド側の観客も唱和しているためであろう。観客席では感極まり涙しながら歌うファンが続出し、その昂まりは選手にも伝染している。</p>
<div style="text-align: center;"><iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/_6_UsZtHiXU" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>
<p>この試合は、血塗られた紛争を続けてきたアイルランドとイングランドにとって「歴史的和解」とされ、観衆の立派な振る舞いは大いに称賛された。なお、試合は両国間では過去最大点差となる43-13で、アイルランドが勝利している。(第2話「望郷の唄」に続く)</p>
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</ol></p>]]></content:encoded>
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		<title>[ジョージ・ネイピア] マオリの月に照らされて</title>
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		<pubDate>Thu, 11 Aug 2011 17:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[選手列伝]]></category>
		<category><![CDATA[オールブラックス]]></category>
		<category><![CDATA[ニュージーランド]]></category>

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<p>「ジョージ・ネイピア (George Nepia)」</p>
<p>有り余る才能を持つ天才フルバックは、ニュージーランド(特にマオリの間)で最も人気のあるラグビー選手のひとりだ。</p>
<p>若くして「世界最高」の勲章を手にし、幾分ロマンチックな物語で彩られた彼の人生は、決して単純な輝きで満ちているわけではなかった。<span id="more-4833"></span></p>
<h4>貧しかった少年時代</h4>
<p>ジョージ・ネイピアは、1905年4月25日に、ホークスベイのワイオラで生まれた。ニュージーランド代表が史上初めて欧州へ遠征し、「オールブラックス」の呼称を得ることになる年である(ただし、後に彼は実は誕生年は1908年であったと主張している。仮にそれが本当なら、後述するInvinciblesツアー時の年齢が、とんでもないことになってしまうが&#8230;)。</p>
<p>両親は、共にニュージーランド原住民族であるマオリの家系であった。彼らはジョージが生まれて早々に離婚しており、共にすぐに再婚した。継母は彼に愛情を向けず、辛い幼年時代をすごしていたようだ。やがて彼は家を出て、近くに住む優しい彼の祖母と生活するようになっていく。</p>
<p>祖母の愛情に恵まれ幸せな生活を送っていたジョージであったが、彼が小学校へ通い始める頃、祖母の高齢を理由に父親が彼を連れ戻しに来た。実際に蓄えも多くなく身体も弱ってきていた祖母が幼いジョージとの生活を支えることは難しく、彼は再び実家へ戻る。そして地元のマオリが通う小学校に入学した。</p>
<p>そこでジョージは、すぐにラグビーにのめり込んでいく。豊かとは言えない家計から、継母は彼にラグビーボールを買い与えてはくれなかった。だが、彼は学校の帽子に土を詰めてボール代わりにし、ボロボロになるまで練習に明け暮れた。</p>
<h4>創造性の下地</h4>
<p>卒業後、寄宿舎生活に入ったジョージは、学費を稼ぐために鉄道工事などをしながらラグビーを続ける。</p>
<p>彼の父親は、ジョージを地元のテ・アウテ大学へ入れることを決めた。しかし、その決定はジョージにとって納得のいくものではなかった。そこは米国資本によるモルモン教徒のための大学であったが、彼は信者ではない。学費が安いこと以外に、父親がその大学を選んだ理由は思いつかなかった。</p>
<p>それよりもジョージは、ヘイスティングスにあるマオリ農業大学へ通いたかった。将来牧場を持ちたいという夢にも繋がるし、ラグビーも強豪である。彼のラグビー仲間の多くは、そこで競技を続けることを決めており、しきりに彼を誘った。</p>
<p>卒業が近づき、ジョージは思い切って父親に訴える。しかし、既に学費の一部をテ・アウテ大学に払ってしまっていたこともあり、彼の父親は最後まで志望を変えることを許さなかった。だが、このことは彼のラグビー選手としての下地にとって、大きな分岐点だったと言えよう。</p>
<p>大学で彼を指導したのは、アーウィン・モーザーという米国人コーチだった。彼はニュージーランドで大学が名前を上げ、学生を集めるためには、ラグビーチームを強くすることが必要だと考えていた。一説には、高校時代からジョージの才能に注目していたアーウィンが、ジョージの学費を一部負担していたとも言われる。そうであれば、彼の父親の頑なな進路決定の裏にあったものも、あるいは想像できる。</p>
<p>だが、ともあれアーウィンは非常に熱心で有能な指導者であった。彼は元々アメリカン・フットボールの選手である。ジョージが教わったパントやスクリューキック、あるいは身体ごとぶつけるようなタックル技術などは、従来の英国式ラグビーには殆ど見られないものであった。彼はここで、後に「極めて創造的な新しいプレーを開発する」と言われることになる、枠にはまらない幅の広いスキルの下地を身につけていく。</p>
<p>1924年、南北マオリ対抗戦が行われた。これは、来るオールブラックスの英国遠征メンバー選考を兼ねた重要な試合であった。ところが、ジョージはそれまでプレーしていたファイブエイスから、このタイミングで突如フルバックにコンバートされる。</p>
<p>彼は慌てて、従兄弟のウォルター・マクレガーなどバックスリーの経験がある仲間に助言を求める。これが、彼にとって2度目の転機であった。</p>
<p>正直なところ、ジョージがコンバートされたのはファイブエイスでの能力不足と見なされたからであった。まだ19歳の青年は、彼自身すら自らの突出した能力に気づいていなかった。しかしそれが、フルバックというポジションで大きく開花する。彼は見事イングランド遠征メンバーに選ばれ、錚々たる名選手らと共に船に乗り込んだ。</p>
<p>そして、伝説のツアーが始まる。</p>
<h4>無敵ツアー</h4>
<p>この時、オールブラックスはイングランド、フランス、そしてカナダをまわり、国代表のみならず数々のクラブチームなどと試合を重ねた。現在に比べて移動もハードで、宿泊先での練習などもままならなかった時代である。にもかかわらず、彼らは32試合を戦い、その全てに勝利した。いつしか彼らは「The Invincibles (無敵、不屈)」の名で呼ばれるようになる。</p>
<p>そんな中でも、ジョージ・ネイピアの活躍は更に群を抜いていた。そのボールキャッチ、フィールドでの爆発的なキック、得意のスマザー・タックルと、全てが超越していたという。殊にそのアメリカン・フットボール仕込みのタックルは強烈で、ウェールズ戦では相手のカウンター攻撃から3対1となった絶対絶命の場面で、攻撃側3人をまとめて全員ラインの外にタックルで弾き飛ばしたという信じられないような伝説も残されている。唯一プレースキックのみが「彼の基準からすれば」弱点であり、チームではセカンド・キッカーであったということだ。</p>
<p>175cmという身長は当時としては大柄であり、82kgの体重は体型と比べれば非常に高密度であった。フォワードが相手でも全く当たり負けしないジョージは、このツアーで32試合全てに出場し、77得点をあげる。彼の名は一躍世界に広まり、年末には世界最優秀選手のひとりにも選ばれた。</p>
