<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
>

<channel rdf:about="https://envyisignorance.seesaa.space/">
<title>羨望は無知[Seesaa支店]</title>
<link>https://envyisignorance.seesaa.space/</link>
<description>羨望は無知（http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/）のSeesaa支店です。昔書いた記事の保管と再掲。追記があれば加筆します。</description>
<dc:language>ja</dc:language>
<admin:generatorAgent rdf:resource="https://blog.seesaa.jp/" />
<items>
<rdf:Seq>
<rdf:li rdf:resource="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2478100.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2452650.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2429048.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2349794.html" />
</rdf:Seq>
</items>
</channel>

<item rdf:about="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2478100.html">
<link>https://envyisignorance.seesaa.space/article/2478100.html</link>
<title>ハレとケの話の続き(2004-10-04)</title>
<description>2004-10-04に書いた「ハレとケの話の続き」を振り返る。</description>
<dc:subject>エンターテイメント考察</dc:subject>
<dc:creator>ConquestArrow</dc:creator>
<dc:date>2005-03-18T19:16:51+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
2004-10-04に書いた「<a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041004#1096874858" title="羨望は無知 - 他人のために生きることは容易である。誰でも皆していることである">ハレとケの話の続き</a>」を振り返る。<br /><a name="more"></a><blockquote><br /><a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041003#1096811636">昨日書いた事</a>の続き。<br /><br />昨日の話は、もともとSNSはゲームなのか、というところから出た話だけれど、とりあえずこれは持ち越し。で、ゲームとハレとケの話。<br /><br />コンピューターゲーム、特にいわゆるテレビゲームは「ハレ」として熱狂的に受け入れられた。発売日に長蛇の列、なんて”お祭り”騒ぎはその証拠として分かりやすい。<br /><br />今の流れとしては、これが「ケ」の方向へ向っている。別に存在自体が珍しい訳でもなくなり、コンテンツそれ自体の力で驚きを与えているかといえばそうではない。非エンタテイメント用途にゲームを活用しようというシリアスゲームはその流れの最右翼だ。((単純にビジネス的観点から見れば、新しい市場が生まれる事が予想され、将来的にオイシイビジネスとなる素質がある。私は興味ないが。))<br /><br />元々現代の生活ではハレとケ、正確には”旧来の”ハレとケが混ざりつつある。そういったなかで、日常生活の中の「ハレ」という方向性が多く見られる。端的に言えば、携帯電話などいい例だ。役に立つし、面白い。まさにケの中のハレである。ここ最近、「ゲームが役に立つか」というテーマをよく耳にするようになった。娯楽であったゲームに「役に立つ」というある意味真逆の概念をつき合わせているわけだが、そういうことをするのが現代だ。<br /><br />「役に立つゲーム」とは何か。色々試みもあるし、色々役立っているものもある。エデュテイメントはよく、例に出される筆頭だが、「つまらなくて役に立たない」ものの筆頭でもあったりするので、あまりいい例ではない。<br /><br />実は一番普及している「役に立つゲーム」とは携帯電話向けゲームである。携帯電話向けゲームは、昔ながらの「枯れた」ゲームがほとんどである。携帯電話向けゲームでオリジナリティ溢れるタイトルを、という試みはコストに見合わず、そもそもユーザーに求められていない。