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	<title>memo</title>
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	<description>心に響くもの</description>
	<lastBuildDate>Sat, 04 Feb 2012 19:21:46 +0000</lastBuildDate>
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		<title>スキーで使えるリードとハーネス</title>
		<description>
もう、とっくに2012年になっていました。
最近、ろくにブログも書かずに、だらだらと、まあ、それなりにやってきたわけですが、ここいらで、いっちょ気合を入れてやってやろうじゃないの、なんて考えてもいないわけですが、例によってボーイスカウトの活動で、スキーをしてきたので、動画をアップします。

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ボーイスカウトのスキーというと、幼稚園児から中学生までの子どもたちと一緒に滑るわけなのですが、幼稚園児となると、やはりゲレンデにはなかなか出ることができません。
これまでは、ソリをしたり、キッズパークなどの、なだらかな傾斜で遊んだりしていたわけですが、今回はハーネスとリードという補助器具を使用したので、大人も子どももスキーを大満喫できたのでした。



スピードも抑えられ、ころばずに滑れるので、子どもたちも自信がつくようです。
紐を引くことで、左右のターンもできます。
小さな子を連れてスキーをする方は、是非お試しあれ。



今回、僕は初日のみ子どもたちと一緒のクラスで滑って、2日目からは撮影係りを担当しておりました。
とてもオイシイ役回りで、申し訳ないぐらい楽しんでしまったのでした。感謝です。



あー、楽しかった。




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	<item>
		<title>キックボードで犬目線</title>
		<description>
先日、つい、うっかり、魔が差して、キックボードを買ってしまって、いい年して、地面を蹴飛ばしながら走らせているわけなんですが、そのキックボードにカメラを付けたら、犬目線になって面白いんじゃないかと思い、試してみました。知っている風景でも、視点を変えてみると、これまで見慣れた退屈さがなくなるので新鮮です。

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キックボードで犬目線


視点を変えて、退屈を蹴飛ばしましょう。

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		<link>http://abemasato.com/memo/day/kickboard/</link>
			</item>
	<item>
		<title>LOOP-02 東京藝術大学シンポジウム　押井守が語る原発</title>
		<description>
先月、東京芸術大学で開催された、押井守さんのシンポジウムに行ってきました。
押井さんの話は、原発の問題から始まり、身体論まで、予定の時間を30分もオーバーするほど絶好調で、とても面白い内容でした。

当日は、USTREAMで生中継が行われ、アーカイブも公開されていたのですが、いつの間にかアーカイブが消えていたので、その中から書き起こしていた、原発問題と若者へのメッセージのログをアップします。

正確な言い回しでもないですし、だいぶ掻い摘んであります。

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原発について
――『3・11の未来』という書籍のなかで、押井さんが「あえて十字架を背負う」という寄稿をされていました。そのなかで「日本には、技術はあっても技術の思想がない」と仰っていて、どういったことなのか聞いてみたいなと。

押井：
ひとつは技術の思想とは何なんだろうかと、
日本という国は、近代的な科学技術というのを明治維新以降、輸入してきたんですね。輸入することで、いろんな技術を自分のものにしてきた。
言葉はどこから輸入してきたかというと、中国から輸入してきたわけですよね。アジアには漢字の文化圏というのが存在して、概ね漢字の文化圏というのはイコール中国の文化圏であると。
そのことで言えば、漢字を輸入することは、中国の文化を輸入することに等しかったわけです。
そのなかで唯一、漢字文化を輸入しながら、中国文化と絶縁することに成功した。漢字というものを純粋に、ツールとして使いこなした。それが、日本人であった。
今回の例で言えば、飛行機のエンジンから、原発に至るまでそうなんだけど、技術というものを輸入して、技術を自分たちのものにして、そのときに、何故それを使うのか。何故、それが必要とされたのか。その技術で、何を実現したいのか。
技術の思想ということを一言で言えば、ゼロからものを考えるということですよ。根本に立ち返って考える。
日本人は、とうとうゼロから考える文化を輸入することができなかった。
技術はツールでありながら、ツールに留まらない何かである。