<p>英国のラグビージャーナリストであるデンジル・バチェラー氏は、ある日パブで、ラグビーファン達が「史上最高のラグビーチームを作るとしたら、誰を入れるか」という議論をしているのを耳にしたという。まだまだ、イングランドこそがラグビーの中心地であり、オックスフォードの学生チームこそが最高のラグビーエリートだと信じて疑われなかった時代である。彼らは次々に、英国の伝説的な選手の名前を挙げていった。しかしバチェラー氏は、後に次のように書いている。</p>
<p>『その議論を耳にした時には、固まってしまったよ。自分にとって、ジョージ・ネイピアが果たして史上最高のフルバックであるかどうかを、疑問に思う余地は無い。問題は、誰がオックスフォードのコットン・ブーツを脱ぐべきかということだけだ。』</p>
<h4>運命の出会い</h4>
<p>無名の若手が望外の幸運で船に潜り込んだ風だった出航から半年が過ぎ、ジョージは国の英雄として凱旋した。彼はニュージーランド最初の「国際的なスター」だったとも言える。</p>
<p>そしてこの年、彼は人生の伴侶と出会う。ティキティキにある教会のオープニング・セレモニー試合に招待されたジョージは、その祝賀会でピアノを弾いていたフインガに一目惚れする。彼女は5歳の時に母親を亡くし、父親もまた第一次世界大戦で駐屯先のフランスにて戦死している。実の両親とも、継母とも絶縁状態になっているジョージの瞳に宿る孤独の色は、フインガの心を映す鏡のようだった。そして彼らは、お互いが彼らの孤独を癒しくてれる相手だと、すぐに確信する。</p>
<p>マオリの伝統的な作法による婚姻は、親族の少ない二人には大変なものだったようだ。媒酌人などの手配に1年を要したというが、彼らは無事に結ばれる。ふたりが結婚式を挙げたのは、彼らが出会ったあの教会であった。</p>
<p>ジョージとフインガは、彼女の両親が遺したランギトゥイカの土地で牧場を始めた。牧場経営は、ジョージの幼い頃からの夢でもあった。彼の父親も、新たな旅立ちを祝い搾乳機を贈ってくれている。ジョージは懸命に働いた。</p>
<p>やがて、彼らは3男1女をもうける。娘の名前は「キウイ・ラウポンガ」。ニュージーランドに自生する銀のシダを意味する名前は、もちろん<a href="/2011/03/silver-fern/">オールブラックスのシンボル</a>からとられたものだ。</p>
<p>ラグビーでの名声、夢だった牧場、幸せな家族&#8230; ジョージ・ネイピアの望んだ全てのものが、そこにはあった。</p>
<h4>月の下</h4>
<p>しかし彼の人生は、この時代の多くの人がそうであったように、容易には運ばなかった。</p>
<p>1926年からのツアーメンバーに、彼の名前は無かった。理由は定かでないが、牧場経営をはじめたばかりのジョージが招集を断ったとも言われる。しかし、続く28年からの南アフリカツアーからは、明確に除外された。<a href="/2010/07/nz-apartheid-1/">アパルトヘイト</a>こそ未だ成立していなかったものの、既に南アフリカは有色人種と同じフィールドでプレーすることを喜ばない風潮であったためだ。更に29年の豪州遠征は、脚の怪我により初戦の前半のみのプレーとなってしまう。ジョージは1935年までの11年間に46試合をオールブラックスで戦い、99得点をあげた。これは、彼の実力と名声からすれば非常に少ない数字といえる。</p>
<p>折しも、世界は大恐慌時代。彼の経営する牧場も、業績は急激に悪化していた。当時ニュージーランド・マオリのキャプテンも務めていたジョージだが、遂に彼はある決断をする。</p>
<p>1935年に、彼は音楽関係の仕事をしていた従兄弟の勧めもあり、レコードを発表していた。タイトルは「Beneath the Maori Moon (マオリの月の下で)」。故郷への愛と民族の誇りを哀切に歌いあげたジョージの美声は、人々を驚かせた。レコードはニュージーランドの国内チャートで20位以内に入る売れ行きであった。</p>
<p>そしてこの曲は、彼の愛する故郷と家族へ、しばしの別離を告げる歌でもあったのだ。彼は家族の生活を支えるためニュージーランドのブラック・ジャージを脱ぎ、イングランドのラグビーリーグでプレーすることを決断する。</p>
<p>アマチュアリズムを強く信奉するユニオンと異なり、リーグでは選手に高額の報酬が払われる、いわゆる「プロリーグ」であった。この決定的な考え方の違いからユニオンはリーグを非常に敵視しており、リーグでプレーした選手とは決して再契約しないポリシーを貫いていた。彼は年間500ポンドの契約と引き換えに、オールブラックスへも永遠の別れを告げなければならなかったのだ。</p>
<h4>晩年</h4>
<p>悲愴な決意で旅立ったジョージであったが、愛する家族と離れた生活は、やはり長くは続かなかった。わずか2年後の1937年、彼はニュージーランドへ帰国する。</p>
<p>しかしユニオンへも戻れず、生活の糧も無い彼は、報酬は落としつつもニュージーランドのリーグチームに入る以外無かった。ジョージはリーグの国代表に選ばれ、幾つかの歴史的試合で相変わらずの活躍も見せた。</p>
<p>1947年、ユニオンがリーグとの敵対関係を少し緩和し、出戻りを許すようになった。この頃には世界恐慌も去り、息子たちも成長して生活の安定を取り戻していたジョージは、久方ぶりにユニオンラグビーへ復帰する。そして1950年には、やはりユニオンラグビーの選手になっていた長男と、なんと敵味方のキャプテンとして対戦した。ニュージーランドのトップクラブでこうした対戦が実現したのは、現在のところ史上唯一である。この時45歳になってたジョージは、気が付けばトップクラブリーグで最年長選手となっていた。19歳で国際デビューした華々しい無敵ツアーから、16年が過ぎている。</p>
<p>現役を引退したジョージは、レフリーの資格を取りラグビーに関わり続けた。生活のことや身の回りのことには比較的無頓着で、ラグビーと家族さえあれば幸せだった彼であるが、残酷な時の流れは彼から、その家族を奪っていく。彼と対戦した長男のジョージ(父親と同じ名前だ)が、1954年にマレーシアで殺されてしまう。そして1975年には、最愛の妻フインガに先立たれる。彼女が息を引き取る寸前に子供たちに発した最期の言葉は「お父さんの世話をお願い」だったという。</p>
<p>有り余るラグビーの才能を持ちながら、人種差別や社会情勢、戦争などに翻弄され続けたジョージ・ネイピア。彼を偲び「Beneath the Maori Moon」を歌う時、特にマオリの老人たちは多かれ少なかれ、自分の辛かった思い出を彼にダブらせる。</p>
<p>1986年6月、彼の人生を振り返ったドキュメント番組「This Is Your Life」が放映された。百万を超える人々が番組を視聴し、ジョージの、そして自分たちの家族やラグビーへの愛を再確認した2ヶ月後、彼は静かに妻と息子の元へ旅立っていった。</p>
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		<item>
		<title>[ニコラス・プエタ] 克己のラグビー魂</title>
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		<comments>http://rugby-worldcup.jp/2011/08/nicolas-pueta/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 04 Aug 2011 13:51:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[選手列伝]]></category>
		<category><![CDATA[アルゼンチン]]></category>

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		<description><![CDATA[彼が話し終えた時、小さな講堂に集まった少年・少女たちの瞳は、一様に興奮の熱気を帯びていた。 彼は現在、アルゼンチンの小さなクラブラグビーの選手であり、スポーツに特化した旅行代理店の社員であり、モチベーショナル・スピーカー [...]
