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		<title>ニュージーランドの一番長い夜</title>
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		<pubDate>Wed, 26 Oct 2011 05:26:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[2011年大会]]></category>

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		<description><![CDATA[ラグビーワールドカップ2011は、開催国ニュージーランドの優勝で幕を閉じました。開幕から約1ヶ月半NZに滞在し続け、すっかりラグビー漬けの毎日でしたが、それももうすぐ終わりです。 こちらでの様子についてはTwitterで [...]
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<p>こちらでの様子については<a href="http://twitter.com/nao58">Twitter</a>で<a href="http://twitter.com/#search?q=NZ短信">【NZ短信】</a>として書いてきましたが、最後に決勝戦の日について、空気感を忘れないよう書いておこうと思います。</p>
<p>いわゆる「観戦記」は柄で無いので、試合の部分ではなく前後の様子について。<span id="more-4922"></span></p>
<h4>ファントレイル</h4>
<p>朝から晴天に恵まれ、期待と不安でソワソワと落ち着かない一日の始まり。<br />
朝ごはんを食べたり、犬の散歩に行ったり、お昼ごはん食べたり、いつも通りに過ごしたんでしょうけど、何か記憶は曖昧です。ともあれ、17時くらいに車で出発。</p>
<p><a href="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/10/fantrail.jpg"><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/10/fantrail.jpg" alt="" title="fantrail" width="322" height="598" class="alignright size-full wp-image-4926" /></a>決勝戦の今日は「ファントレイル」をやってみることにしました。これは、ニュージーランドを象徴するバイアダクトのワーフ(ジャイアント・ラグビーボールのあるところ)から、最大の繁華街であるクインストリートを抜けて、決勝戦の会場であるイーデンパークまで4km強の道のりを歩いていこうという企画です。</p>
<p>途中にはパフォーマーが居たり、小さな催しがあったり。しかし基本的には、ファンがみんなで歩いたら楽しいよねという、いかにもキウイらしい牧歌的なイベントです。ゆっくり歩いて1時間の道のり。正直、参加者はそれほど多くないと思っていました。</p>
<p>オークランドシティに着いて、駐車場を探します。いつも1日で4ドルの駐車場が意外と空いていたので、さっそく入ることに。「なんだ、やっぱりまだ時間も早いし、そんなに混んでないね」なんて思ったのですが&#8230; 入り口に「今日は26ドル」の看板が。当社比6倍強です。ボッたくりです。道理で空いてるワケで。ちなみに同行していたキウイに訊いたら「ボる」は英語で&#8221;price-gouging&#8221;というそうで、おかげで勉強になりました。</p>
<p>もちろん、こんな暴利を許すわけにもいかず、別の駐車場を探すことに。ま、それほど苦労せずスカイシティに駐車できました。しかし、すでにクインストリートは人、人、人。ワーフのファンゾーンに行って大スクリーンで観戦する人、スポーツバーで飲んで騒ぐ人、バスや電車でスタジアムに向かおうとする人など、みんなこのクインストリートを交差します。思い思いの黒衣に包まれた人たちが、同じようにソワソワと行き交っていました。</p>
<p>もうひとり友達と合流し、5人でファントレイル開始。正確なスタート地点には戻らず、ちょっとズルしてアオテア・スクエアからスタートです。しかし、この時点で<a href="http://twitpic.com/74g699">コースを辿って行く人が多数</a>。ちょっとビックリです。</p>
<p>歩き始めてすぐのマイヤーズ・パークでは、学生が<a href="http://twitpic.com/74g9nf">作品を置いたり</a>、シャボン玉飛ばしたり。それぞれがシッカリと「ブラック」のテイストで、明るい緑の公園がモノトーンで埋められた、なかなか不思議な空間でした。しかし暗い感じは全くせず、子供たちの笑い声が走り回る楽しいスタートです。</p>
<p>ショッピングモールを抜けると、Kロードへ。繁華街ですが、開いてる店はどこも満員。しかし、結構な店が閉まってます。「かきいれ時のハズなのに、なんで今日閉める？！」と妙にお店の心配をするキウイの友達。お店の人も、もしかしたらスタジアムに向かってるんじゃないのかな。</p>
<p>やがてグレートノースロードに至ると、空いている店も出てきました。なぜかインド料理の店で腹ごしらえ。入ったときはガラガラだったのですが、食べてる間に満員に。どうやらシティに近い方から一杯になって、遠い店へ埋まっていっている様子。ともあれ、ものすごく美味しいお店でした。</p>
<p>道端では、ギターを持って歌う人、マオリ民謡にあわせて踊る人、ピエロに扮装している人などが点在しています。彼らは、運営側に頼まれた人なんだろうと。楽しい。フェイスペイントを入れてくれるブースもあって、子供を中心に行列が出来ていました。</p>
<p>そうしたオフィシャルでないファンも、一生に一度かもしれない日を目一杯楽しんでいます。5～6人のゴツい兄ちゃんたちの一団が、スクラム組みながら横断歩道を渡ってきました。巻き込まれたら死にそうな勢い。車道には、サモア旗をつけた車が激しくパンピング。明らかに改造してます。</p>
<p>別の横断歩道を渡ろうとしたら、反対側からラグビーボールをパスしてきた兄ちゃんもいました。受け取った別の兄ちゃん(別に二人は知り合いじゃなく、単なる通行人同士)が、すかさずパント。しかしミスキックで明後日の方向に。最初にボールを投げた兄ちゃんが全速力で拾いに行く姿が、可哀相でもあり可笑しくもあり。</p>
<p>ラグビーのレフリーに扮装しているパフォーマーもいました。何の気なく横をすり抜けようとしたら、キウイの友達が突然彼に指を突きつけられ、「オフサイド！」のコール。続いてレッドカードを突きつけられたり。オフサイドでレッドって、一体どれだけ悪質なのを繰り返したんだろうと爆笑しきり。</p>
<p>沿道の家では、軒先でパーティをしているところが多く見られました。そうした場所ではティーンから20代前半くらいに見える若い子たちが多く、歩いている人とからかい合ったり、塀の上で旗を振ったり。</p>