原発というものは、ある意味で原爆よりも管理しづらい。ご存知のように、廃炉にするだけで30年もかかる。
そんな手に負えないものを、何故日本は輸入したのか。しかも、原爆を落とされていた国が。
「平和利用のための原子力肯定」、「戦争のための兵器」であるよりは良いと。果たして、技術とは、そのように二つに分けられるものなんだろうか。考えもなしに原子力というものを輸入したことが、そもそもの発端だった。

　
若者に向けた言葉
――『スカイ・クロラ』について監督が、「初めて若い人に優しい映画を作ったと思う」ということをおっしゃっていた意味を聞かせてください。

押井：
「優しい」っていうのは、励ますとか、慰めるということとは違うんだろう、というのが僕の考え方で。要するに、親身になったということ。自分の中では優しくなったという感情になるんだけども。
とにかく、若い人に親身になれた、気にかけてあげられた。今までは、どうでもいいと思ってたから。
もう中年に差し掛かり、老年に入ろうとする自分にしか興味がなかったから。逆にそうなったときに、若い人に目が向いたということにすぎない。親身になれるような気がした、っていうこと。今はほんとうにそうなのか、ちょっと妖しいんだけど。

その親身になったときに、何が言えるかというと、そうとう残酷なことかもしれない。
で、言わないよりは、言ってあげたほうが良いんだっていう。言わない大人は、むしろ親身にならないから言わないんだ。
ほんとうにその人のことを心配するんであれば、ほんとうに親身になるんであれば、ほんとうのことを言ってあげたほうがいい。

あの時期は、集中的に小学校とか中学校とか、高校から大学といろんなところに呼ばれて行って、けっこう、いろんなこと喋りましたね。
そのときに言ったのが、「早く幻想を捨てなさい」って、「あなたたち、一人ひとりには、なんの個性もない」とか。
そういうことを言って、先生方に嫌がられたんだけども。
言ってみれば、それは日本の戦後民主主義というかね、戦後の教育を真っ向から否定したわけだから。
「一人ひとりの個性を尊重し」って、「一人ひとりが掛け替えのないオリジナリティがあり」って、それは全部ウソであるって。あなたたちは、そのことに振り回されていると、将来を棒に振りますよ。
あなたたちは、限りなく凡庸であり、無名であり、匿名であり、だからこそ未来があるんだ。
 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/day/loop2/</link>
			</item>
	<item>
		<title>ドン・ペリニヨン・パーティ</title>
		<description>
どこから出た話だったのか、ドンペリを飲もうということになり、「ドンペリ・パーティ」と銘打って、友人宅でパーティを開いて、人生初のドン・ペリニヨンを飲んできました。

俗に言う、ドンペリの正式な銘柄名は、ドン・ペリニヨンと言いまして、シャンパンを発明したベネディクト会の修道士、ドン・ペリニヨンにちなんで名づけられました。という情報を、たったいまWikipediaから仕入れました。

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それはさておき、今回のパーティは、現在お家カフェを開こうと奮闘中のお宅です。
オープンの目処がたちそうだと窺って、それではプレオープンでパーティでもどうでしょう、と提案したところ、快く受けてくださり、開催されたのでした。



お持て成しいただいた料理は、カフェ用に考案されたメニューのフルコース。とにかく、凄い豪勢だったのですけれど、写真をほとんど撮っていなかったのは失敗です。

そして、サックス演奏のプロフェッショナルに生演奏をしていただいたり、ピアノとデュエットもしていただいて、すっかりジャズ喫茶のような空間に。なんだか、みなさんアーティストじゃないですか。
料理と、お酒と、人間と、そこに音楽が加わると、もうこれ以上、何も望むものはありません、というような、そんな気持ちになってしまうもの。



ちょっと前まで、ほんの数年前まで、こういった仲間とパーティをして、素敵な夜を過ごすなんて、想像もしていなかったわけだけれど、偶然というものに意味づけをしてみると、すべての人は出会うべくして出会うというような、業だか縁みたいなものに結びつけたくなるような、そんな夜なのでした。
僕が爺さんになっても、若者を交えて、こんなパーティをしていたいですね。