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<p>彼は現在、アルゼンチンの小さなクラブラグビーの選手であり、スポーツに特化した旅行代理店の社員であり、モチベーショナル・スピーカーとしても世界各地で講演を行っている。</p>
<p>男の名前は、ニコラス・プエタ(Nicolas Pueta)。2007年にはIRBより表彰を受けた選手だ。しかし、そんな彼の名をアルゼンチン代表やトップクラブのリストに、見つけることは出来ない。<span id="more-4804"></span></p>
<h4>人生最大の決断</h4>
<p>ニコラス・プエタは1983年10月20日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれた、生粋のポルテーニョである。父ダニエルは国内で活躍したラグビー選手で、母は体育教師というスポーツ一家の長男であった。</p>
<p>後に「ニコ」の愛称で呼ばれる少年は、しかし生まれつき身体にハンデを背負っていた。右脚に比べて明らかに小さな左脚は、ほとんど成長することが無かったのだ。</p>
<p>やんちゃなニコは、動きまわることが大好きな子供だったという。そして、スポーツを観ることも楽しみにしていた。父親の影響からか、最も好きなのはラグビー観戦。この頃のニコにとってのヒーローは、スコットランド代表の名フルバック、ギャビン・ヘイスティングスであった。目を輝かせながら将来は彼のようなラグビー選手になりたいと無邪気に話すニコに、彼の両親は最大限の愛情で治療費を捻出した。</p>
<p>しかし、幾度もの手術は幼いニコにとって辛く苦しいものだった。3度目の手術では身体への負担が大きすぎて、術後1年間は歩くことも出来ない状態になってしまったという。</p>
<p>ニコは9歳になった時、後に振り返って「ここまでの人生では、最大のものだった」という決断をする。一切の治療を、もう止めるというのだ。彼は両親に叫んだ。</p>
<p>『自分は、こういう風に生まれてきたんだ。だから、このままで生きていくんだ！』</p>
<p>あるいはそれは、苦しい治療から逃れるための、幼い拒絶だったのかもしれない。だが、20歳の時にニコは当時の決断を次のように振り返っている。</p>
<p>『あの時、自分はもうスポーツの楽しさを知っていて、(あのままでも)自分が何でも出来ると思っていた。だから、自分でそれを選んだんだよ。今でも治療を永遠に拒否するつもりはないけれど、現状を充分に楽しんでいるよ。』</p>
<h4>はじめてのラグビー</h4>
<p>ニコは6～7歳の頃にはラグビーに興味を持ち、プレーしたがっていた。しかし、彼の両親や主治医は危険過ぎると判断して、水泳や体操、バスケットボール、サッカー(ゴールキーパー)などを勧めたという。抜群の運動神経と努力で、そうしたスポーツも楽しんでいたニコだが、ラグビーへの想いは捨て去ることが出来なかった。それどころか、そうした他の競技を続けることはラグビー選手になる夢から遠ざかることだという焦りすら感じていたという。</p>
<p>そして長い練習と説得の期間を経て、ニコは15歳の時に初めて念願のフィールドに立つ。</p>
<p>周囲の心配を他所に、彼には最初から自信があったという。確かに自分には、他の少年たちに比べて脚が1本少ない。でも、それはその分、もう片方の脚や腕の力が強いということだ。ニコは普段の練習ではつけている義足を他の選手に怪我をさせないよう外し、「樹木よりも固くて強い」と自慢する右脚で飛び跳ねながら楕円のボールを追いかけ、何度もタックルした。</p>
<p>充分にプレーできる自信を得たニコは、すぐに友人たちの多くがプレーしている地元のサン・アンドレスに加入する。やがて、彼のポジションはフランカーに固定された。ニコの特性は、長距離を駆けてステップを切るバックスよりも、密集付近の短い距離で何度もタックルをするフォワードの方が適していた。それに、ラインアウトでの高いジャンプ力と上半身の膂力はチームにとって強力なオプションにもなる。そして彼はもちろん、スクラムにも参加する。また、彼は非常にタフで、1度フィールドに入るとなかなか交代したがらないのだという。</p>
<p>こうして憧れだったラグビー選手になったニコだが、彼の幼少期のヒーローはいつもバックスの選手だった。あるアルゼンチンメディアが「やっぱり、フォワードは無骨で、バックスの方がイカしてる？」と尋ねた際、ニコは大笑いしながら「いいや、自分は今フォワードだけど、イカしてるだろ？」と応えている。彼が交代したがらないのは、フィールドに立っているのが楽しくて仕方ないからでもある。</p>
<h4>世界へ</h4>
<p>旅が好きだったニコは、サン・アンドレスでラグビーをしながら通訳の専門学校に通う。そして卒業と同時に住み慣れたアルゼンチンを離れ欧州へ旅だった。</p>
<p>これには切掛があった。折しも<a href="/wc/2007fra/">2007年ワールドカップ・フランス大会</a>が開催され、ニコはそのボランティア・スタッフに選ばれたのだ。数少ないアルゼンチン人スタッフとして1ヶ月半にわたり大会運営に関わった彼は、祖国アルゼンチン代表プーマスの大活躍を見届ける。プーマスは開幕戦で開催国のフランスを破ると、そのまま準決勝まで進む快進撃。優勝する南アフリカに敗れるも、3位決定戦で再びフランスを下し、過去最高位で大会を終えたのだ。</p>
<p>彼にとって夢のようなワールドカップは、しかしこれで終わらなかった。大会終了後に開かれる表彰式で、ニコは自分が「Spirit of Rugby」を贈られると知らされる。この賞は、フィールドの内外でラグビーの魂を体現した選手やコーチ、あるいは運営者、クラブチームなどに授与される。ちなみに、この2年前の受賞者は「ラグビーは少年を最も早く大人にし、大人にいつまでも少年の魂を抱かせる」という名言でも知られる、元フランス代表キャプテンのジャン・ピエール・リブであった。ニコの驚きと喜びは、いかほどであっただろうか。授賞式は正装が求められる。Tシャツにジーンズしか持っていなかったニコは、慌てて近所のできるだけ安い店で、スーツ一式を揃えたという。</p>
<p>授賞式には、まさにキラ星のようなスター選手が揃っていた。彼に賞を手渡すのは、今大会でアルゼンチン躍進の原動力となったひとり、フェリペ・コンテンポーミである。ニコが壇上に呼ばれる直前、会場のスクリーンには彼を紹介する映像が流された。片脚でフィールドに立ち、果敢にタックルする彼の姿を観た会場からは驚きのため息が漏れ、やがて総立ちでの賞賛へと変わった。そこにはアルゼンチンの英雄アグスティン・ピチョットや、ニコの憧れだったギャビン・ヘイスティングスの姿も含まれていた。</p>
<p>この後、ニコは英国に渡りウィットリー・ベイのローカルクラブでプレーする。1シーズンを終えると、次はオランダリーグにも少しの間参加した。そして2009年、サン・アンドレスに戻ってきている。</p>
<h4>ラグビーの魂</h4>
<p>モチベーショナル・スピーカーという仕事について、彼はこのように話している。</p>
<p>『自分のことを話すなんて、正直なところ気が進まなかったよ。なんだかそれって、傲慢な感じがするじゃないか。それに自分は、結局は好きな事をやっていただけのことなんだ。だけど、そう、チームメイトやライバルチームの選手、ラグビー協会など、皆が「何故やらないのか」と訊くんだよ。それで考えたんだ&#8230; 自分の根っこにある考え方や哲学を、聴いてくれる人たちの環境にあわせて異なった角度で考え、話してみたら面白いかもしれないって。いつも同じ事を話す人の言うことは、はじめて聴いても退屈なものだからね。』</p>
<p>ニコは小学生から企業の経営者に至るまで、スペイン語と英語を使って様々な角度から彼の人生と考えを話す。それは相手に語りかける作業でもあり、自分自身と対話することでもあるのだろう。</p>
<p>旅行会社に就職し、講演も行う多忙な中、ニコは変わらずラグビーも続けている。彼は子供の頃を振り返り『自分はラグビーを諦めようと思ったことは一度も無い。それは、自分を諦めることと同じだ。』と話した。その想いは、今も続いているのだろう。</p>
<p>彼が世界中のラグビー関係者から讃えられた「ラグビー魂」の根本に位置するものは、次の言葉に顕れているように思う。世界のラグビー選手はトップクラブに入り国の代表としてワールドカップで戦うことを目標としていると思うが、ニコにとっての目標も同じなのか、あるいは異なるものだったのかという問いに対する応えだ。</p>
<p>『最初、自分にとっての夢は、まずラグビーのフィールドに立つことだった。それが叶った今、目標は、前の試合での自分を超えることだよ。どのチームでプレーするかは、二の次だ。』</p>