<p>結局、2時間くらいかかってイーデンパークに到着。思った以上に楽しく、驚くほど多くの人と一緒に歩いてきました。後で発表されたところによると、ファントレイルを歩いたファンは41,000人。超満員のイーデンパークが61,000人ですから、およそ2/3にあたるファンが歩いてきたことになります。みんな元気。</p>
<p>何万人もの人が、同じように黒いジャージを着て、同じ想いを抱いて、笑顔で同じ道を歩く。それだけのことですが、本当に楽しいイベントでした。</p>
<h4>スタジアム</h4>
<p>スタジアム周辺でも、やはり多くのパフォーマーが。しかしこの辺の様子は、大会中の他の試合と大きくは変わらず。試合会場を目前にして、リラックスして歩いてきたファンも緊張が高まっているように見えます。</p>
<p>今回本当に幸運なことに、20試合近く観た中で<a href="http://twitpic.com/74ii8r">最も良い席</a>が決勝戦で当たりました。試合展開が観やすい最上段ブロックの、最前列。国歌斉唱の際に選手と正面で向かい合えるサイドです。</p>
<p>Lv4まで、歩いてきた勢いを駆って階段を使用。ところが、Lv3の踊り場付近で、胸をおさえて苦しそうにうずくまるお爺ちゃんが。同行者らしき3人のお爺ちゃん、お婆ちゃんも心配そうにオロオロしてます。「セキュリティ呼びましょうか？」声をかけると、既に呼びにいっているとの返事。しばらくして少し落ち着いたらしく、起き上がって呼吸を整えていました。「今日は帰った方が&#8230;」普通ならそう思うところですが、絶対に断固、死んでも帰らないんでしょうね。心配でしたが何も出来ず、「気をつけて」と席に向かいました。もしこの日負けていたら、あの人は本当に亡くなっていたんじゃないかと(笑い事じゃないですが</p>
<p>隣の席に座った夫婦は、米国人。今は仕事の関係でNZに住んでいますが、少し前は徳島に居たそうで。しかし、日本代表は応援してたけど、米国代表は一切応援してないそうです。理由を訊いたら「トッド・クレバーが嫌いだから」。なんでもスポーツマンらしからぬ言動が多いらしく。仮にニュージーランドとアメリカが対戦したとして、100%オールブラックスを応援するとのこと。もう、しっかりキウイ。</p>
<p>8時半をまわって、いよいよ試合開始30分前。恒例のニュージーランド・アーミーによる鼓笛隊が登場します。そしてQFから恒例になった、Hakaのパフォーマンス。彼らも「俺、イーデンパークでHakaやったんだぜ！」と語れるのは自慢でしょうね。</p>
<p>続いて、NZの歌姫ヘイリーによるWorld in Union。長い陽の落ちた夜空に、彼女の透明な歌声が響き渡ります。このあたりから、猛烈に緊張してきました。4年間の、いや、24年間の集大成となる瞬間が訪れようとしているのです。</p>
<h4>試合後</h4>
<p>疲労困憊。</p>
<p>歓喜を爆発させるというより、勝った実感が湧かないまま呆然とフィールドを眺めているうちに、セレモニーの準備が整いはじめました。</p>
<p>笑顔でメダルを受け取る選手たちの顔を見ていると、徐々に喜びがこみ上げてきます。そして、故障により途中でスクォッドから外れたことで「メダルは授与されないのでは」と言われていたミルズ・ムリアイナが映し出された時に、唐突に本当に「良かった！」という気持ちになりました。スレイドも、カーターも、すっきりした顔で晴れやかにメダルをかけられています。</p>
<p>隣の夫婦を見ると、奥さんは大きな眼を潤ませていました。周囲のキウイも、号泣しているような人はいませんが、みな一様に胸から湧き上がる感慨を、ゆっくりと味わうかのようにフィールドを見つめています。</p>
<p>エリスカップを掲げるリッチー。比喩ではなく「夢にまで見た」光景です。オールブラックスが勝ち残ったこと。度重なる故障に耐えて彼自身が立っていられたこと。いずれもが当然の結果ではなく、奇跡の産物に思えます。</p>
<p>彼の手招きで、選手たちが集合。紙吹雪が舞い上がりました。フィールド上はかなり風が吹いているようで、選手の上には舞い降りず、少し離れたところに降り積もってしまいます。やがて選手たちがスタジアムをゆっくりと周回しはじめると、スタッフの子供たちが紙吹雪の中を転げまわって遊んでいました。</p>
<p>我々とは反対側の正面まで達すると、集まってHakaが始められます。試合前はカパオでしたが、今回はカマテ。やはりオールブラックスといえば、カマテを観たい。試合後に観客席に向かってやるのはセブンズでは恒例ですが、15人制では珍しいような。</p>
<p>カップは、選手から選手に渡されます。中にはシャンパン(?)か何かが注がれているようで、それぞれ口をつけ、まさに「勝利の美酒」を味わっていました。しかしSBWは、カップを覗き込んだだけで次の人へ。彼はムスリムなので、やはりお酒は飲まないのでしょう。アリ・ウイリアムズは、はしゃぎすぎてカップの蓋を落としてました。</p>
<p>先ほど子供たちが遊んでいた紙吹雪に、イズラエル・ダグとコーリー・ジェーンがダイブ。仰向けに大の字になって、手足をバタバタとさせて笑っています。ダグはその後も、音楽に合わせて踊ったりノリノリ。プレッシャーから解き放たれて、本来のキウイの兄ちゃんに戻った姿なんでしょう。</p>
<p>ヘイリーが再び登場し、1曲歌いました。しかし、選手は既に散り散りに歩いているし、あまり皆聞いていないようでした。ちょっと残念。</p>
<p>ようやくスタンドを後にして、トイレに。隣で用を足しているお爺ちゃんが、しみじみと呟いた言葉が忘れられません。</p>
<p>&#8220;Ah, this is the happiest pee in my life&#8230;&#8221;(人生で一番幸せな小便だ&#8230;)</p>
<p>この日、ニュージーランドでは数多くの「人生で一番幸せな」瞬間をかみ締めた人がいたことと思います。期待を裏切られ続けた24年間は、最後までほんの少し裏切られつつも、ようやく報われました。</p>
<p>そして、2011年ニュージーランド大会は終わりを告げ、2015年大会への道のりが始まっています。次に「一番幸せな」瞬間を味わえるのは、どの国の人たちでしょうか。日本も日本なりに最高の瞬間を、ファンに感じさせてくれることを祈りつつ。</p>
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		<title>魂の詩(1): アイルランドの叫び</title>
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		<pubDate>Thu, 29 Sep 2011 05:20:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史]]></category>

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			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/09/anthem.jpg" alt="" title="anthem" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4881" />去る9月17日、ニュージーランド・イーデンパーク。アイルランド代表が、オーストラリア代表・ワラビーズを下す番狂わせを演じました。スタジアムを包む&#8221;Ireland&#8217;s Call&#8221;の大合唱が、ここが彼らの祖国から遥か離れた地球の裏側であることが信じられないほど、力強く彼らの代表を鼓舞したと感じます。自分も観客席で、一緒になって歌ってしまいました。</p>
