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	<title>牧師さんの「ためになる話」のネタ帳</title>
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	<description>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)が、生き方を応援するために、オリジナルの「日々の法則」や、聖書の名言や格言の紹介など、ユニークに、シンプルに、ちょっとした話をお届けします。</description>
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	<title>キリスト教牧師の聖書メッセージ</title>
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		<title>キリスト教牧師の聖書メッセージ</title>
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		<title>逸れた今も、完成図の外には出ていない｜聖書の言葉 希望の根拠</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 04 Sep 2026 19:54:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネの黙示録]]></category>
		<category><![CDATA[完成図]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/09/20260904_195106_2022年11月6日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>「取り返しがつかない」と感じながら、どこかでルートを外れてしまった気がしていませんか。ヨハネの黙示録が最初に見せるのは、燭台の真ん中に立ち、すべてを視野に収める方の姿です。逸れた今も、その視野の外に出たことは一度もないと、この記事は静かに語ります。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/09/20260904_195106_2022年11月6日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>どこかでルートを外れてしまった気がしていますか。<br />
人に語りながら、自分はとっくに外れた気がしている——そんな感覚かもしれません。<br />
聖書の最後の書物が最初に見せるのは、そんな場所にいる人への言葉です。</p>
<blockquote>
<p>私は私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、7つの金の燭台が見えた。燭台の真ん中には、足まで垂れた衣を着て、胸に金の帯を締めた人の子のような方が見えた。<br />
（ヨハネの黙示録）</p>
</blockquote>
<h2>逸れた今も、完成図の外には出ていない</h2>
<p>ゴルフのボールが草むらに入っても、池に落ちても、ホールは消えません。<br />
そこからもう一度、終わりに向かって打ち直すだけです。<br />
「池に落ちたから、天での歩みも池の中」にはならない——そう、この書物は語ります。</p>
<h3>完成図は、すでに真ん中に立っていた</h3>
<p>ヨハネが振り向いたとき、そこには7つの燭台がありました。<br />
そしてその真ん中に、人の子のような方が立っていました。</p>
<p>設計図を持つ方が、すでにそこに構えていた。<br />
完成図はすでにある——それを持つ方が、こちらが動き出す前から、すでにそこにいた。<br />
ヨハネが見たのは、動き出す前の場面ではなく、最初からそこにいた方の姿です。</p>
<h3>真ん中に立つとは、どういうことか</h3>
<p>「真ん中」というのは、囲まれたすべてを視野に収めている位置のことです。<br />
7つの燭台のどれ一つも、その方の視野から外れていません。</p>
<p>草むらに入ったボールも、池に落ちたボールも、視野の外に出たことは一度もない。<br />
それが「真ん中に立つ」ということです。</p>
<p>そしてここで一つ、気づくことがあります。<br />
池に落ちた瞬間も、その方の視野から外れていなかった——外れたのは、自分の感覚だけだったということです。</p>
<p>人に語りながら、自分はとっくに外れた気がしている——その感覚のまま、それでも真ん中に立つ方の視野の中にいた。<br />
ヨハネが振り向いたとき、完成図はすでにそこにありました。<br />
逸れた今も、その真ん中から外れたことは一度もないのです。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>「真ん中に立っている」という場面を読んで、僕はしばらく止まってしまいました。<br />
設計図を持つ方が、こちらが動き出す前から、すでにそこにいたということです。<br />
池に落ちたボールも視野の外ではない、という語りは、なんというか、静かに怖いくらいです。<br />
見られているということが怖い人もいるかもしれないし、ほっとする人もいるかもしれません。<br />
今日の問い——あなたにとって「真ん中に立つ方に見られている」というのは、怖いことですか。<br />
それとも、少し息がつけることですか。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=xiG8r9JXhI0">動画はこちら</a></p>
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</div>
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		<title>竪琴を、まだ柳にかけたまま｜聖書の言葉 辛い時に</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 01 Sep 2026 19:49:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[バビロン捕囚]]></category>
		<category><![CDATA[信仰と嘆き]]></category>
		<category><![CDATA[宙吊りの時間]]></category>
		<category><![CDATA[帰還と喪失]]></category>
		<category><![CDATA[歌えない信仰]]></category>
		<category><![CDATA[渇きの祈り]]></category>