つまり、「ハレ」は求められていない。求められているのは、「ひまつぶし」になる「ケ」。ほんのり「ハレ」の雰囲気が味わえるぐらいの「ケ」、それが携帯電話向けのゲームである。<br /><br />また、「ケ」のゲームが求められいるのは意外にもコンシューマー向けの据え置き型ゲーム機用ゲームも同じだったりする。かつてのファミコンの時代ならば、「ハレ」であったのだが、例えば今のPS2向けのタイトルをざっと見た時に「ハレ」だと断言できようか。もちろん「ハレ」もあるが、「ケ」というべきタイトルが多々あることだろう。ファミコンから20年、市場は「ハレ」から「ケ」へシフトしている。<br /><br />じゃあ、全部コンピューターゲームは「ケ」になるのか、というとそうでもない。例えばポータブル型の携帯ゲーム機用ゲームは「ハレ」だ。特に今後のNDS、PSPが形作るであろうワイヤレス市場は「ハレ」だ。というよりも、それを売りにせざるを得ない(任天堂が積極的なのに対し、SCEは結果的に積極的にならなければいけない状況のようだ。いずれにせよ同じ方向を向いている。)。そういえば、祭りの和太鼓を題材とした某アーケードゲームが大ヒットしたが、物凄く示唆深いではないか。なんせ題材が「ハレ」なのだから。<br /><br />「ハレ」を求める人々の層というのは確実に存在している。ハレとケが区別が薄くなった現代でさえ、―いやむしろそういう現代だからこそ。過去と比べて確実に面白くなっているゲームに対し、「最近のゲームは詰まらない」と言うのは、ゲームの「ケ（日常）」化を示唆すると共に、ゲームに「ハレ」を求める層がいることを如実に物語っている。<br /><br />祭りも正月も無形化するなかで、ゲームまでも日常化するのか。それとも、「ハレ」として存在し得るのか。その答えは分からないが、私は後者を信じたい。<br /></blockquote><br /><br /><h4>振り返る</h4><br />その後の記事で<a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20050309#1110308488" target="_blank">日常と非日常の話がゲームとアートの対比でも再登場</a>している。アートを日常の再発見と捉えると、この話も理解が易くなるだろう。<br /><br />また、「積極的遊び」と「消極的遊び」の違い、といった話もあるのだが、これは機会を改めて本家の方で述べたい。

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2452650.html">
<link>https://envyisignorance.seesaa.space/article/2452650.html</link>
<title>PSP vs. NDS ?(2004-10-30)</title>
<description>2004-10-30付の「PSP vs. NDS ? 」を振り返る。</description>
<dc:subject>ゲームビジネス</dc:subject>
<dc:creator>ConquestArrow</dc:creator>
<dc:date>2005-03-17T04:31:23+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
2004-10-30付の「<a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041030#1099089087" title="羨望は無知 - 真実はこの世の中で一番面白い冗談である">PSP vs. NDS ? </a>」を振り返る。<br /><a name="more"></a><blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/edit?date=20041030" title="羨望は無知"><br />PSPの価格が発表されて以来、リファラに「PSP NDS 比較」という検索結果が沢山残っているようになった。まあ、欲しいと思っても、流石に2台も購入できないのでどちらかに絞るしかない、というのは理解できる。合計すれば4万ちかくなる訳であるし。で、それを調べている人たちが沢山いるようなので、個人的な意見を書いておこうかと思う。何かの判断材料になればこれ幸いである。<br /><br />まず、前提として、「<em>PSP vs. NDSはナンセンス</em>」である。そりゃあ価格や発売時期などを見れば競っているようにも見えるし、「携帯型ゲーム機」という昔ながらの括りで見れば、ライバルに見えるのも仕方ない。だがしかし、それは表層をなぞっているに過ぎない。<br /><br />そもそも、これら2台を単に「携帯型ゲーム機」と捉えること自体が<em>時代遅れ</em>だ。GBAをライバル視して開発されたPSPならともかくNDSのいったいどこが「携帯型ゲーム機」なのだろう。持ち運べるから「携帯型ゲーム機」だというならば、GCも立派な「携帯型ゲーム機」だ。