<p>ラグビーでは多くの国が、ああした「アンセム」を持っています。スタジアムやバーで合唱する彼らを見ると、「ニッポン、チャチャチャ」しかない自分たちとしては羨ましくなります。<span id="more-4880"></span></p>
<p>しかし、彼らとて誰かが「これがアンセムですよ」と提供してくれたものを漫然と歌っているわけではありません。その誕生にはそれぞれの物語があり、それゆえに彼らが魂を込める理由があるように見受けられます。</p>
<p>今回、短いシリーズで、いくつかのアンセム誕生について紹介します(実は、<a href="/nations/">各国の紹介ページ</a>に書いてあることの焼き直しですが)。それによって、何かの拍子に日本のアンセムが生まれるきっかけになれば最高なのですが。</p>
<h4>ラグビー「アイルランド代表」であることの特別</h4>
<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/09/Ei-map.png" alt="" title="Ireland" width="330" height="355" class="alignright size-full wp-image-4890" />アイルランドのアンセムについて語るには、イングランドとの長い紛争を無視することは出来ない。ここでその複雑で凄惨な歴史について詳細に記述することはしないが、アイルランドが「アイルランド共和国」と「英国領・北アイルランド」に分裂していることを覚えておきたい。</p>
<p>アイルランドはイギリスによる最初の植民地である。彼らは、英国により宗教的・経済的な迫害・支配を受け続けてきた。</p>
<p>1919年からの独立戦争により、ようやく自由国としての地位を得たアイルランドであるが、今度は内紛に悩まされることになる。イギリスによる圧政の中でも、英国からの入植者や経済的にユニオンの支配下(=庇護下)にあった方が良いと考える者も出てくる。そうしたユニオシストと、逆に英国連邦からも独立をはかりたいナショナリストとの対立が激化。その結果として、北アイルランドは英国領に残ることを選択したのである。</p>
<p>そうした歴史的経緯から、アイルランド共和国の英国への反発感情は根強い。そしてそれは、北アイルランドに対しても同様である。サッカーをはじめ、ほとんどのスポーツで「アイルランド共和国代表」と「北アイルランド代表」は別のチームである。ところが、中に数少ない例外が存在する。そのうちの1つが、ラグビー代表だ。</p>
<p>ラグビーにおいては、「アイルランド代表」といえば、アイルランド島全体の代表を指す。彼らは前述の通り、政治的にのみならず経済・文化・宗教など全てにおいて異なる背景を持つ。しかし、ラグビーに関してだけは同じ旗を仰ぎ、ひとつのチームを応援するのだ。いかにラグビーが特別な存在であるかが分かるだろう。</p>
<h4>アイルランズ・コールの誕生</h4>
<p>もちろん、こうした複雑な背景を簡単に解消することは出来ない。様々に直面させられる難問のひとつが、試合前に歌われる国歌だ。</p>
<p>アイルランド共和国の国歌は、&#8221;<a href="http://www.youtube.com/v/4pHO7GW0MKE?f=videos&#038;app=youtube_gdata&#038;autoplay=1" rel="shadowbox;width=405;height=340;player=swf">Amhrán na bhFiann</a>&#8220;である。英語名は&#8221;The Soldiers&#8217; Song&#8221;。ケルティックの旋律が美しい、国民にこよなく愛されているアンセムだ。</p>
<p>一方、北アイルランドの国歌はイングランドの&#8221;God save the Queen&#8221;である。共和国の人間にとって、憎むべき支配者のアンセム。自分たちが誇る代表チームを送り出すために歌うには、大いに抵抗があった。</p>
<p>そのため、彼らは試合を行う場所によって歌う曲を変えるようなことをしてきた。しかし、その複雑な方法はしばしば混乱や悲憤を招く。特に1991年の第2回ワールドカップで共同開催国となった際には、大舞台での国民感情に配慮して「国歌斉唱を行わない」というルールにしてしまった。主催国が行わないものを、相手チームだけがすることは出来ない。ナショナリズムが発揚されるはずの国際大会において、選手入場からいきなり試合が始まるというのは異様な状況であった。準々決勝でアイルランドと当たったオーストラリアは、試合前にフィールド上で円陣を組み、彼らだけでアンセムを歌ったという。</p>
<p>こうした問題に対応すべく、1995年のワールドカップに向けて作られたのが &#8220;Ireland&#8217;s Call&#8221; である。曲は、Phil Coulterにより作詞・作曲される。すでに共和国で広く愛されている&#8221;<a href="http://www.youtube.com/v/7tiaIuH3oj0?f=videos&#038;app=youtube_gdata&#038;autoplay=1" rel="shadowbox;width=405;height=340;player=swf">The Town I Loved So Well</a>&#8220;を作った人物により、ケルトの心に触れる旋律が奏でられた。</p>
<table>
<tr>
<td>Come the day and come the hour</td>
<td>その時は来た</td>
</tr>
<tr>
<td>Come the power and the glory</td>
<td>力強さと栄光に満ちた時が</td>
</tr>
<tr>
<td>We have come to answer our country&#8217;s call</td>
<td>我らは応える、故郷の叫びに</td>
</tr>
<tr>
<td>From the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドの誇る4つの地方からの</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>Ireland, Ireland</td>
<td>アイルランド、アイルランド</td>
</tr>
<tr>
<td>Together standing tall</td>
<td>共に並び立つ</td>
</tr>
<tr>
<td>Shoulder to shoulder</td>
<td>肩を組み</td>
</tr>
<tr>
<td>We&#8217;ll answer Ireland&#8217;s call</td>