<p>彼と同じくスピリット・オブ・ラグビーを受賞したジャン・ピエール・リブは、先に紹介した彼の名言にこう続けている。「私がラグビーから学んだことは、人を制圧することではなく、人と共に生きることだ。だから&#8230;ラグビーは素晴らしい」。相手と競い合うスポーツでありながら、あくまで自分自身と戦う克己の心。それこそが、ラグビーの魂なのかもしれない。あるいはアマチュアリズムの懐古主義と笑われるかもしれないが。</p>
<p>ニコは先の言葉に続けて、次のように話した。</p>
<p>『自分は、試合途中から出場することが多いんだ。でも、時にはスタートから出られることがある。実際、最初からほとんどの時間をフィールドに居られるのは、ものすごく楽しいよ。そうでなければ、果たして自分の出番が来るのかどうか、ヤキモキしながら試合を見なければならないからね。だけど、自分がそれに相応しくないのにスターターに選ばれるのはイヤだ。しっかりと見極められて、選ばれたいよね。』</p>
<p>それは、大企業の重役などをも前に自分のことを話す立派な「大人」が、リブの言うように「少年の心」でラグビーを楽しむ姿に他ならない。だからきっと&#8230; ラグビーは素晴らしいのだ。</p>
<p><iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/vV7bocFr4Eo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></p>
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		<title>フィジアンは飛ぶか(5): 革命の是非</title>
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		<pubDate>Thu, 09 Jun 2011 15:54:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[2011年大会]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[フィジアンは飛ぶか]]></category>
		<category><![CDATA[フィジー]]></category>

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</ol>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/fijian_army.jpg" alt="" title="fijian army" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4714" />結局バイニマラマ率いるフィジー軍は、当初のデッドラインであったスクナ・ボウルの日から4日後の12月5日、「浄化作戦」を決行する。この前日には警察本部を包囲し、事前に武装解除させることに成功していた。</p>
<p>この1ヵ月後、大統領を味方につけたバイニマラマは臨時政府の首相に就任する。そしてすぐに、その権限で臨時内閣を設置。そこにはインド系であることを理由に2000年クーデターで首相の座を追われたマヘンドラ・チョードリーなどの名前もあった。フィジー系、インド系を取り混ぜて閣僚に据えた、多民族主義政権がようやく樹立されたことになる。<span id="more-4711"></span></p>
<h4>これまでのクーデターとの違い</h4>
<p>この4度目のクーデターは、これまでの3度とは明らかに異なった性格のものであった。</p>
<p>過去3度は、いずれも民主主義的選挙の結果として誕生したインド系主体の政権を、フィジー系団体が暴力で駆逐したものである。確かに先住民族にしてみれば「ここは自分たちの国だ」という意識は強いかもしれない。しかし、自分たちで定めた法に則って選出した政府を、民族差別的なエゴから、無血とはいえ軍事力に拠って排除するというのは許される行為ではないだろう。</p>
<p>今回もまた、政府を軍事力で転覆させ権力を奪ったことに変わりは無い。しかし、クーデター首謀者達が「浄化」と呼んだように、今度のクーデターは政府の腐敗が原因である点が異なっている。3度目のクーデターに対する事後処理の政権がフィジー系国民に迎合する政策を行い、度重なる政変によりインド系民族の国外流出が進み少数派となってしまったのをいいことに、政権を維持し続けたのである。その政府を、フィジー系国民の代表でもあり過去のクーデターでは中心的役割すら果たしてきた軍が糺そうとしたのである。</p>
<p>もちろん、バイニマラマの行動が全て民族平等主義の崇高な使命感だけから来ているとは言い切れないだろう。彼が決定的に2000年クーデター組の粛清派となったのは、軍が内部分裂し自らの命も狙われた後からである。義憤だけではなく、私怨や権力欲の側面もあったかもしれない。</p>
<p>一方で、フィジーのジョセファ・イロイロ大統領(当時)は、クーデター直後にバイニマラマへの支持を表明している。強引で偏った政権運営を続けたガラセ首相に対して、軍に従うか、もしくは辞任するよう勧告したという(ただし、後に諸外国の批判を受け、こうした勧告を行った事実を否定する)。今回の「浄化作戦」に世直し的側面があったことも、また否定できないだろう。</p>
<h4>諸外国の反応</h4>
<p>とはいえ、やはり「軍事政権」である。民主的な手続きにより選ばれた政府を、軍事によりひっくり返したことに違いは無い。ニュージーランド、オーストラリアはクーデターを強く非難し、臨時政権の速やかな解散と、国民投票の実施を強く求めていく。しかし、バイニマラマはこれに応じなかった。一部には、人口の6割近くを占めるようになったフィジー系国民により、総選挙を行えばガラセ政権のような差別政策政権が復活してしまう可能性を危惧する声もある。</p>
<p>周辺オセアニア諸国やEUは、フィジー軍事政権への経済制裁や、軍事関係者の入国禁止などの措置をとっていく(このことが、今回のワールドカップ問題への直接の引き鉄になっている)。一方で、中国は軍事政府との関係を急速に親密化させ、多大な援助と多くの移民を送り込んでいる。</p>
<p>こうした中、バイニマラマは2009年に民政復帰の総選挙を行うことを約束していた。しかし結局、これは2014年まで延期となってしまった。</p>
<p>中国のような例外はあるが、総じて軍事政権への非難は強い。太平洋諸島や英連邦も、様々な形でフィジー軍事政権への制裁を行っている。特に経済的・文化的に関係の深いニュージーランドは拒否反応が強く、総選挙の延期に際してはフィジー人官僚の息子に対して、それまでは許してきた研究目的の入国ビザ発行も拒否している。これに対してフィジー政府は国内のニュージーランド高等弁務官を国外退去させる報復を行い、ニュージーランド側もフィジー高等弁務官を追放するという泥仕合にもなっている。</p>
<h4>ワールドカップ出場の是非</h4>
<p>このような背景から、2011年ワールドカップにおいても、ニュージーランド政府はフィジー軍関係者の入国を拒否する姿勢は崩していない。</p>
<p>そして前述の通り、フィジー軍は多くのラグビー選手を擁している。現在のフィジー代表でトップクラスの選手は欧州など海外でプレーしていることが多く、どの程度の人数が軍関係者として抵触するのかは定かでない。しかし、フィジーラグビー関係者は「軍属選手を外せば最強のフィジー代表とはいえず、これが出場できないのであればボイコットも辞さない」という構えを見せている。</p>
<p>ことが政治問題であるだけにIRBからの強制力は何も無いが、彼らはニュージーランド政府に妥協を求めるスタンスでいる。しかしニュージーランド政府は、断乎とした態度を崩すことは無いように見うけられる。</p>
<p>諸外国が、軍事政権否定では一致しつつもトーンに違いがあるのは、やはり現在の軍事政権がそれ以前のガラセ政権に比べて遙かにフェアな政策を行っており、国内でも支持する声が大きいことにも拠っている。南アフリカのアパルトヘイトのような絶対的拒絶までは至っていないのも、そのためであろう。</p>
<p>去る6月4日、フィジーラグビー協会はワールドカップ1次登録メンバーを発表した。最終的には30人に絞る必要があるが、この時点では50人まで選出できる。しかし、彼らが発表した選手は43名であった。このうち30名は海外に籍を置く選手で、フィジー国内でプレーしている選手は13名である。この中に軍関係者が含まれているのかは、現時点では明らかにされていない。あるいはこのリミットとの差分7名が、軍属選手の枠なのかもしれない。</p>
<p>これを書き始めた時点では、あるいはこの回を書くまでに何らかの方向性が出ているのではないかとの甘い期待もあったのだが、今のところ進展は見られない。</p>
<p>果たしてフィジアンは、飛ぶのであろうか。</p>