みなさまに感謝。
 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/day/domperignon/</link>
			</item>
	<item>
		<title>犬と歩く三頭山</title>
		<description>
犬仲間の皆さんに、奥多摩の三頭山に連れて行ってもらいました。
すごく整備されたハイキングコースが作られていて、とても歩きやすい山でした。
わんこ連れ、もしくは、小さな子どもを連れて行くのにも良さそうです。


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勇猛果敢な和犬の血が入ったチロは、遠くの何かを見つめています。
美味そうな鳥がいたのかもしれません。



このときは、標高1000メートルを越した地点から歩いたので、スタートから気温は2度という寒さ。さすがに、よく冷えてます。うちのサニィだけが、ブルブル震えておりました。なんて軟弱な犬でしょう。



そして、三頭山を下りたその足で、湖の畔でひと休み。誰も人がいないので、ドッグラン状態です。
夏だったら、水遊びもできるかもしれません。

右下のマロ嬢は、豆鉄砲を食らった表情です。水温を確かめず、湖にダイヴした直後のもの。

ここの場所は、奥多摩湖の端っこのほうだったかな。移動はすべてお任せだったので、あんまり場所をはっきり覚えていなかったりなのです。
いつものことながら、みなさまに多謝多謝なのでした。
 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/dog/mitosan/</link>
			</item>
	<item>
		<title>南高尾山稜をハイキング</title>
		<description>
人間回復のために、というわけでもないのだけれど、登山に行ってきました。登山といっても、ゆるやかな山道でして、“ハイキング”と言ったほうが近いでしょうか。
場所は、高尾山のすぐ側の、南高尾山陵。高尾山口駅からバスで十分程度の場所にあります。

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大垂水峠から、大洞山、コンピラ山、中沢山、とひたすら尾根を歩いて、高尾山口駅まで戻ってくるというコースです。
距離は、だいたい9キロくらいだったかな。
高尾山のすぐ側で、お手軽な山なのだけれど、あまり人がいないという良いハイキングコースでした。



ハイキングコース


 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/stroll/hiking/</link>
			</item>
	<item>
		<title>茶器展</title>
		<description>
先日、といっても、もう半月以上経っているけれど……、陶芸家をしている友達の個展を見に行ってきた。
前回会ったのは、昨年の５月なので、一年半ぶりの再会。お互い大人なってしまったので、特に変化はなかったけれども、子供の頃の話なんかに火がついて、とても楽しかったのでした。


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作品のほうは、相変わらずとってもアート。今回、彼の作品を見ていて、子供の頃の体験がよく表れていることに気がついたりもした。やはり、モノヅクリは、どんなに隠蔽しても、その人間の子供時代の経験なんかが反映されてしまうようだ。
他の誰も気づかないことに気づけた優越感なんかもありつつ、とても嬉しかったのでした。

茶器展ギャラリー
https://picasaweb.google.com/abemasato.com/SmXGWG#
 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/day/ceramicart/</link>
			</item>
	<item>
		<title>荻窪のカフェ＋ギャラリー＋古本屋『六次元』</title>
		<description>
ブログを書かないと、生存確認されなくなってしまうので（笑）、ちょっと書いてみる。
とっちらかったブログの方向性を定めようと思ったけれど、思いつかないままなので、当面このままで。

ということで、荻窪のカフェ「六次元」に行ってきましたよ。


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六次元は、知る人ぞ知る、というか、以前はギャラリーだった場所を、そのまんまカフェ兼ギャラリーとして経営しているので、その当時からのファンもいるカフェなのです。



店内は、とにかく本だらけで、みょうに落ち着く空間が作られています。
その本たちも、六次元のマスターが読んだものを売りに出しているのだとか。古本屋でもあるのです。
谷川俊太郎さんの本が多かったかな。



お喋りするのには向きませんけども、ゆっくりと本を読みたいときにオススメの喫茶店です。
ちなみに、置いてある本を、僕も一冊買わせていただきました。

「ああ、この本、僕も好きなんです。買って頂けて嬉しいです」とマスター。

こう言われると、本を大事にしないわけにはいきません。本を買っただけで、嬉しい気分にもなれたのでした。
やっぱり、物を買って、そこに人間が見えると、ぞんざいには扱えないもんね。