<td>共にアイルランドの叫びに応える</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>From the mighty glens of Antrim</td>
<td>アントリムの大峡谷から</td>
</tr>
<tr>
<td>From the rugged hills of Galway</td>
<td>ゴールウェイの連なった丘から</td>
</tr>
<tr>
<td>From the walls of Limerick and Dublin Bay</td>
<td>リムリックを囲む壁やダブリン湾から</td>
</tr>
<tr>
<td>From the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドの誇る4つの地方からの</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>Hearts of steel and heads unbowing</td>
<td>決して折れない鋼の心</td>
</tr>
<tr>
<td>Vowing never to be broken</td>
<td>永遠に破られない誓い</td>
</tr>
<tr>
<td>We will fight until we can fight no more</td>
<td>精根尽き果てるまで闘い抜く</td>
</tr>
<tr>
<td>For the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドが誇る4地方のために</td>
</tr>
<tr>
<td> </td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>Erin&#8217;s warriors, clad in emerald</td>
<td>エメラルド色を纏った、エリンの戦士たち</td>
</tr>
<tr>
<td>Steadfast souls confront their challenge</td>
<td>確固とした魂で、困難に立ち向かう</td>
</tr>
<tr>
<td>&#8216;Neath the glass sky they assemble</td>
<td>澄み切った空の下に集結した</td>
</tr>
<tr>
<td>For the four proud provinces of Ireland</td>
<td>アイルランドの誇る4つの地方よ</td>
</tr>
</table>
<p>歌詞については、こうした経緯から、比較的曖昧で当たり障りの無い「共に闘おう」という内容になっている。しかしこれも、曲が発表されてから国民の間で多くの議論を経て、少しずつ変更されながら作り上げられたものになっている。</p>
<p>少しだけ歌詞を補足しておくと、繰り返し出てくる「4地方」というのはコノート、マンスター、レンスター、アルスターの4つを指している。このうちアルスターの大部分が北アイルランドにあたる。つまり、4地方とはアイルランド島全土を意味している。「エリン」というのは、アイルランド古語で「アイルランド」の意味。我々にとっての「ジャパン」が「アイルランド」なら、「エリン」は「日本」ということになろうか。</p>
<h4>クローク・パークの叫び</h4>
<p>この「アイルランズ・コール」が人々の心に深く刻まれた最大の出来事は、発表から12年が経過した2007年のシックスネイションズであったかもしれない。この日、ダブリンのクローク・パークでアイルランドとイングランドの試合が行われた。</p>
<p>アイルランド最大の収容人数を誇るこのスタジアムは、アイルランド独立戦争中の1920年に、イギリス軍の突然の発砲で14人が殺された「血の日曜日」が起きた忌まわしい場所でもある。元々「アイルランド文化を守るため」に設立されたスタジアムであったが、紛争後も頑なにゲーリック・ゲームズを中心としたローカルイベントのみに使用が許されてきた。今やアイルランドの国民的スポーツになっているラグビーやサッカーも足を踏み入れることの出来ない聖域となっていたのだ。</p>
<p>しかし2006年、ランズダウン・ロードの改築に伴い、大論争の末に他のスポーツもクローク・パークで試合が行えることとなった。そして翌年のシックスネイションズで、イングランドとの歴史的試合が実現したのである。</p>
<p>なにしろ、イギリス軍による虐殺の舞台である。最初に英国国歌&#8221;God save the Queen&#8221;が演奏された時には緊張が走ったことは想像に難くないが、まったくブーイングも起きずに平穏に歌い上げられた。続いて、アイルランド共和国国歌である&#8221;Amhrán na bhFiann&#8221;が歌われる。そして、最後に流されたのが&#8221;Ireland&#8217;s Call&#8221;であった。下の動画は、その時の様子が収められている。Ireland&#8217;s Callが始まり、明らかに歌声が大きくなっている。これは、北アイルランド側の観客も唱和しているためであろう。観客席では感極まり涙しながら歌うファンが続出し、その昂まりは選手にも伝染している。</p>
<div style="text-align: center;"><iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/_6_UsZtHiXU" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>
<p>この試合は、血塗られた紛争を続けてきたアイルランドとイングランドにとって「歴史的和解」とされ、観衆の立派な振る舞いは大いに称賛された。なお、試合は両国間では過去最大点差となる43-13で、アイルランドが勝利している。(第2話「望郷の唄」に続く)</p>
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		<title>[ジョージ・ネイピア] マオリの月に照らされて</title>
		<link>http://rugby-worldcup.jp/2011/08/george-nepia/</link>
		<comments>http://rugby-worldcup.jp/2011/08/george-nepia/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 11 Aug 2011 17:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[選手列伝]]></category>
		<category><![CDATA[オールブラックス]]></category>
		<category><![CDATA[ニュージーランド]]></category>