<br /><br />要点を述べれば、これら2台は見ている市場がまったく違う。それは単に年齢層という枠ではない。PSPが見ているのはGBA市場である。そこを主体にしてさらに携帯音楽プレイヤー市場や携帯メディアプレイヤー市場、あるいは携帯電話市場も取り込もうという戦略である。PS2戦略を携帯型ゲーム機市場で起こそうとしている、とも言える。PS2がDVDプレイヤーとしての存在感がものすごくあったように、これまでの携帯型ゲーム機という括りでは捉えきれない、それがPSPである。<br /><br />一方、NDSはまったく新しい市場を狙っている。詳しくは<a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041012#1097524938">先日の記事</a>を見てもらいたいが、そもそも任天堂はGBAで十分安泰な訳で、わざわざ自ら市場を揺らしにかかるとは考えにくいではないか。むしろ、携帯型ゲーム機というよりは、据え置き型から<em>TVという制限を取り払った</em>、と考えたほうが近い。いわば「"TVゲーム"の終焉」を狙ったもの、それがNDSとも言える。<br /><br />したがって、これらを比較するのは「寿司とワインどっちがいい？」と聞くようなもので、似てはいるが比較対象には成り得ない。敢えて言うならば、<em>どっちも凄い</em>。どちらを選んだにせよ、お買い得だ。<em>一体、どこの業界であんなPSPのような高性能で低価格なものがあったり、NDSのようなアイディアが詰まったものが同時に出てくるというのだろう？</em>こんな贅沢な選択肢があるなんて、ゲーム好きはゲーム好きであることを幸せに思ったほうが良いだろう。余裕があるのならどっちも買ったほうが良いくらいだ。<br /><br /><a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041030#1099089087" title="羨望は無知 - 真実はこの世の中で一番面白い冗談である">羨望は無知：PSP vs. NDS ? </a><br /></blockquote><br /><br /><h4>振りかえる</h4><br /><br />とはいえ現実的に競っているように見えるのは事実であるし、このような視点を持ってしまうのも仕方ないかな、とも思ったりもするのである。その視点で見てみることは消してムダではない。重要なのはその視点に捕われない事だ。<br /><br />なんだか知らないが、未だに一般紙等で「北米でも激突！」などと言っているようだ。注意しなくていけないのはこういったど素人の話に流されてしまうことだ。所詮一般紙の記事である。元々「専門家」が少ない分野なのだから、一般紙の記事でまともな記事を期待するほうがおかしい。この記事から4ヶ月経つが、両者が発売されてもなお、この話が通用してしまう。うーむ、とうなってしまうしかない。

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2429048.html">
<link>https://envyisignorance.seesaa.space/article/2429048.html</link>
<title>ゲームに於けるブランド(2004-10-15)</title>
<description>2004年10月15日に書いた「ゲームに於けるブランド」を振り返る。NDSのネーミングというかブランド戦略に噛み付いた生意気なエントリーである。</description>
<dc:subject>ゲームビジネス</dc:subject>
<dc:creator>ConquestArrow</dc:creator>
<dc:date>2005-03-15T20:07:17+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
2004年10月15日に書いた「<a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041015#1097833477" title="羨望は無知 - 大人とは、裏切られた青年の姿である">ゲームに於けるブランド</a>」を振り返る。NDSのネーミングというかブランド戦略に噛み付いた生意気なエントリーである。<br /><br /><br /><br /><a name="more"></a><blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20041015#1097833477"><br />先日Trackbackを送らせて頂いた<a href="http://nintendods.exblog.jp/" title="Nintendo DS ブログ">Nintendo DS ブログ</a>にNDSのファーストインプレッションが載っている。その中に興味深い記述があった。<br /><br /><blockquote cite="http://nintendods.exblog.jp/555784" title="Nintendo DS ブログ"><br />NDSは非常に面白いのですが、やはり任天堂ブランドは「子供向け」といった観念が一般に広まっていますので、大人にバカ売れするのは難しいでしょう。