六次元
http://www.6jigen.com/
 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/shop/rokujigen/</link>
			</item>
	<item>
		<title>「コクリコ坂から」の照らす道</title>
		<description>
ジブリの最新作「コクリコ坂から」を観てきました。
監督は、宮崎駿の息子の吾朗さん。ゲド戦記での失敗が記憶に新しいところですけども、今回は企画・脚本を宮崎駿さんが担当しています。ゲド戦記のときは親子喧嘩をしてましたが、今回は駿さんも息子へ助け舟を出しています。親子による、はじめての合作。演出家としての実力が試される作品です。

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ゲド戦記のときは、半ば、作らざるを得ない状況におかれて、仕方なしに監督をした吾朗さん。
ほとんどが、宮崎駿の借り物で作ったような場面構成で、なんとかしてメッセージを込めようと、背伸びしすぎた映画に感じたけれど、今回の「コクリコ坂から」は、まったく別人が作ったような作品だった。
簡単に言うと、ゲド戦記のときは、ジブリ作品っぽくなるように、宮崎駿の真似だけして作っていたと思う。

今回は、真似事ではなくって、自分の持っているものを、クソ真面目に表現したという感じ。駿さんのように、イマジネーションが優れているとか、突飛なアイディアがあるわけじゃないけれど、高畑勲さんのようなリアリズムを追求する資質をもっているように感じた。
ジブリファンとしては、ジブリ存続の活路が見えるのは嬉しいことです。



この作品の舞台は、１９６３年の横浜。
言ってみれば、父親宮崎駿の青春時代を描いた映画です。話の内容も、立派な父親のお陰で、二人が幸せになるというラブストーリー。舞台となる、「カルチェラタン」という部活動用の古びた建物が、存続の危機に面したときに、それを救ってくれるたのも、やはり立派な“大人”です。
とにかく、父親たちが輝いている。見方によっては、「どうだ、昔の大人って凄いだろ」と、「昔の日本は良かっただろ」と言っているようにも感じます。実際、この映画の企画をした宮崎駿さんのなかには、そんな想いもあったのかな、という気もしますけど。
それを、わざわざ自分の息子に作らせた、駿さんも凄いし、監督を引き受けた吾朗さんも凄いです。

この映画を作るにあたり、駿さんはこのように言っています。



やはり東京オリンピック以降、日本は変ったんですね。ある時期から若者達が「この世界はずっと同じものが続いている」と思うようになっているんですよ。歴史的な時代の変化がこの国にあったということが届いていないんです。

人はどういうふうに生きなければいけないのか、ということを。志をどういうふうに持たなければいけないのか、ということを。ずっと人間たちは考えてきたはずなのに、お金という物資の崇拝がますますはびこって経済の数字の話ばかりをするようになった。
それは、特に１９８０年代以降だと思いますけれども、それがにっちもさっちもいかなくなって、まだ二十歳の娘が自分の年金を心配するという愚劣なことになったんです。自分の可能性を、いったいどういうふうに思っているのか。

若者像がずいぶん変ってきました。最初の就職活動に失敗したらおしまいという。就職活動に成功した学生たちも、寒気がするぐらい情けないことをしゃべっていますよね。「私はこうやって生き延びた」みたいなね。働いてもいないのに、就職活動がゴールだというのは滑稽ですよね。
若者は修業が必要なんです。でも修業をしないんです。テレビを見ていれば、インターネットを開けば、修業しなくても済むと思っている人が多すぎる。あまりにも足元だけを見て生きている。一人の人間として、ちゃんと旗を揚げること、そういうことを表現する映画ができないかと思ったんです。



この映画の企画をしたときは、当然、震災の前だったわけですけども、震災後の現在でも、この映画の伝えることは、この時代に耐えうるものになっています。
今の日本は、エネルギー問題が生じています。これまでの、ゆるやかな時代の変化とは違って、これからの日本は、急速な価値観の変化が求められることになりました。
きっと、僕らの世代では経験していない速度で、時代が動いていくと思います。
そのときに、時代の変わり目がきたときに、どこを向いて進むのか。ということを、問う映画です。