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			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/08/George_Napia.jpg" alt="" title="George Napia" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4834" />ラグビーファン、殊にオールブラックス好きであれば、一度はその名前を聞いたことがあるだろう。</p>
<p>「ジョージ・ネイピア (George Nepia)」</p>
<p>有り余る才能を持つ天才フルバックは、ニュージーランド(特にマオリの間)で最も人気のあるラグビー選手のひとりだ。</p>
<p>若くして「世界最高」の勲章を手にし、幾分ロマンチックな物語で彩られた彼の人生は、決して単純な輝きで満ちているわけではなかった。<span id="more-4833"></span></p>
<h4>貧しかった少年時代</h4>
<p>ジョージ・ネイピアは、1905年4月25日に、ホークスベイのワイオラで生まれた。ニュージーランド代表が史上初めて欧州へ遠征し、「オールブラックス」の呼称を得ることになる年である(ただし、後に彼は実は誕生年は1908年であったと主張している。仮にそれが本当なら、後述するInvinciblesツアー時の年齢が、とんでもないことになってしまうが&#8230;)。</p>
<p>両親は、共にニュージーランド原住民族であるマオリの家系であった。彼らはジョージが生まれて早々に離婚しており、共にすぐに再婚した。継母は彼に愛情を向けず、辛い幼年時代をすごしていたようだ。やがて彼は家を出て、近くに住む優しい彼の祖母と生活するようになっていく。</p>
<p>祖母の愛情に恵まれ幸せな生活を送っていたジョージであったが、彼が小学校へ通い始める頃、祖母の高齢を理由に父親が彼を連れ戻しに来た。実際に蓄えも多くなく身体も弱ってきていた祖母が幼いジョージとの生活を支えることは難しく、彼は再び実家へ戻る。そして地元のマオリが通う小学校に入学した。</p>
<p>そこでジョージは、すぐにラグビーにのめり込んでいく。豊かとは言えない家計から、継母は彼にラグビーボールを買い与えてはくれなかった。だが、彼は学校の帽子に土を詰めてボール代わりにし、ボロボロになるまで練習に明け暮れた。</p>
<h4>創造性の下地</h4>
<p>卒業後、寄宿舎生活に入ったジョージは、学費を稼ぐために鉄道工事などをしながらラグビーを続ける。</p>
<p>彼の父親は、ジョージを地元のテ・アウテ大学へ入れることを決めた。しかし、その決定はジョージにとって納得のいくものではなかった。そこは米国資本によるモルモン教徒のための大学であったが、彼は信者ではない。学費が安いこと以外に、父親がその大学を選んだ理由は思いつかなかった。</p>
<p>それよりもジョージは、ヘイスティングスにあるマオリ農業大学へ通いたかった。将来牧場を持ちたいという夢にも繋がるし、ラグビーも強豪である。彼のラグビー仲間の多くは、そこで競技を続けることを決めており、しきりに彼を誘った。</p>
<p>卒業が近づき、ジョージは思い切って父親に訴える。しかし、既に学費の一部をテ・アウテ大学に払ってしまっていたこともあり、彼の父親は最後まで志望を変えることを許さなかった。だが、このことは彼のラグビー選手としての下地にとって、大きな分岐点だったと言えよう。</p>
<p>大学で彼を指導したのは、アーウィン・モーザーという米国人コーチだった。彼はニュージーランドで大学が名前を上げ、学生を集めるためには、ラグビーチームを強くすることが必要だと考えていた。一説には、高校時代からジョージの才能に注目していたアーウィンが、ジョージの学費を一部負担していたとも言われる。そうであれば、彼の父親の頑なな進路決定の裏にあったものも、あるいは想像できる。</p>
<p>だが、ともあれアーウィンは非常に熱心で有能な指導者であった。彼は元々アメリカン・フットボールの選手である。ジョージが教わったパントやスクリューキック、あるいは身体ごとぶつけるようなタックル技術などは、従来の英国式ラグビーには殆ど見られないものであった。彼はここで、後に「極めて創造的な新しいプレーを開発する」と言われることになる、枠にはまらない幅の広いスキルの下地を身につけていく。</p>
<p>1924年、南北マオリ対抗戦が行われた。これは、来るオールブラックスの英国遠征メンバー選考を兼ねた重要な試合であった。ところが、ジョージはそれまでプレーしていたファイブエイスから、このタイミングで突如フルバックにコンバートされる。</p>
<p>彼は慌てて、従兄弟のウォルター・マクレガーなどバックスリーの経験がある仲間に助言を求める。これが、彼にとって2度目の転機であった。</p>
<p>正直なところ、ジョージがコンバートされたのはファイブエイスでの能力不足と見なされたからであった。まだ19歳の青年は、彼自身すら自らの突出した能力に気づいていなかった。しかしそれが、フルバックというポジションで大きく開花する。彼は見事イングランド遠征メンバーに選ばれ、錚々たる名選手らと共に船に乗り込んだ。</p>
<p>そして、伝説のツアーが始まる。</p>
<h4>無敵ツアー</h4>
<p>この時、オールブラックスはイングランド、フランス、そしてカナダをまわり、国代表のみならず数々のクラブチームなどと試合を重ねた。現在に比べて移動もハードで、宿泊先での練習などもままならなかった時代である。にもかかわらず、彼らは32試合を戦い、その全てに勝利した。いつしか彼らは「The Invincibles (無敵、不屈)」の名で呼ばれるようになる。</p>
<p>そんな中でも、ジョージ・ネイピアの活躍は更に群を抜いていた。そのボールキャッチ、フィールドでの爆発的なキック、得意のスマザー・タックルと、全てが超越していたという。殊にそのアメリカン・フットボール仕込みのタックルは強烈で、ウェールズ戦では相手のカウンター攻撃から3対1となった絶対絶命の場面で、攻撃側3人をまとめて全員ラインの外にタックルで弾き飛ばしたという信じられないような伝説も残されている。唯一プレースキックのみが「彼の基準からすれば」弱点であり、チームではセカンド・キッカーであったということだ。</p>
<p>175cmという身長は当時としては大柄であり、82kgの体重は体型と比べれば非常に高密度であった。フォワードが相手でも全く当たり負けしないジョージは、このツアーで32試合全てに出場し、77得点をあげる。彼の名は一躍世界に広まり、年末には世界最優秀選手のひとりにも選ばれた。</p>
<p>英国のラグビージャーナリストであるデンジル・バチェラー氏は、ある日パブで、ラグビーファン達が「史上最高のラグビーチームを作るとしたら、誰を入れるか」という議論をしているのを耳にしたという。まだまだ、イングランドこそがラグビーの中心地であり、オックスフォードの学生チームこそが最高のラグビーエリートだと信じて疑われなかった時代である。彼らは次々に、英国の伝説的な選手の名前を挙げていった。しかしバチェラー氏は、後に次のように書いている。</p>
<p>『その議論を耳にした時には、固まってしまったよ。自分にとって、ジョージ・ネイピアが果たして史上最高のフルバックであるかどうかを、疑問に思う余地は無い。問題は、誰がオックスフォードのコットン・ブーツを脱ぐべきかということだけだ。』</p>