<p>実はサッカーでも同様の問題はあった。2007年のFIFAワールドカップ予選で、フィジー代表ゴールキーパーに対して入国ビザがおりなかったのである。この時はFIFAの仲裁により、試合会場をフィジーに移すということになった。しかし、今回はワールドカップ本戦である。極端に言えば、フィジーが最後まで勝ち残れば決勝戦をもフィジーで行うことになる。論外である。</p>
<p>個人的にはフィジー側の妥協で決着するのではないかと感じているが、あるいはボイコットという事態も充分にあり得る。そうなった場合は、1987年の西サモアのようにリザーブ国が用意されているのだろうか。ちなみに、<a href="/wc/qualifying-2011/">今回のワールドカップ予選</a>で最終プレーオフ決勝まで残ったのはウルグアイで、オセアニア予選に限れば最後に権利を逃したのはパプアニューギニアである。</p>
<p><a href="/wc/1995rsa/">1995年のワールドカップ</a>では、ラグビーワールドカップを通じて、奇跡的な民族の融和が成された。或いは、今回も全てが最良の方向にまわり、フィジーが真の多民族国家へと進むきっかけにならないだろうか。今は、そんな甘すぎる期待も持っていたいと思う。</p>
<p>ここまで乱文にお付き合いいただいた皆さんは、どういった結末を望まれるだろうか。</p>
<div style="margin-top: 40px; margin-bottom: 20px;">
<em>*ここに書かれた内容は、可能な限り調べながら書いたつもりですが、誤り等あるかもしれません。また、見解の相違なども多々あるかと思います。明らかな誤解等あれば、指摘いただけると幸いです。</em></div>
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</ol></p>]]></content:encoded>
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		<title>フィジアンは飛ぶか(4): 革命よりラグビー</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Jun 2011 15:42:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
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</ol>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/fiji_fans.jpg" alt="" title="fiji fans" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4682" />フィジーという国は先住民族のものだとして格差政策を押し進めるガラセ政権と、偏向思想の是正を求めるバイニマラマ軍指令の確執は深刻の度合いを深めていく。それは最早、一触即発とも言える状態であった。</p>
<p>彼らの反発の根本は、2000年のクーデターに対する思想的な是否であるとも言える。フィジー系民族に有利な政策、クーデター実行犯の恩赦を認めさせようとするガラセ政権のやり方は、あたかもあのクーデターを合法的に成し遂げようとするかのような行為である。そして、あの動乱を合法的に鎮圧したバイニマラマが、今回はそれを非合法な立場で行おうとしているのだ。<span id="more-4679"></span></p>
<h4>ニュージーランド会談</h4>
<p>両者の緊張が一気に高まったのは、2006年11月26日のことである。プライベートでニュージーランドを旅行中だったバイニマラマの元に、フィジー警察が彼を煽動罪で告訴する動きを見せていると連絡が入る。当然、政府の指示によるものである。彼は即座に陸軍へ電話を入れると、予備兵1,000人を動かして政府を制圧する準備をするよう指示を出した。</p>
<p>これに対して、以前よりフィジー情勢を気にしていたニュージーランド政府は逆に好機であると見て、首都ウェリントンで両者の会談を提案する。これを受けてガラセは28日にニュージーランドを訪れ、はからずも中立地帯でのミーティングが実現することとなる。</p>
<p>会談前夜、バイニマラマはメディアに対して次のように話している。</p>
<p>『とても単純な話だ。彼(ガラセ)は、我々の要求に対して&#8221;イエス&#8221;か&#8221;ノー&#8221;かを答えればいい。それで終わりだ。何か問題を話し合おうとしても、無駄なことだ。このミーティングは、彼が人生で参加した最も短いものになるだろうよ。』</p>
<p>しかし会談は2時間に及んだ。なんとか妥協点を探そうとするガラセに対して、バイニマラマは強硬に要求を突きつける。結局この場では結論には到らず、ガラセがバイニマラマの要求を検討するという約束で二人は帰国する。</p>
<h4>最後通牒</h4>
<p>11月30日、ガラセはバイニマラマの要求を部分的に受け入れることを発表する。それは、簡単に書けば次のような内容であった。</p>
<p>* 特に不平等と指摘された3つの法案について、さしあたり施行を停止する。そして特別委員会によりそれらを精査し、違憲であることが確認されれば、これを廃止する。</p>
<p>* 2000年のクーデターが非合法であったことを公式に認める。</p>
<p>* 軍のリーダー(バイニマラマ)に対して煽動罪での告訴を行わない。</p>
<p>* 警察長ヒューズの更迭。</p>
<p>しかしこれは、心情的にはとにかく政権運営としては何も変えないに等しい内容である。バイニマラマは不服として、翌日の正午を期限に全ての要求を呑むか否かを明確にするようガラセに要求した。要求を否定するか、あるいは回答が無ければ「浄化作戦」を決行する&#8230;つまり、実力行使に出るという最後通牒である。</p>
<h4>革命よりラグビー</h4>
<p>ところが、この翌日にあたる12月1日は「スクナ・ボウル」の日であった。年に1度、警察と軍の代表がラグビーで対戦する伝統的なイベントである。</p>
<p>もとより現在バイニマラマの告訴を巡って一触即発の警察と軍であるが、普段からして何かと張り合う仇敵の間柄であった。スクナ・ボウルは、そんな彼らの緊張を放出させるガス抜きのような役割も果たしている。両チームの真剣勝負は、国民も楽しみにしている行事であった。</p>
<p>この日、ガラセ首相と閣僚の何人かは、軍の「浄化作戦」を恐れて身を隠していた。警察長ヒューズは辞任の意向を否定しつつも、故郷のケアンズに退去しており戻ることは無いだろうと噂されている。いわば警察側のトップが軒並み不在となってしまった運命の日、このスクナ・ボウルは、なんと予定通りに行われた。</p>
<p>観客席にはリラックスした雰囲気のバイニマラマが座り、彼の部下達が警察代表を24-16で下すのを祝福していた。その姿は、既にこの騒動の勝者が誰なのかを物語っているようであった。</p>
<p>下の漫画は、12月3日の<a href="http://www.fijitimes.com/">フィジータイムズ</a>に掲載されたものだ。</p>
<div style="clear: both; text-align: center; margin-bottom: 10px;"><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/fiji_article.jpg" alt="" title="The Fiji Times Cartoon" width="496" height="281" class="aligncenter size-full wp-image-4691" /></div>
<p>泣きながら走ってくる男が『大変だ！軍隊が動き出したってよ！どうしよう？』と叫んでいる。しかし彼の友人は『落ち着けよ！まずはラグビー、クーデターは後！！』と諭している。ナウパブリックのエドモンド・ジェンクス記者は<a href="http://www.nowpublic.com/rugby_match_stalls_coup">記事</a>で「こんな風に軍事革命が行われるのは、フィジーだけだろう。何もかもが、すんなりとは行かないんだ。」と冗談めかして書いている。</p>
<p>バイニマラマはインタビューに答え、政府に与えた回答期限を延長したわけではないことを強調した。つまり既に決断はされ、後は実力行使のタイミングだけになったという意味だ。</p>
<p>クーデターは、決して回避されたわけではない。しかし、この12月1日という日に、当事者である軍と警察によって例年通りのイベントが行われたことは、緊張を強いられてきたフィジー国民に、ほんの少しの安堵を与えてくれたのではないだろうか。<br />