やってみたらハマると思うんですけどね。大人でも。<br /><a href="http://nintendods.exblog.jp/555784" target="_blank">http://nintendods.exblog.jp/555784</a><br /></blockquote><br /><br />任天堂自身が、<br /><br /><blockquote cite="http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20041007/nintendo.htm" title="任天堂、新型携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」実機を公開。宮本茂氏「楽しいおもちゃです!」"><br />対象年齢は「5才から95才で、面白いことが好きな人はすべて」としている。<br /><a href="http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20041007/nintendo.htm" target="_blank">http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20041007/nintendo.htm</a><br /></blockquote><br /><br />と言っている事を考えると、世の中は任天堂の考える方向には行っていない様だ。5歳の人間に合わせるとなると、可能なコンテンツ表現やハードギミックにも制限が出てくる。加えて何故か任天堂の場合、コンテンツの世界観や雰囲気(佐藤雅彦氏の言葉を借りれば「トーン」)が共通なので、どうしてもある一定のイメージが構築されてしまう。一度「子供向け」のイメージが付けば、これを覆すのは難しい仕事となる。<br /><br />この例を見ていると任天堂はブランディング戦略が下手だな、と思う。これでも寧ろゲーム業界の中ではいい方だ。かのファミコン・ミニもブランディングとパッケージングが上手かった為、あれだけのブームになった((もし、ノスタルジックなレトロブームを煽っただけならば、あそこまで売れなかった。ナムコミュージアムなどの例を挙げるまでも無いことだ。))。NDSのCMもそれなりに良く出来ているとは思う。しかし、他業種からみれば、圧倒的に下手くそだ。<br /><br />一つの企業が複数のブランドを持ち、ターゲット層ごとに使い分けていると言うのは珍しいことではない。ゲームの場合、タイトル毎のブランドもあることにはあるが、日本においてはコンテンツメーカー企業それ自体がブランドだ。米国市場の様にディベロッパーとパブリッシャーが大きく分かれているわけではない。このような場合、大抵は企業名＝ブランドと化している。一度イメージが付いてしまうと、なかなか複数のターゲットに向けて訴求することが難しくなる。<br /><br />トヨタ自動車の例を挙げると、国内ではいいものの、米国で「安くて」性能のいいブランドというイメージが消費者に付いてしまい、車種ごとにブランドを設定しても企業そのものに付いたイメージを払拭しきれないという時期があった((これは現在でもそうらしい。))。ちょうど、子供向けのイメージが払拭しきれない今の任天堂のようだ。<br /><br />そこで、トヨタはどうしたかといえば、海外向けに高級ブランド「レクサス」を立ち上げた。これが10数年前のことであり、いまや米国市場においてレクサスブランドはかのメルセデス=ベンツブランドよりも高い評価を受けるまでになった。今では海外の消費者はトヨタとレクサスは別企業だと思っている人も少なく無いそうである。この流れは一定のインパクトがあり、ホンダ、日産がこの流れに続いた。そして今度は日本に凱旋帰国するそうだ。<br /><br />この方法がゲームビジネスでも通用するかどうかは別の問題である。ただし、これくらいはやってもいいんでないの、と思ったりもする。そういう意味で「ニンテンドーDS」という名称も、もう少し考えようがあっただろう。<br /><br />ちなみに、カプコンから分社化した<a href="http://www.cloverstudio.co.jp/" title="クローバースタジオ株式会社">クローバースタジオ株式会社</a>やかつてのセガの子会社ブランドはある意味複数ブランド戦略と言えるかもしれない。セガの子会社ブランドは一定のブランドイメージを作りつつあったような気もするが、セガの方針転換でその流れがどうなるか見る事は出来なくなった。ここはクローバースタジオに注目かもしれない。<br /><br />ブランドと言うのは言ってしまえば「偏見」だ。ブランドイメージが出来上がるというのは偏見で見方が固まることと同義であり、それが良いものでなければ、なんらかの策を打たねばならない。「ゲーム」というブランド（及び偏見）もどうもよい方向に行っていないような気がする。ここらで、新しいブランドイメージを作るべき、かもしれない。