<h4>運命の出会い</h4>
<p>無名の若手が望外の幸運で船に潜り込んだ風だった出航から半年が過ぎ、ジョージは国の英雄として凱旋した。彼はニュージーランド最初の「国際的なスター」だったとも言える。</p>
<p>そしてこの年、彼は人生の伴侶と出会う。ティキティキにある教会のオープニング・セレモニー試合に招待されたジョージは、その祝賀会でピアノを弾いていたフインガに一目惚れする。彼女は5歳の時に母親を亡くし、父親もまた第一次世界大戦で駐屯先のフランスにて戦死している。実の両親とも、継母とも絶縁状態になっているジョージの瞳に宿る孤独の色は、フインガの心を映す鏡のようだった。そして彼らは、お互いが彼らの孤独を癒しくてれる相手だと、すぐに確信する。</p>
<p>マオリの伝統的な作法による婚姻は、親族の少ない二人には大変なものだったようだ。媒酌人などの手配に1年を要したというが、彼らは無事に結ばれる。ふたりが結婚式を挙げたのは、彼らが出会ったあの教会であった。</p>
<p>ジョージとフインガは、彼女の両親が遺したランギトゥイカの土地で牧場を始めた。牧場経営は、ジョージの幼い頃からの夢でもあった。彼の父親も、新たな旅立ちを祝い搾乳機を贈ってくれている。ジョージは懸命に働いた。</p>
<p>やがて、彼らは3男1女をもうける。娘の名前は「キウイ・ラウポンガ」。ニュージーランドに自生する銀のシダを意味する名前は、もちろん<a href="/2011/03/silver-fern/">オールブラックスのシンボル</a>からとられたものだ。</p>
<p>ラグビーでの名声、夢だった牧場、幸せな家族&#8230; ジョージ・ネイピアの望んだ全てのものが、そこにはあった。</p>
<h4>月の下</h4>
<p>しかし彼の人生は、この時代の多くの人がそうであったように、容易には運ばなかった。</p>
<p>1926年からのツアーメンバーに、彼の名前は無かった。理由は定かでないが、牧場経営をはじめたばかりのジョージが招集を断ったとも言われる。しかし、続く28年からの南アフリカツアーからは、明確に除外された。<a href="/2010/07/nz-apartheid-1/">アパルトヘイト</a>こそ未だ成立していなかったものの、既に南アフリカは有色人種と同じフィールドでプレーすることを喜ばない風潮であったためだ。更に29年の豪州遠征は、脚の怪我により初戦の前半のみのプレーとなってしまう。ジョージは1935年までの11年間に46試合をオールブラックスで戦い、99得点をあげた。これは、彼の実力と名声からすれば非常に少ない数字といえる。</p>
<p>折しも、世界は大恐慌時代。彼の経営する牧場も、業績は急激に悪化していた。当時ニュージーランド・マオリのキャプテンも務めていたジョージだが、遂に彼はある決断をする。</p>
<p>1935年に、彼は音楽関係の仕事をしていた従兄弟の勧めもあり、レコードを発表していた。タイトルは「Beneath the Maori Moon (マオリの月の下で)」。故郷への愛と民族の誇りを哀切に歌いあげたジョージの美声は、人々を驚かせた。レコードはニュージーランドの国内チャートで20位以内に入る売れ行きであった。</p>
<p>そしてこの曲は、彼の愛する故郷と家族へ、しばしの別離を告げる歌でもあったのだ。彼は家族の生活を支えるためニュージーランドのブラック・ジャージを脱ぎ、イングランドのラグビーリーグでプレーすることを決断する。</p>
<p>アマチュアリズムを強く信奉するユニオンと異なり、リーグでは選手に高額の報酬が払われる、いわゆる「プロリーグ」であった。この決定的な考え方の違いからユニオンはリーグを非常に敵視しており、リーグでプレーした選手とは決して再契約しないポリシーを貫いていた。彼は年間500ポンドの契約と引き換えに、オールブラックスへも永遠の別れを告げなければならなかったのだ。</p>
<h4>晩年</h4>
<p>悲愴な決意で旅立ったジョージであったが、愛する家族と離れた生活は、やはり長くは続かなかった。わずか2年後の1937年、彼はニュージーランドへ帰国する。</p>
<p>しかしユニオンへも戻れず、生活の糧も無い彼は、報酬は落としつつもニュージーランドのリーグチームに入る以外無かった。ジョージはリーグの国代表に選ばれ、幾つかの歴史的試合で相変わらずの活躍も見せた。</p>
<p>1947年、ユニオンがリーグとの敵対関係を少し緩和し、出戻りを許すようになった。この頃には世界恐慌も去り、息子たちも成長して生活の安定を取り戻していたジョージは、久方ぶりにユニオンラグビーへ復帰する。そして1950年には、やはりユニオンラグビーの選手になっていた長男と、なんと敵味方のキャプテンとして対戦した。ニュージーランドのトップクラブでこうした対戦が実現したのは、現在のところ史上唯一である。この時45歳になってたジョージは、気が付けばトップクラブリーグで最年長選手となっていた。19歳で国際デビューした華々しい無敵ツアーから、16年が過ぎている。</p>
<p>現役を引退したジョージは、レフリーの資格を取りラグビーに関わり続けた。生活のことや身の回りのことには比較的無頓着で、ラグビーと家族さえあれば幸せだった彼であるが、残酷な時の流れは彼から、その家族を奪っていく。彼と対戦した長男のジョージ(父親と同じ名前だ)が、1954年にマレーシアで殺されてしまう。そして1975年には、最愛の妻フインガに先立たれる。彼女が息を引き取る寸前に子供たちに発した最期の言葉は「お父さんの世話をお願い」だったという。</p>
<p>有り余るラグビーの才能を持ちながら、人種差別や社会情勢、戦争などに翻弄され続けたジョージ・ネイピア。彼を偲び「Beneath the Maori Moon」を歌う時、特にマオリの老人たちは多かれ少なかれ、自分の辛かった思い出を彼にダブらせる。</p>
<p>1986年6月、彼の人生を振り返ったドキュメント番組「This Is Your Life」が放映された。百万を超える人々が番組を視聴し、ジョージの、そして自分たちの家族やラグビーへの愛を再確認した2ヶ月後、彼は静かに妻と息子の元へ旅立っていった。</p>
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		<title>[ニコラス・プエタ] 克己のラグビー魂</title>
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		<pubDate>Thu, 04 Aug 2011 13:51:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[選手列伝]]></category>
		<category><![CDATA[アルゼンチン]]></category>

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		<description><![CDATA[彼が話し終えた時、小さな講堂に集まった少年・少女たちの瞳は、一様に興奮の熱気を帯びていた。 彼は現在、アルゼンチンの小さなクラブラグビーの選手であり、スポーツに特化した旅行代理店の社員であり、モチベーショナル・スピーカー [...]