(最終話「<a href="/2011/06/if-fijians-fly5/">革命の是非</a>」に続く)</p>
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		<title>フィジアンは飛ぶか(3): 4度目のクーデターへ</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Jun 2011 12:28:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
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</ol>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/blue_moon.jpg" alt="" title="blue moon" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4654" />現在、2011年ワールドカップのフィジー出場を巡って直接的に問題となっているのは、2006年に起きた4度目のクーデターである。</p>
<p>しかし、その問題が何であるかを知るには、3度目のクーデターを含むそれまでの流れを無視することは出来ない。</p>
<p>フィジーの政治と歴史について正確な記述をする知見は自分には無いが、1987年の2度にわたるクーデターから2000年の3度目、そして4度目に到るまでの間にフィジーで何があったのかを、ざっと見ていきたい。<span id="more-4650"></span></p>
<h4>差別的だったランブカ政権</h4>
<p>1987年のクーデター後、フィジー系を中心に人気を得たランブカ中佐は、遂に1990年には首相に就任する。</p>
<p>ランブカは同年、憲法を大きく改正したものを公布する。しかし、これは多分に人種差別的な内容を含んだものであった。なにしろ、クーデターの経緯が「インド系寄りの政権下ではフィジー系の権利が侵される」というものである。大統領や首相に就任できる条件としてフィジー系であることを盛り込むなど、民族差別丸出しの憲法であった。</p>
<p>当然、この内容は国内のインド系からは言うに及ばず、国際社会からも全く受け入れられない。民主的に正当な手続きを踏んで成立した政権を、無血とはいえ軍事クーデターでひっくり返してのことである。ニュージーランドやオーストラリアなど周辺国からも経済制裁が課せられることとなった。</p>
<p>フィジー経済は、主に砂糖の輸出と観光産業から成り立っている。周辺国との関係無しには、安定的に機能し得ないのである。議会の反発により予算案もまとめられず、ランブカ政権は完全に暗礁に乗り上げることになる。</p>
<p>1997年、ランブカは遂に政策を他民族的で平等な社会実現へと切り替える。改めて公布された憲法は極めて公平なもので、国際的にも高い評価を得た。更に一時脱退していたイギリス連邦への再加盟など、周辺社会との協調を進める方向へ舵をきった。</p>
<p>こうして公平さを取り戻した新憲法下で行われた総選挙だったが、この新憲法改訂に尽力したフィジー人政党と国民連合党は、共に惨敗してしまう。それ以前の不平等憲法により国を混乱させたツケを払わせられた形であろうか。</p>
<p>余談になるが、2006年になりランブカはインド系新聞のインタビューで当時を振り返り、このクーデターについて「民主主義に反する行為だった」と謝罪している。政情が揺れる度に煽動罪などで当局からマーク、場合によっては逮捕されることもあり政界からは身を引くと、2008年にはパシフィック・アイランダーズの欧州ツアーマネージャとして再びラグビー界と関わりを持つようにもなっている。</p>
<p>さて、代わって政権を握ったのは、再び労働党である。マヘンドラ・チョードリーがフィジー史上初のインド系首相となった。そして&#8230;またしてもクーデターである。</p>
<h4>3度目のクーデター</h4>
<p>2000年5月19日、武装集団が国会議事堂へ押しかけ、チョードリー首相はじめ36人の議員を人質に2ヶ月にわたって立て篭もる事件が発生する。首謀者はジョージ・スペイトという欧州系の男であったが、彼もまたフィジー系の村落で生まれ、フィジー諸島共和国はフィジー系の手によって治められるべきであると主張していた。</p>
<p>彼らを支持するフィジー系国民も多かったが、ランブカの時とは異なり、今回は軍が同調しなかった。フィジーでは伝統的に軍隊はフィジー系が握っており、当時の司令官バイニマラマも然りである。しかし彼は民族主義的な思想に反発心を持っており、今回のクーデターにも軽々に加わることを避けたといわれる。だが、かといって即座にチョードリー政権に従ってクーデター鎮圧に動くわけでもなく、傍観に近いスタンスであった。このことから軍内部でも意見が分裂し、軍を離脱して革命勢力に加わる者も現れている。</p>
<p>立て篭もりから約3週間後の6月9日、スペイトは多民族主義的な1997年憲法廃止を発表する。これを機に軍も遂に鎮圧に動き出し(ただし公式にはスペイト暗殺作戦等については関与を否定)、7月13日に事実上鎮圧。バイニマラマは憲法廃止を即座に無効とした。続いて27日に反抗勢力を国家反逆罪で一斉検挙し、事態を収束させた。スペイトは終身刑を宣告され、未だに投獄されている。</p>
<h4>今までとは異なる、4度目のクーデターへ</h4>
<p>ここまでのクーデターは、全てインド系政権に対してフィジー系武装勢力が権利を強奪しようとする形で行われてきた。しかしフィジーにとって4度目となる2006年のクーデターは、それまでとは趣を異にするものであった。</p>
<p>2000年の人質事件鎮圧後、軍司令官バイニマラマは事後処理の臨時政権として統一フィジー党のライセニア・ガラセを首相として指名する。他民族平等主義のバイニマラマは1997年憲法の方向性での政策を期待していた。しかし、彼の想いは裏切られることになる。</p>
<p>翌年に改めて行われた総選挙で、ガラセは保守同盟マタニトゥ・ヴァヌア(CAMV)と協力体制をとる。このCAMVは経済政策などで統一フィジー党と近い考え方であったが、そもそも2000年のクーデター参加者も加わっていたフィジー系寄りの、やや過激な政党であった。彼らのマニフェストには、このクーデター参加者の恩赦なども含まれていた。</p>
<p>バイニマラマの想いとは別に、ガラセ率いる連立は政権を維持する。彼らはフィジー系に限った経済援助案など、偏った政策を進め始める。閣僚には露骨に人種差別発言を繰り返す者もいたが、彼らがそれを理由に処罰されることは無かった。そしてクーデター参加者の恩赦が議題に挙げられる至り、バイニマラマの我慢も限度を超えた。</p>
<p>2006年の任期満了に伴う選挙に際し、バイニマラマ率いるフィジー陸軍は、各地で反ガラセキャンペーンを展開する。ガラセの支持基盤であるフィジー系国民は「戦士たること」に価値を置く好戦的な民族が多く、軍隊は人気があった。一方のガラセ政権はCAMVと組み、フィジー系に有利なマニフェストにより実利で彼らの票を固めようとする。結果、87年のクーデター以来インド系国民の海外流出が増えていることもあり、ガラセは再選を果たした。</p>
<p>両者はメディアなどを通じて事あるごとに互いを罵倒し合い、関係を悪化させていく。クーデターへの火種は、誰の眼にも明らかなほど大きくなっていった。<br />
(第4話「<a href="/2011/06/if-fijians-fly4/">革命よりラグビー</a>」に続く)</p>
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		<title>フィジアンは飛ぶか(2): 伝言</title>
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		<pubDate>Sun, 05 Jun 2011 15:45:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[2011年大会]]></category>
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		<category><![CDATA[フィジー]]></category>

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		<description><![CDATA[突如勃発した軍事クーデターにより、フィジー代表のワールドカップ出場は全く不透明になってしまう。 ニュージーランドのワールドカップ事務局はフィジーへの連絡を繰り返し試みるが、連絡手段は閉ざされ状況の見えない状態が続く。 大 [...]