吾朗さんは、現在とこの先の道を照らすために、５０年前の世界を描いています。
それは、俊が討論会で叫ぶ台詞に現われています。

「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか！？」
「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか！？」
「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか！！」

この台詞は、宮崎駿の脚本には無かったもので、吾朗監督が後から追加したものなんだとか。
生硬で、スマートでない表現が、いかにも吾朗さんらしい台詞です。

過去を知ることは、自分の居場所を知ること、自分の進む道を照らすこと。
先人のやってきたことを、ないがしろにしてはいけない。
台詞で説明してしまうところが、愚直な宮崎吾朗監督らしいところです。

“これから日本は、どこに向かって進むのか”という意識が、皮肉にも震災によって高くなったときに、この映画が公開されたのは不思議なもんです。

きっと、これからは、部分的に時代が戻っていくだろう、と僕は思っています。
先人の生き方に還ることが、必ずしも文明の後退とはなりません。忘れかけていたものをブラッシュアップして、洗練させていくことも大事なことです。道というものは、振り子のように行ったり来たりしながら、同じところのいるようで、少しずつ高台へ上っていくものなのだから。

それにしてもこの映画、いかにもジブリらしい恋愛ものだった。



 </description>
		<link>http://abemasato.com/memo/movie/kokuriko/</link>
			</item>
	<item>
		<title>祖父との対話</title>
		<description>
先日、親戚の集まりに参加して、祖父母のお墓参りに行ってきた。
親戚と集まるのも久しぶりだけれど、お墓参りはもっと久しぶりのこと。あまりにも期間が空きすぎていたので、行かなければと思っていた折に、従兄弟からのお誘いも相まって追善供養に伺ったのでした。
今回の記事は、自分の祖父の話なので読んでも面白くありません。親戚及び自分のための覚書のようなものであることを前置きしておきます。

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絶えざる緊張の哲学の夢破れ、悲観と断念と再考とが思想の上に萠して来て、やがて思想が変わる……というような事を考えてみる。変わった思想をふりかえってみると、妙に俗っぽい、考えた挙句自分が人間並に堕した事を発見する。自分の力を過信した結末は、闘争の敗北となり、人間は人間だけの事しか出来ぬという事になり、今まで貶していた人間の真似をする。そして、それを是認し理論化し、正当の理由の発見に努める。そんなことを一寸想像してみた。

この小難しい文章を書いたのは、僕の祖父。
祖父は、僕が生まれるずっと昔に亡くなっているので、“お爺ちゃん”という存在でありながら、どこか遠い先祖という印象が強かった。僕の母の“父”なのだから、血筋は近いのだけれど、やはり一度も会ったことがないのだから、写真の人という枠から抜け出すことはなかった。

これまでにも何度か、母から祖父の話はきいたことがある。その印象では、真面目で、頑固で、愚直な人だったということ。毎日決まった時間に帰宅して、囲碁を打っているか哲学の本を読んでいるという生活をしていたらしい。会社の付き合いで飲みに行くことなども無かったようだ。他人に左右されない性格で、ある意味では信念の強い人。別の見方をすると、他人に合わせることができない不器用な人。

「見た目もごつごつしてるし、馴れ合いの付き合いをする人じゃなかったから、周りからは取っ付きにくいと思われていたかもね。人付き合いが下手だから、誤解されることも多くてねぇ」というのが母の言葉だった。



先日の集まりで、叔父さんにも、祖父のことを尋ねてみたけれど、やはり、「一人でいることが多い人だったね」という。子供が小さいときでも一緒に遊ぶようなこともなかったし、とにかくあまり喋らない人だったらしい。一緒に何かをしたといえば、囲碁を打ったことくらいのようだ。親子でありながら、どういうことを考えている人なのか、よく分からなかったのだという。
だけれど、祖父は筆まめな人だったようで、歌を詠んだり日記を書いたり、いろいろ文章を残していて、それを読んで、「ああ、こういうことを考えていたのか」と、そこでやっと解る人だったそうだ。
きっと、自分の基地を、他人の手の届かないところに置いておきたい人だったのだろう。