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			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/08/artificial_leg.jpg" alt="" title="artificial leg" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4805" />彼が話し終えた時、小さな講堂に集まった少年・少女たちの瞳は、一様に興奮の熱気を帯びていた。</p>
<p>彼は現在、アルゼンチンの小さなクラブラグビーの選手であり、スポーツに特化した旅行代理店の社員であり、モチベーショナル・スピーカーとしても世界各地で講演を行っている。</p>
<p>男の名前は、ニコラス・プエタ(Nicolas Pueta)。2007年にはIRBより表彰を受けた選手だ。しかし、そんな彼の名をアルゼンチン代表やトップクラブのリストに、見つけることは出来ない。<span id="more-4804"></span></p>
<h4>人生最大の決断</h4>
<p>ニコラス・プエタは1983年10月20日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれた、生粋のポルテーニョである。父ダニエルは国内で活躍したラグビー選手で、母は体育教師というスポーツ一家の長男であった。</p>
<p>後に「ニコ」の愛称で呼ばれる少年は、しかし生まれつき身体にハンデを背負っていた。右脚に比べて明らかに小さな左脚は、ほとんど成長することが無かったのだ。</p>
<p>やんちゃなニコは、動きまわることが大好きな子供だったという。そして、スポーツを観ることも楽しみにしていた。父親の影響からか、最も好きなのはラグビー観戦。この頃のニコにとってのヒーローは、スコットランド代表の名フルバック、ギャビン・ヘイスティングスであった。目を輝かせながら将来は彼のようなラグビー選手になりたいと無邪気に話すニコに、彼の両親は最大限の愛情で治療費を捻出した。</p>
<p>しかし、幾度もの手術は幼いニコにとって辛く苦しいものだった。3度目の手術では身体への負担が大きすぎて、術後1年間は歩くことも出来ない状態になってしまったという。</p>
<p>ニコは9歳になった時、後に振り返って「ここまでの人生では、最大のものだった」という決断をする。一切の治療を、もう止めるというのだ。彼は両親に叫んだ。</p>
<p>『自分は、こういう風に生まれてきたんだ。だから、このままで生きていくんだ！』</p>
<p>あるいはそれは、苦しい治療から逃れるための、幼い拒絶だったのかもしれない。だが、20歳の時にニコは当時の決断を次のように振り返っている。</p>
<p>『あの時、自分はもうスポーツの楽しさを知っていて、(あのままでも)自分が何でも出来ると思っていた。だから、自分でそれを選んだんだよ。今でも治療を永遠に拒否するつもりはないけれど、現状を充分に楽しんでいるよ。』</p>
<h4>はじめてのラグビー</h4>
<p>ニコは6～7歳の頃にはラグビーに興味を持ち、プレーしたがっていた。しかし、彼の両親や主治医は危険過ぎると判断して、水泳や体操、バスケットボール、サッカー(ゴールキーパー)などを勧めたという。抜群の運動神経と努力で、そうしたスポーツも楽しんでいたニコだが、ラグビーへの想いは捨て去ることが出来なかった。それどころか、そうした他の競技を続けることはラグビー選手になる夢から遠ざかることだという焦りすら感じていたという。</p>
<p>そして長い練習と説得の期間を経て、ニコは15歳の時に初めて念願のフィールドに立つ。</p>
<p>周囲の心配を他所に、彼には最初から自信があったという。確かに自分には、他の少年たちに比べて脚が1本少ない。でも、それはその分、もう片方の脚や腕の力が強いということだ。ニコは普段の練習ではつけている義足を他の選手に怪我をさせないよう外し、「樹木よりも固くて強い」と自慢する右脚で飛び跳ねながら楕円のボールを追いかけ、何度もタックルした。</p>
<p>充分にプレーできる自信を得たニコは、すぐに友人たちの多くがプレーしている地元のサン・アンドレスに加入する。やがて、彼のポジションはフランカーに固定された。ニコの特性は、長距離を駆けてステップを切るバックスよりも、密集付近の短い距離で何度もタックルをするフォワードの方が適していた。それに、ラインアウトでの高いジャンプ力と上半身の膂力はチームにとって強力なオプションにもなる。そして彼はもちろん、スクラムにも参加する。また、彼は非常にタフで、1度フィールドに入るとなかなか交代したがらないのだという。</p>
<p>こうして憧れだったラグビー選手になったニコだが、彼の幼少期のヒーローはいつもバックスの選手だった。あるアルゼンチンメディアが「やっぱり、フォワードは無骨で、バックスの方がイカしてる？」と尋ねた際、ニコは大笑いしながら「いいや、自分は今フォワードだけど、イカしてるだろ？」と応えている。彼が交代したがらないのは、フィールドに立っているのが楽しくて仕方ないからでもある。</p>
<h4>世界へ</h4>
<p>旅が好きだったニコは、サン・アンドレスでラグビーをしながら通訳の専門学校に通う。そして卒業と同時に住み慣れたアルゼンチンを離れ欧州へ旅だった。</p>
<p>これには切掛があった。折しも<a href="/wc/2007fra/">2007年ワールドカップ・フランス大会</a>が開催され、ニコはそのボランティア・スタッフに選ばれたのだ。数少ないアルゼンチン人スタッフとして1ヶ月半にわたり大会運営に関わった彼は、祖国アルゼンチン代表プーマスの大活躍を見届ける。プーマスは開幕戦で開催国のフランスを破ると、そのまま準決勝まで進む快進撃。優勝する南アフリカに敗れるも、3位決定戦で再びフランスを下し、過去最高位で大会を終えたのだ。</p>
<p>彼にとって夢のようなワールドカップは、しかしこれで終わらなかった。大会終了後に開かれる表彰式で、ニコは自分が「Spirit of Rugby」を贈られると知らされる。この賞は、フィールドの内外でラグビーの魂を体現した選手やコーチ、あるいは運営者、クラブチームなどに授与される。ちなみに、この2年前の受賞者は「ラグビーは少年を最も早く大人にし、大人にいつまでも少年の魂を抱かせる」という名言でも知られる、元フランス代表キャプテンのジャン・ピエール・リブであった。ニコの驚きと喜びは、いかほどであっただろうか。授賞式は正装が求められる。Tシャツにジーンズしか持っていなかったニコは、慌てて近所のできるだけ安い店で、スーツ一式を揃えたという。</p>
<p>授賞式には、まさにキラ星のようなスター選手が揃っていた。彼に賞を手渡すのは、今大会でアルゼンチン躍進の原動力となったひとり、フェリペ・コンテンポーミである。ニコが壇上に呼ばれる直前、会場のスクリーンには彼を紹介する映像が流された。片脚でフィールドに立ち、果敢にタックルする彼の姿を観た会場からは驚きのため息が漏れ、やがて総立ちでの賞賛へと変わった。そこにはアルゼンチンの英雄アグスティン・ピチョットや、ニコの憧れだったギャビン・ヘイスティングスの姿も含まれていた。</p>
<p>この後、ニコは英国に渡りウィットリー・ベイのローカルクラブでプレーする。1シーズンを終えると、次はオランダリーグにも少しの間参加した。そして2009年、サン・アンドレスに戻ってきている。</p>
<h4>ラグビーの魂</h4>
<p>モチベーショナル・スピーカーという仕事について、彼はこのように話している。</p>
<p>『自分のことを話すなんて、正直なところ気が進まなかったよ。なんだかそれって、傲慢な感じがするじゃないか。それに自分は、結局は好きな事をやっていただけのことなんだ。だけど、そう、チームメイトやライバルチームの選手、ラグビー協会など、皆が「何故やらないのか」と訊くんだよ。それで考えたんだ&#8230; 自分の根っこにある考え方や哲学を、聴いてくれる人たちの環境にあわせて異なった角度で考え、話してみたら面白いかもしれないって。いつも同じ事を話す人の言うことは、はじめて聴いても退屈なものだからね。』</p>