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			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/tel.jpg" alt="" title="tel" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4569" />突如勃発した軍事クーデターにより、フィジー代表のワールドカップ出場は全く不透明になってしまう。</p>
<p>ニュージーランドのワールドカップ事務局はフィジーへの連絡を繰り返し試みるが、連絡手段は閉ざされ状況の見えない状態が続く。</p>
<p>大会を目前にして、運営側も決断を迫られつつあった。フィジーの参加に見切りをつけ、リザーブの西サモアを呼ぶかどうかである。<span id="more-4568"></span></p>
<h4>西サモア</h4>
<p>招待制で行われた栄えある第1回ワールドカップに、西サモア(現在のサモア独立国)は呼ばれていなかった。フィジー、トンガという彼らがライバルと目している隣国が招待されているだけに、悔しい思いは強かったであろう。</p>
<p>オセアニアからはニュージーランド、オーストラリアの共同開催国が当然参加する。これに更に3カ国を呼ぶのは、バランス的に難しいものがあった。パシフィックアイランド3チームから2つを選んだ時、西サモアが外されたのは「実力的に劣る」というよりは、ラグビー先進国にとって彼らが謎のチームであったためである。西サモアは当時、<a href="/nations/sam/full/">国際試合</a>はフィジー、トンガとしか行っていなかった。かろうじてニュージーランドマオリとの交流試合もあったが、それも79年が最後である。86年にウェールズを迎えて初の欧州勢との対戦を実現させたが、ワールドカップ参加国選定の段階では「名前は知っているが、実態は誰も知らない」ようなチームであったようだ。</p>
<p>そんな西サモアに、思いもかけずワールドカップ出場の機会が巡ってこようとしていた。しかし、ニュージーランドラグビー協会のディック・リトルジョンは、フィジーの参加を完全に見限るところまでは決断できずにいた。彼は引き続きフィジーへの連絡を試みつつ、水面下で西サモア召集に備えた準備を始めることとする。</p>
<h4>どんなジャージ？</h4>
<p>大会プログラムなどの差し替えを準備するに当たり、さしあたっての問題は、誰も西サモアのユニフォームが現在どのようであるかを知らなかったことである。もちろん当の西サモアラグビー協会や頻繁に対戦しているトンガなどに尋ねれば分かることであったが、何しろまだ秘密裏のことである。自分たちで捜してみるしかなかった。</p>
<p>担当のイヴァン・ヴォダノビッチは、西サモアのジャージを求めて街を彷徨う。まずはスポーツショップなどをまわるが、売り場はワールドカップ参加国のジャージが占めており、目当てのものはどこにも無かった。彼は、見慣れないジャージを着た人間を見れば、誰彼構わず「どこのジャージ？」と訊いてまわっていた。</p>
<p>ある日、若者の一群の中に見たことのないジャージを見かける。イヴァンはいつものように尋ねると、少年は「サモア」と答えた。西サモアのラグビー仲間からもらったものだという。イヴァンは少年を必死に説得し、最新のオールブラックスのジャージと交換してもらうことを得た。ようやく、彼は西サモアのジャージを手に入れる。</p>
<h4>フィジーにて</h4>
<p>ニュージーランドでそのような焦燥感が募っているころ、フィジー国内では状況認識に大きな温度差があった。シンプキンはじめ代表チームは、チームの先輩でもある革命政権首班ランブカ中佐がワールドカップへの出場を請け負ってくれたため、楽観的にトレーニングを続けていた。</p>
<p>一度不安になったシンプキンは、改めて革命政府にワールドカップの件を質問している。その際も、その日のうちにランブカ直々に「ニュージーランドへの特別機を飛ばすので大丈夫だ」という回答を得ていた。彼は安心して、チームメンバーにフォワードプレーを教えるという難題に挑んでいた。</p>
<p>フィジータイムス紙のスポーツ担当であるスリ・クリシュナマーシの元に外信の記者から問い合わせが来たのは、そんな頃であった。記者が伝えてきたのは、フィジーがワールドカップ出場を断念し、代わりに西サモアが出場するという噂が流れているということだった。クリシュナマーシは「そんなハズはないが、確認する」とだけ返信して、慌ててシンプキンの元を訪ねた。</p>
<h4>届けられた伝言</h4>
<p>改めてシンプキンから「フィジー代表はワールドカップへ向かう」という確認をとると、クリシュナマーシはオフィスに飛んで帰り、電話を掴んだ。ニュージーランド・オークランドにあるラグビーニュース紙編集部に勤める友人、ディーン・マクラクランに連絡するためである。しかし国外への通話は繋がらないようになっていた。</p>
<p>クリシュナマーシは電話局のオペレータへダイヤルし、フィジーという国の一大事であることを訴える。長いやりとりの末、遂にオペレータの女性はニュージーランドへの回線を繋いでくれた。彼はマクラクランに、フィジー代表は間違いなくワールドカップに参加するとラグビー協会に伝えてくれるよう頼む。</p>
<p>その報は、遂にニュージーランドラグビー協会に届けられた。リトルジョンは「それを聞いた時は、本当に嬉しかった」と話す。</p>
<h4>到着の日</h4>
<p>イヴァンが苦労の末に手に入れた西サモアのジャージがどうやら不必要になったと分かった後も、リトルジョンは完全に安心することは出来なかった。クーデターの終わりが報じられることもなく、代表チームと直接連絡をとることもできずに、到着予定の日を迎えてしまったのだ。</p>
<p>当日になっても、コンタクトは取れないままである。彼は何か起きたのではないかと心配し、オークランド空港まで足を運ぶ。</p>
<p>ナンディからの特別便は到着していたが、チームの姿はまだ見えなかった。リトルジョンは耐えられず、先に出てきた男に尋ねてみる。男自身はチームを見てはいなかったが、パイロットと話をしてチームが乗っていることは聞いたという。リトルジョンは大きな安堵のため息をつくと、待ち焦がれた相手の出てくるのを待った。</p>
<h4>その後</h4>
<p>ニュージーランドへのフライトを得たフィジー代表は、試合でも自慢の脚で飛んでみせた。フォワードプレーへの課題も残しつつ、その予測不能なプレースタイルは多くのラグビーファンを魅了した。</p>
<p>革命政権はこの後、与野党連合によるデウンバ協定締結をもって一時解散する。しかし、ランブカは「この協定にはフィジー系国民の民意が反映されているとはいえない」として同年9月に再びクーデターを起こす。今度はマラ前首相を首班とした暫定政権を成立させ、フィジー系寄りの政策で経済復興を目指すと共に国名を「フィジー共和国」へと変更。英連邦からの脱退を宣言した。</p>
<p>しかし、このクーデターを境にフィジー系とインド系の対立は以前よりも深刻化する。政情は依然として安定せず、民族間の対立を背景にした争いは続いていく。</p>
<p>そしてそれはやがて、再びフィジーのラグビー代表と、ニュージーランドを巻き込んでいくことになる。<br />
(第3話「<a href="/2011/06/if-fijians-fly3/">4度目のクーデターへ</a>」に続く)</p>
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		<title>フィジアンは飛ぶか(1): 1987年のクーデター</title>
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		<pubDate>Sun, 05 Jun 2011 08:35:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[2011年大会]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[フィジアンは飛ぶか]]></category>
		<category><![CDATA[フィジー]]></category>

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			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/fiji_flag.jpg" alt="" title="fiji" width="150" height="151" class="alignleft size-full wp-image-4551" />1987年の第1回ラグビーワールドカップ。天性のバネと自由奔放なプレースタイルから「フライング・フィジアン(空飛ぶフィジー人)」などと呼ばれ、世界のラグビーファンを魅了したフィジー。</p>
<p>しかし、この大会の直前まで「フィジーは飛ばないかもしれない」と心配されていた。それはフィールド上の選手たちの問題ではなく、不安定な政情によるものである。</p>
<p>そして2011年の今、同種の問題が起きようとしている。<span id="more-4548"></span></p>
<h4>フィジー社会とラグビー</h4>
<p>フィジーにおいて、ラグビーはまさに国民的スポーツである。95万人の国民のうち、登録されたラグビー選手は実に8万～9万人にのぼる。単純に言って、国民12人に1人くらいはラグビー選手だということになる。</p>
<p>ラグビー代表の試合がある日は、皆がTVの前に釘付けになる。試合中は、おしゃべりなど許されない。約300の島々から成るフィジーには当時、テレビのほとんど無いようなエリアも多く、そういった場所では舟で大挙して大きな島に移るか、数少ないテレビの前にギッシリとひしめいて観戦するという。ましてやフィジーでの試合となれば、グラウンド周辺の木によじ登って試合を観ようとする中に入れなかった観客でいっぱいになるような熱狂ぶりであった。</p>