<br /></blockquote><br /><br /><h4>振り返る</h4><br />今となって振り返ってみれば、NDSも発売からしばらく経って、新しさを演出できつつあるので、「下手」とココで批判するほどでは結局なかった。もっとも今後1年の間にどれだけその流れを押しすすめられるか注意しないといけないだろう。<br /><br />現実問題として、やはり若年層に最も受け入れられているらしいから、少なくとも「ニンテンドー」を冠したのはまずかったよね、といまさらながら思う。この偏見は根強いので、相当今後頑張らないとGBAの高機能版という偏見は払拭できないだろう。なんせ、開発者の間でもNDS＝GBAの高機能版というイメージが発売前はあったのだから、大抵のプレイヤーにとっても…いわずもがな、である。<br /><br />2005年の4月以降はNDSにとって、「第2のローンチ」と呼ばれている。nintendogsという強力なキラーとなり得るソフトが出ること、nintendogsもそうだが、エレクトロプランクトンやDS索引辞典など「ゲーム」の枠にとどまらないソフトがでること、ソフトの数が出揃い始めることなどが理由として上げられている。ローンチが勝負どころなのはどのハードウェア・プラットホームでも一緒だが、NDSの場合は第2のローンチも勝負どころだろう。つまり、最初のローンチが既存のプレイヤー層に対するインパクトであり、「第2のローンチ」は既存ではない新規層、いわゆる非ゲーマー層へのインパクトであるのだ。<br /><br />「第2のローンチ」の成功の度合いによって、NDSというプラットホームの価値が決まる、と言っても過言ではない。なぜならNDSは「違うこと」を強力な売りに、新たな市場への刺客としての使命が課せられているからである。NDSが今までの「ゲーム機」の枠にそのブランドイメージを留めるか、それとも枠を広げるか。それは分からないが、他のプラットホーム・ホルダーにその自覚が見られないことを考えると、期待せずにはいられない。

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://envyisignorance.seesaa.space/article/2349794.html">
<link>https://envyisignorance.seesaa.space/article/2349794.html</link>
<title>水口哲也氏講演(2005-01-20)</title>
<description>まず最初に2005-01-20付けの「水口哲也氏講演」を振り返る。</description>
<dc:subject>ゲームイベントレポート</dc:subject>
<dc:creator>ConquestArrow</dc:creator>
<dc:date>2005-03-10T19:17:07+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
まず最初に2005-01-20付けの「<a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20050120#1106227945" title="羨望は無知 - 世界は人類で始まった　そして人類なしで終わるであろう">水口哲也氏講演</a>」を振り返る。<a name="more"></a><blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20050120#1106227945" title="羨望は無知 - 世界は人類で始まった　そして人類なしで終わるであろう"><br />都内から戻ってきて、次は水口哲也氏の講演である。水口氏の講演は大学に入ってから何故か毎年一回は聞いている。今回は前々回と同じ場なので基本的には同じ話題が続いていたが、話の後半は今まで聞いた話の中でもっとも面白い話だった。<br /><br />去年の講演はあまり面白くなかったが、それはある程度話題が規定されていた中だったためか、水口さんは話しにくそうにしていた。それに比べると今年はずっと生き生きしていた。ここ数年水口さん自身の環境も大きく変わっているはずなのに、むしろ生き生きしているのは、その変化を知っている身としては少し奇妙にも写ったが。やはり、自分のいいたい話が出来ている、また、自分のやりたいことが身軽になって出来ている、そういうことがあの生き生きさに繋がっているのかもしれない。<br /><br />色々な話をされていたが、記憶に残っている話だけピックアップ。<br /><br /><h4>感情のストック＆リリース</h4><br /><br />「何故ゲームで人は泣かないのか？」―それは映画などは感情がどんどんストックしてあるとき規定量を超えてしまうので「泣いてしまう」が、一方ゲームの場合感情のストックがたまった後に、アクションを起こすことでそれをリリースする。従って、人はゲームでは泣かない。受動のメディアと能動のメディアの大きな違いはそれである。<br />先天的欲求と後天的欲求<br /><br />欲求には二種類ある。