その書き残した文章が、「本になっているので、それを読むとどんな人か分かるよ」とのことだった。祖父が死んだあとに、祖母が編集して本にしたのだという。早い死だったこともあって、なにか形に残しておきたいという想いが強かったのだと思う。
そんなわけで、そのような本があることを知ったので、早速母から借りて読んでみた。

その前に、祖母のことを説明しておくと、寡黙な祖父とは対照的に、よく喋る人だった。交友関係も広く、いろんなところに友達がいて、しょっちゅうお喋りしに出かけていたような記憶がある。
書道家をしていて、どちらかといえば感性で生きている、開けた人だったと思う。きっと、感性の妻と理性の夫で、相性も良かったんじゃないのかな。
そう、祖父は、どちらかといえば理性的な人だったのだと思う。
かといって、想像力が乏しかったわけではなくて、登山やキャンプが好きだったようなので、きっと感性や感覚的なものも強かったはずだ。
きっと、感覚的にいろいろ拾いながら、理性的に解釈していく人だったんじゃないかと、僕は想像している。

学生時代は山岳部。社会人になってからも登山や、スキーやキャンプに出かけていたようだ。
日記の文を読むと、仕事に忙殺されて腐った様子が窺える。

僕のような凝り性は一ヶ月都会の沈滞した空気を吸っていると、どうしてもよくない。すぐに肩がこって仕事が嫌になったり、勉強が出来なくなったりする。これは気分ばかりの問題じゃない、肉体的な問題だから少々厄介だ。困ったもんだよ。
ところが山へ行くと妙に健康が回復する。唯、人なきをうらむのみだ。今月はまだ一回も登らない。相当くさってきた。願わくば日曜よ天気なれ。

東京の空気が合わないと思いながら、祖父はずっと東京に暮らしていた。
子供が六人もいた（つまり僕の叔父と叔母が六人）のだから、そう簡単に職を変えて引っ越すこともできないし、転職をすることがあまり一般的ではない時代だったかもしれない。
それにしても、生まれも育ちも都会の僕が、都市の空気で疲れやすいのは、この遺伝子のせいかもしれない。と勝手に、お爺ちゃんのせいにしておこう。



失業中の友人に当てた手紙には、このように書かれていた。

君は四十で敗亡処ではない。七転八起とも言い、人生は五十からとも言う。大いに元気を出してくれ。それに君は妻子はなし、その点今となっては却って勝者かもしれない。僕なども子供が出来すぎて失敗した。子供の無心な顔を見ると大いに頑張らねばならぬという気がする。
今は国民全部が耐え切れないほどの重圧に喘いでいる時だ。羽振りのよい連中の姿は羨ましくも大きく目に見えるが、人数にしてみれば極く一小部分であろう。我々は天から降ってるような僥倖を期待してはならない。僕は地道に進む方針である。

ここでは、失業中の友人を励ますように書かれているが、お爺ちゃん自身も、一度失業している。
人に懐かぬ性格から、上司と反りが合わずにリストラの対象になってしまったようだ。正確には、自分から辞めたようだが、辞めざるを得ない状況に追い込まれていたらしい。
その後、向いていないと分かっていながら、独立して事業を営むことになる。きっと、本人も、お婆ちゃんも、そうとう苦しい思いをしたんじゃないかと思う。
戦前から戦後間もない時代なので、誰しも苦労はあったと思うけれど、なにしろ、お爺ちゃんは世渡りの得意なタイプとは程遠い。
友人に宛てた手紙に、苦労話が綴られていた。

僕は整理されてから始めて身の振り方を考えはじめたのだが、思えばのんきなものだった。中年になってから誰もつかってくれるものもないので、小さく事業を始める事とし、同時にやめた課長級二人で取りかかった。その後今まで何だかんだとロスばかり多くて弱っている。

いくら無謀でも乗り出した船だ、倒れるか乗り切るか、最後までやってみようと決心している。世間は冷たいが、妻の母なども大いに心配して僕のために無理して金融の道をつけてくれたり、何とかして成功させたいと努力していてくれる。此の努力に対しても僕は成功しなければならぬと考えている。