<p>19世紀にイギリスがフィジーを植民地とし、砂糖プラントのために多くのインド人労働者を入植させた。以来、フィジー国民は先住民族のメラネシア系とポリネシア系の混血であるフィジー系と、インド系の民族が二分するようになる。ラグビーは特にフィジー系に人気で、最近はインド系を中心にサッカーも広まってきている。また、システムの近代化が激しい15人制ユニオンラグビーよりも身体能力の活きるセブンスを好む風潮もあり、近年はリーグラグビーも人気になってきている。</p>
<h4>ニュージーランドからのコーチ</h4>
<p>1985年に、フィジーラグビー発展のためにニュージーランドからジョージ・シンプキンがコーチとして招かれる。</p>
<p>ニュージーランドとフィジーは地理的にも近く、経済的にも繋がりが深い。元々フィジーへラグビーが伝わったのもニュージーランドからだと言われ、現在でもラグビーでの環境を求めてニュージーランドへ移住し、黒いジャージに袖を通すフィジー人も多い。</p>
<p>シンプキンは当初2週間の契約であったが、やがてフィジーに居をかまえ、正式に代表のコーチとして母国で行われるワールドカップで戦うことを決意する。当時を振り返り、シンプキンは苦笑いと共に苦労を語った。</p>
<p>『まず、選手たちを集めるのが大変だったよ。彼らは皆、異なる島にいて別々の仕事をしているからね。』</p>
<p>これは現在とは比較にならないほど交通・通信網が発達していなかった当時おいて、本当に大変なことだったようだ。無人島を含めた多くの小島から成る国で、それぞれの間は電話すら通っていない場所が多い。そもそも代表に召集する選手の選考すら噂話レベルの評判を基にすることもあり、食料を運ぶ舟に手紙を託して召集をかけていたという。シンプキンは代表キャンプの日、それぞれの選手に4つの幸運を祈らなければならなかった。手紙が無事に届くこと、相手が文字を読めること、代表でのプレーに興味を持つこと、そして当日、無事にたどり着いてくれることである。</p>
<p>『次の難題は、彼らにフォワードプレーを引き受けさせることだった。とにかく、それを嫌ったからね。フィジーの選手たちにとって、能力とはつまり下半身の筋力だった。上半身に関しては、かろうじて世界で戦えるレベルしかなかったよ。』</p>
<p>コーチとしてフィールド内外で多くの苦労を強いられたシンプキンであったが、彼はこのおおらかな国で、彼らなりのひたむきさでラグビーを楽しむ選手たちを愛していた。ラグビーを心から愛する国民性にも感動していた。</p>
<p>ワールドカップを直前に控え、シンプキンは首都スバの軍事基地で仕上げのキャンプを行うことにする。無事に代表へ選んだ選手たちが集まった時、彼は「これでもう大丈夫だ」と胸をなでおろしたという。</p>
<p>しかし、本当に大変なことは、これから始まった。</p>
<h4>軍事クーデター</h4>
<p>1987年5月14日早朝、シティベニ・ランブカ陸軍中佐(当時)の指揮する覆面の一部隊が議会を急襲し、無血クーデターを起こす。ラグビーワールドカップ開幕の、わずか8日前のことであった。</p>
<p>このクーデターには、民族間の争いが大きく関わっていた。この年の総選挙で、労働党および国民連合党の連合が僅差での勝利をおさめている。結果、ティモチ・バヴァンドラ労働党党首を首班とする新連立政権が誕生する。労働党の支持者は主にインド系であり、これはフィジー初のインド系内閣誕生を意味していた。先住民族であるフィジー系の間で、先祖よりの権利が脅かされることへの危機感が高まっていく中で勃発したクーデターであった。</p>
<p>この暴挙を、国際社会は強く非難した。特にオーストラリア、イギリス、アメリカ、それにニュージーランドはいち早く新政権を認めない声明を出す。</p>
<p>この日の夕刻、スバの軍事基地にも多くの兵士たちが気勢を上げながら入ってきた。この時点でシンプキンはまだ政権がひっくりかえったことなど知らず、練習を続けていた。</p>
<p>軍には特にラグビー選手が多かった。クーデターの首謀者であるランブカ中佐からして、<a href="/2010/08/the-ladies-from-hell/">1970年にバーバリアンズからの記念すべき勝利を奪った</a>際のフィジー代表メンバーである。シンプキンは彼らから事情を聞き、はじめて深刻な状況を知る。ニュージーランドへのフライトはおろか、国外への電話すら断絶されていたのだ。</p>
<p>その頃、政治的な非難とは別に、ニュージーランドのラグビー協会でも、ある種のパニックが起きていた。なにしろワールドカップは目前である。</p>
<p>「果たして、フィジーからの便は飛ぶのか。」</p>
<p>フィジー代表がワールドカップに参加できるのかどうか。誰にも、その答えは分からなかった。<br />
(第2話「<a href="/2011/06/if-fijians-fly2/">伝言</a>」に続く)</p>
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		<item>
		<title>2011年W杯への熱い思い出コンテスト</title>
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		<pubDate>Sun, 29 May 2011 15:51:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[2011年大会]]></category>

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		<description><![CDATA[2011年ラグビーワールドカップが、いよいよ近づいてきました。チケットも発送になって、ファンのテンションも上がりっ放しです(自分のところにも土曜の午前中に届いたようなのですが、不在にしていたため未だ手にできておらず&#8 [...]
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</ol>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/05/kiwi_fans.jpg" alt="" title="kiwi fans" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4523" />2011年ラグビーワールドカップが、いよいよ近づいてきました。チケットも発送になって、ファンのテンションも上がりっ放しです(自分のところにも土曜の午前中に届いたようなのですが、不在にしていたため未だ手にできておらず&#8230;楽しみです)。</p>
<p>先日は、<a href="http://www.facebook.com/rugbyworldcup">Facebookのファンページ</a>で大会への熱い想いを競い合うコンペティションがありました。優勝は、開催地ニュージーランドのお父さん。賞品はNZ$1,000相当のオフィシャル・ワードローブだそうで。どんなものなんでしょうね。</p>
<p>ちょっと、ご紹介。<span id="more-4522"></span></p>
<div style="text-align: center;">*</div>
<p><em>87年のことです。私は休日をワイロアにある両親の家で過ごしていたのですが、夕食の時、突然父さんに尋ねられました。<br />
「6週間後くらい、お前は何をしているかな？」<br />
私は顔も上げないで、不満気に言ったものです。<br />
「知らないよ。なんで？」<br />
父さんは少し間をおくと、ニッコリと笑って言いました。<br />
「そうだな&#8230;もし、特に予定が無いのなら、父さんと一緒にワールドカップ決勝へ行くというのは、どうだい？」<br />
私は驚いて何も言えなくなり、こんな風にワイロアでラムローストを囲んで座っている自分たちが、どうやってそんな凄いところへ行けるのか不思議に思ったりしたものです。</p>
<p>イーデンパークで父さんの横に立って国歌を歌いながら、私はそれがいかに凄い日であったのかを改めて知りました。私は、その雰囲気の全てを味わおうと周囲を見回して、逞しい大男たちが眼の端にたまった涙を拭うのを見たのです。</p>
<p>そして数ヶ月前、私はこの人生における素晴らしい時を再現する機会を得ました &#8211; 今度は、私が自分の息子に。「おめでとうございます」と書かれたメールを開いた瞬間、中身に眼を通すまでもなく決勝戦のチケットが手に入ったことが分かりました。すぐに電話を掴み息子に「今年の10月末ごろ、何をしてるかな？」と尋ねます。答えを待つ間、私は心臓がひっくり返るような気がしました。</p>
<p>父は残念ながら、もう居ません。しかし彼は、私が息子と共に再びあの大いなる日を迎えることを、笑顔で見ていてくれているでしょう。</p>
<p>- カーク・ドイル (ニュージーランド)</em></p>
<div style="text-align: center;">*</div>
<p>いかにもキウイのお父さんという感じで、いいですね。87年の<a href="/wc/1987nzl/">第1回ワールドカップ</a>はニュージーランドが優勝した大会です。彼は父親と一緒に、それこそ最高の時を味わったわけですね。そして今度ももちろん、その再現を期待しているでしょう。</p>
<p>ちなみに2位には、意外にも(?)米国に住む中国系なお名前の女性も。周囲がラグビーに興味が無く、なんならワールドカップがあることすら知らず、寂しい思いをしていると書いています。しかしFacebookで世界中のファンとラグビーの話で盛り上がれるのが嬉しいと。スプリングボックスファンのようなので移民なのか、あるいは南アに多い金髪美形選手のファンなのでしょうか。</p>
<p>興味のある方は、<a href="http://apps.facebook.com/contestshq/contests/119425/prize_giving?ogn=facebook">こちら</a>でどうぞ。みなさんには、何か思い出がありますか？<br />
あ、ちなみに写真は優勝したドイルさんではなく、単なるイメージです。</p>
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