先天的欲求と後天的欲求である。前者は生理的・原始的なものであり、恐らくこれは30～40種くらいだろうと考えている。これは文化や言葉に左右されないプリミティブなものである。後者は大人になるにつれ出来てくる個人的嗜好である。これの種類は無限に近い。<br /><br />ポケモンは収集欲・競争欲・対戦欲などの先天的欲求をうまく組み合わせたものである。子供は先天的欲求の影響が大きく、後天的欲求が少ないために、ポケモンはディテールがたとえ日本的なものであっても気にせず世界中で受け入れられる。大人になるにつれ後天的欲求つまり個人的嗜好の影響が大きくなり、～じゃなければ、とか、やっぱり～だよね、と言い始めるようになる。<br /><br />（注：つまりこれは何故ゲームが大人層になかなか受け入れられないのか、という説明でもある。ディテールを追い求めた細分化の流れはまさにこれであろう。）<br /><br />ある程度、広く受け入れられるためには先天的欲求を追及する必要がある。<br /><br /><h4>受動と能動のスイッチ</h4><br /><br />人間には受動と能動のスイッチがある。コール＆レスポンス（注：このコール＆レスポンスの話はよくしているような気がする）、つまりインタラクティブな活動の時に、同時にコールとレスポンスをする人はいない。必ずスイッチの切り替わりがある。<br /><br />一時期映画なのかゲームなのか良く分からないひどいタイトルが出ていたことがあったが、この受動と能動の切り替えという人間の仕組みを無視した為にひどいものだった。このような人間の仕組みには気をつけなくてはいけない。<br /><h4>「ガムが売れなくなったのはケータイが原因」</h4><br /><br />ガムが数年前に売れなくなったことがある。なぜかと思って調べてみたら、理由は携帯電話だった、という話がある。飴やチョコレートなどの菓子類ではなく何故携帯電話なのか。<br /><br />それはガムがどんな欲求を満たしているかを考えれば原因が分かる。ガムは暇つぶし・口さみしさを満たす・何かしていたい、というような欲求を満たしてくれるものだった。ケータイはそれらの欲求を満たしてくれる為に、ガムに取って代わった。<br /><br />このように欲求を満たすものは時に大きく質が変わる。しかも近年はその変化が激しくなった。欲求を見ていないとその変化はわからないだろう。ゲームも、おそらく何かに取って代わる。それはゲーム自体の進化かもしれないし、まったく別のものかもしれない。いずれにせよ今のままのゲームではなくなる。<br /><br />--<br /><br />これ以外にもROMは無くなるとか色々と言っていたが、これらの話は前々回には聞かれなかった話なので興味深いものであった。ひとつ確信したこととして、水口氏は「感覚と欲求に基づくゲームデザイン」の理論を自身の中に確固とした形で確立しつつある、ということがある。今回はそれをものすごく感じた。去年や一昨年の時点ではまだそれが出来ているようには感じられなかったので、ここ一年の間に言語分析化が進んだようである。<br /><br />水口氏は感覚的な話が多い、と言われるが恐らくそれはなんとなく分かっているが言語化出来ないゆえの現象だったのであろう。今回は大分具体的な形で話していたように感じた。是非、言語化文章化してオープンにして欲しいものである。<br /><br /><a href="http://d.hatena.ne.jp/ConquestArrow/20050120#1106227945" title="羨望は無知 - 世界は人類で始まった　そして人類なしで終わるであろう">羨望は無知：水口哲也氏講演</a><br /></blockquote><br /><br /><h4>振り返る</h4><br /><br />この記事は島国大和氏の<a href="http://blog3.fc2.com/dochikushow/blog-entry-35.html" title="島国大和のド畜生 ゲームで泣くという事。">「島国大和のド畜生」</a>や<a href="http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050203#mizu" title="ARTIFACT@ハテナ系">「ARTIFACT@ハテナ系」</a>といった比較的大手サイトに補足されたので瞬間風速が凄かった。特に注目されたのは「ゲームで泣く」という話であり、「ゲームで泣かないというけれど泣くよ」といった主張や、「なるほど」と水口氏の意見にうなずく意見が見られた。<br /><br />個人的にはこの話がここまで注目されるとは思わなかったので少々驚いた。なんせ、この話は水口氏の十八番であり、今回の主張もその延長線上にあったからである。この後、Xbox参入の話が出た際のインタビューでも水口氏はゲームで喜怒哀楽を喚起することに並々ならぬ意欲をもって話している。水口氏の今後も含めて、ストーリーメディア以外でそれが可能なのか、注目である。

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
</rdf:RDF>