<p>ニコは小学生から企業の経営者に至るまで、スペイン語と英語を使って様々な角度から彼の人生と考えを話す。それは相手に語りかける作業でもあり、自分自身と対話することでもあるのだろう。</p>
<p>旅行会社に就職し、講演も行う多忙な中、ニコは変わらずラグビーも続けている。彼は子供の頃を振り返り『自分はラグビーを諦めようと思ったことは一度も無い。それは、自分を諦めることと同じだ。』と話した。その想いは、今も続いているのだろう。</p>
<p>彼が世界中のラグビー関係者から讃えられた「ラグビー魂」の根本に位置するものは、次の言葉に顕れているように思う。世界のラグビー選手はトップクラブに入り国の代表としてワールドカップで戦うことを目標としていると思うが、ニコにとっての目標も同じなのか、あるいは異なるものだったのかという問いに対する応えだ。</p>
<p>『最初、自分にとっての夢は、まずラグビーのフィールドに立つことだった。それが叶った今、目標は、前の試合での自分を超えることだよ。どのチームでプレーするかは、二の次だ。』</p>
<p>彼と同じくスピリット・オブ・ラグビーを受賞したジャン・ピエール・リブは、先に紹介した彼の名言にこう続けている。「私がラグビーから学んだことは、人を制圧することではなく、人と共に生きることだ。だから&#8230;ラグビーは素晴らしい」。相手と競い合うスポーツでありながら、あくまで自分自身と戦う克己の心。それこそが、ラグビーの魂なのかもしれない。あるいはアマチュアリズムの懐古主義と笑われるかもしれないが。</p>
<p>ニコは先の言葉に続けて、次のように話した。</p>
<p>『自分は、試合途中から出場することが多いんだ。でも、時にはスタートから出られることがある。実際、最初からほとんどの時間をフィールドに居られるのは、ものすごく楽しいよ。そうでなければ、果たして自分の出番が来るのかどうか、ヤキモキしながら試合を見なければならないからね。だけど、自分がそれに相応しくないのにスターターに選ばれるのはイヤだ。しっかりと見極められて、選ばれたいよね。』</p>
<p>それは、大企業の重役などをも前に自分のことを話す立派な「大人」が、リブの言うように「少年の心」でラグビーを楽しむ姿に他ならない。だからきっと&#8230; ラグビーは素晴らしいのだ。</p>
<p><iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/vV7bocFr4Eo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></p>
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		<title>フィジアンは飛ぶか(5): 革命の是非</title>
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		<pubDate>Thu, 09 Jun 2011 15:54:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nao58</dc:creator>
				<category><![CDATA[2011年大会]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[フィジアンは飛ぶか]]></category>
		<category><![CDATA[フィジー]]></category>

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		<description><![CDATA[結局バイニマラマ率いるフィジー軍は、当初のデッドラインであったスクナ・ボウルの日から4日後の12月5日、「浄化作戦」を決行する。この前日には警察本部を包囲し、事前に武装解除させることに成功していた。 この1ヵ月後、大統領 [...]
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			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://rugby-worldcup.jp/wp-content/uploads/2011/06/fijian_army.jpg" alt="" title="fijian army" width="150" height="150" class="alignleft size-full wp-image-4714" />結局バイニマラマ率いるフィジー軍は、当初のデッドラインであったスクナ・ボウルの日から4日後の12月5日、「浄化作戦」を決行する。この前日には警察本部を包囲し、事前に武装解除させることに成功していた。</p>
<p>この1ヵ月後、大統領を味方につけたバイニマラマは臨時政府の首相に就任する。そしてすぐに、その権限で臨時内閣を設置。そこにはインド系であることを理由に2000年クーデターで首相の座を追われたマヘンドラ・チョードリーなどの名前もあった。フィジー系、インド系を取り混ぜて閣僚に据えた、多民族主義政権がようやく樹立されたことになる。<span id="more-4711"></span></p>
<h4>これまでのクーデターとの違い</h4>
<p>この4度目のクーデターは、これまでの3度とは明らかに異なった性格のものであった。</p>
<p>過去3度は、いずれも民主主義的選挙の結果として誕生したインド系主体の政権を、フィジー系団体が暴力で駆逐したものである。確かに先住民族にしてみれば「ここは自分たちの国だ」という意識は強いかもしれない。しかし、自分たちで定めた法に則って選出した政府を、民族差別的なエゴから、無血とはいえ軍事力に拠って排除するというのは許される行為ではないだろう。</p>
<p>今回もまた、政府を軍事力で転覆させ権力を奪ったことに変わりは無い。しかし、クーデター首謀者達が「浄化」と呼んだように、今度のクーデターは政府の腐敗が原因である点が異なっている。3度目のクーデターに対する事後処理の政権がフィジー系国民に迎合する政策を行い、度重なる政変によりインド系民族の国外流出が進み少数派となってしまったのをいいことに、政権を維持し続けたのである。その政府を、フィジー系国民の代表でもあり過去のクーデターでは中心的役割すら果たしてきた軍が糺そうとしたのである。</p>
<p>もちろん、バイニマラマの行動が全て民族平等主義の崇高な使命感だけから来ているとは言い切れないだろう。彼が決定的に2000年クーデター組の粛清派となったのは、軍が内部分裂し自らの命も狙われた後からである。義憤だけではなく、私怨や権力欲の側面もあったかもしれない。</p>
<p>一方で、フィジーのジョセファ・イロイロ大統領(当時)は、クーデター直後にバイニマラマへの支持を表明している。強引で偏った政権運営を続けたガラセ首相に対して、軍に従うか、もしくは辞任するよう勧告したという(ただし、後に諸外国の批判を受け、こうした勧告を行った事実を否定する)。今回の「浄化作戦」に世直し的側面があったことも、また否定できないだろう。</p>
<h4>諸外国の反応</h4>
<p>とはいえ、やはり「軍事政権」である。民主的な手続きにより選ばれた政府を、軍事によりひっくり返したことに違いは無い。ニュージーランド、オーストラリアはクーデターを強く非難し、臨時政権の速やかな解散と、国民投票の実施を強く求めていく。しかし、バイニマラマはこれに応じなかった。一部には、人口の6割近くを占めるようになったフィジー系国民により、総選挙を行えばガラセ政権のような差別政策政権が復活してしまう可能性を危惧する声もある。</p>
<p>周辺オセアニア諸国やEUは、フィジー軍事政権への経済制裁や、軍事関係者の入国禁止などの措置をとっていく(このことが、今回のワールドカップ問題への直接の引き鉄になっている)。一方で、中国は軍事政府との関係を急速に親密化させ、多大な援助と多くの移民を送り込んでいる。</p>
<p>こうした中、バイニマラマは2009年に民政復帰の総選挙を行うことを約束していた。しかし結局、