世に活きる厳しさを、これほど身をもってひしひしと感ぜさせられるとは予想しなかった。併し悲観ばかりはしていない。将来に対して、そこはかとなき明るさも感じている。

君は僕を線が太いというが大いにそうではない。も少し太い線が欲しいとさえ思う。事業をやるには無神経ほどの大胆さが必要のようだ。それを思えば僕はまだまだ小心である。一つには経験がないからスポーツでいう試合度胸がないのと、一つには天性の固苦しさによるものである。此の乗るか反るかの経験をすれば、僕の人間もいくらか世間じみてくるだろう。

今は修業中であると考えている。此の修業を早く卒業したいとも考えている。君も僕の事業が成功するように大いに祈ってくれ給え。そしてお互いに今日の窮況を脱却して、ゆっくりと懐旧談に花を咲かせたいものである。

この手紙のやり取りをしているのは、いつも同じ人が相手だった。どうやら、学生時代からの親友のようだ。お互いに、歴史や哲学に関心を持っていた人なので、難しいことを言い合って、お互いを高めあい励ましあっていたのだろう。
お爺ちゃんの性格では、交友関係は広いほうじゃない。狭くて深いタイプだ。
手紙には、これだけ書いているけれど、家族にもほとんど喋らなかったというのだから、そうとう仲の良い人にしか、内側にあるものは見せられなかったようだ。

厚い壁と開かない扉は、寄ってくる人を跳ね返す。
でも、例えば、今、お爺ちゃんが生きていたとしたら。
まだ元気なお爺ちゃんがいたとしたら。
僕はどうだったかな、と考える。

なんとなく、同じ世界を共有できたかな、という気がする。
もしかしたら、お互いにほとんど喋らないかもしれないけれど、空気の合う人な気がした。

この世とあの世の境目を解いて、心の行き来をするというのは、こういうことなんじゃないだろうか。
僕は、魂だとか、あの世からの声だとか、死者の存在を、あまりオカルトの意味で使うことはない。けれど、本を読めば、確かに存在を感じる。
この本を読んでいるあいだは、まるで自分がお爺ちゃんの人生を追体験しているようだった。
極論をいってしまえば、人は人のなかに存在することになる。死者に対しては、思い出すことが一番大事なことなんだ。

時という奴は実に偉大な力の持ち主だ。苦しかった事、悲しかった事、嬉しかった事迄、如何に精練されて心地よい思い出となる事だろう。どうにもならぬと思った事がどうにかなっているから不思議だ。ほんとにどうにもならぬ境遇も確かにある訳だが、そこに達するまでに、戦う余地が考えているより大きいものの様に感ずる。我々は一寸つまづいても絶大の苦痛のように考えたり、乗るかそるかの分かれ目だと思ったり、此の先どうなる事かと心配したりするのじゃないだろうかと考えるようになった。人間はどんなに落ちぶれても闘えるものだ。
君の苦戦、同情は禁物だろう。併し我々は共に人生という大海を航する僚船でありたい。勿論、君に当たる浪と、僕に当たる浪とは大いに異なる訳だが。

やはり人間には進歩が必要だ。無意識と平凡は、先ず人生から取り除かねばならぬ。やっぱり人生は君もいう通り難しいものだ。併し僕は、苦は矛盾を解決せんとする意志に伴って現われるといった君の言葉が気に入った。お互いに泣き言いわずに頑張るとしよう。

お爺ちゃんの事業は成功しなかった。
しかし、事業には失敗してしまったけれど、元の会社に戻れることになった。不仲だった上司は退職し、復帰の誘いを受けたのだ。これで、お婆ちゃんも一安心。生活が楽になる。と思ったはずだ。
だけれど、この復帰の後に、お爺ちゃんは“ホジキン氏病”にかかってしまう。当時は、不治の病といわれた心臓の病気だ。
入院と通院を一年間くりかえし、60年の人生に幕を閉じた。
病に倒れるまで、這いながら仕事には行っていたそうだ。

お疲れ様でした、お爺ちゃん。

この一連の私的な文章を、ブログに晒すのは如何なものか。とも思った。
けれど、自分が会ったことのない祖父に、本を通して会ったことを、昇華するには、これぐらいしか思い浮かばなかった。

どうか、どうか、怒っていませんように。
孫のやったことだから、許してちょーだい。
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