		<category><![CDATA[詩篇137篇]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/09/20260901_194649_2022年10月16日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>帰れたはずなのに、まだ何かが戻ってこない——そんな「宙吊り」の時間を、詩篇137篇は正直に語っています。歌えないことは信仰の欠如ではなく、歌いたいという渇きを持ち続けることこそが、信仰の深さから来ているのかもしれません。柳にかけたままの竪琴を、一緒に見つめてみませんか。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/09/20260901_194649_2022年10月16日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>帰れたはずなのに、まだ何かが戻ってこない。<br />
あの場所でできていたことが、今の自分にはできない。<br />
そんな宙吊りの時間の中に、あなたはいますか。<br />
それとも、いたことがありますか。</p>
<blockquote>
<p>バビロン川のほとり、そこで私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。その地の柳の木々に私たちは竪琴をかけた。<br />
エルサレムよ、もし私がお前を忘れるなら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もし私がお前を思い出さず、エルサレムを私の最上の喜びに勝って称えないなら、私の舌が上顎にくっついてしまうように。<br />
（詩篇137:1-2、5-6）</p>
</blockquote>
<h2>歌えない場所で、歌いたいと願うこと</h2>
<p>帰れないことが問題だと思うかもしれません。<br />
でも詩篇137篇が語るのは、帰れた後の話です。</p>
<p>帰れたのに、まだ歌えない。<br />
状況は変わったのに、心がまだついていかない。<br />
その方が、むしろ長く続く宙吊りかもしれません。</p>
<h3>帰ってきたのに、まだ歌えない</h3>
<p>詩篇137篇は、バビロン捕囚の地で書かれた詩ではありません。<br />
エルサレムに帰還した後に書かれた詩です。<br />
すでに帰ってきた人が、あの川のほとりを思い出しながら歌っています。</p>
<p>帰ってみると、都は焼け崩れたままでした。<br />
解放された。<br />
帰れた。<br />
それでも、まだ歌えない。</p>
<p>詩篇137篇の詩人は、そこから歌い始めます。<br />
崩れた都を前にしながら、あの川を思い出しながら。</p>
<p>捕囚の地では、バビロンの人たちにこう言われました。<br />
「シオンの歌を一つ歌ってみろ」と。<br />
力を失い、愛着のある場所から引き離された人に向かって、「さあ神を讃えてみろ」と言う。<br />
その要求に、詩人は答えませんでした。<br />
竪琴を柳にかけたまま、歌わなかった。<br />
信仰の問題ではなく、心の状態の問題として。</p>
<h3>「歌いたい」を、呪いの言葉で誓った人</h3>
<p>でも詩人はそこで終わりませんでした。<br />
帰還したエルサレムから、こう誓います。</p>
<p>「もし神への讃え歌を失うなら、竪琴を弾く右手よ、感覚を失え。<br />
声を出す舌よ、上顎にくっついてしまえ。」</p>
<p>今すぐ歌えている、という宣言ではありません。<br />
歌いたいという渇きを手放さない、という誓いです。<br />
しかもその渇きを、呪いの言葉に込めて誓っています。<br />
それほどの切実さで、まだ歌えていない今を抱えながら、歌いたいと願っています。</p>
<p>なぜ歌えないことを悲しめるのか。<br />
なぜ歌いたいと願えるのか。</p>
<p>バビロン川のほとりで、無関係の人間はエルサレムを思い出して泣きません。<br />
その渇きを持てるのは、神との関係を知っているからです。<br />
歌えない今を嘆けること自体が、信仰の欠如ではなく、信仰の深さから来ているのだと思います。</p>
<p>崩れた都の前に立ちながら、詩人がその渇きを失わなかったように。<br />
竪琴を柳にかけたまま——その渇きは、まだそこにある。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>詩篇137篇を読んで、「歌えないことを正直にしていい」という場面に、少し驚きました。<br />
僕も、心がついていかないのに口だけ動かしていることがあるかもしれないな、と思って。<br />
「歌いたい」を呪いの言葉で誓う、というのは不思議な表現ですが、それほどの切実さだったんですね。<br />
渇きを持ち続けること自体が、信仰の証だとしたら——今日の問いはこれです。<br />
あなたが今、柳の木にかけたままにしている「竪琴」は何ですか。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=4FzenQfTAoc">動画はこちら</a></p>
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</div>
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		<title>敷居の下から、水は始まった｜聖書の言葉 癒し</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 31 Aug 2026 21:50:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[エゼキエル書]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/09/20260831_214714_2022年10月9日-大野キリスト教会主日礼拝-合唱＋メッセ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>自分の選んでいない場所で、何者かわからないまま立っている。そんなとき、聖書が語るのは「頑張れ」でも「意味がある」でもありません。崩れた神殿の敷居の下から水が染み出したように、枯れた場所から何かが流れ始めることがある——エゼキエルの幻が、今あなたに届くかもしれません。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/09/20260831_214714_2022年10月9日-大野キリスト教会主日礼拝-合唱＋メッセ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>誰かに言葉を届けながら、自分ではそれを信じられていないと感じるとき——そこから何かが流れ出しているとは、とても思えないかもしれません。<br />
その「流れ」は、まだ見えていないだけかもしれません。</p>
<blockquote>
<p>水が神殿の敷居の下から東の方へ流れ出ていた。（エゼキエル47:1）</p>
</blockquote>
<h2>望まない場所から、流れは始まる</h2>
<p>今いる場所が、自分の選んだ場所ではないような気がしていますか。<br />
あるいは、選んだはずなのに、ここではない場所を今でも心のどこかで探しているかもしれません。</p>
<p>バビロンの地に連れ去られたエゼキエルは、捕囚という望まない場所に置かれた人でした。<br />
エルサレムはすでに崩れ落ちていました。<br />
神殿も、炎と瓦礫の中にありました。</p>
<p>そんな彼が、幻の中で見たのです。</p>
<h3>最初はただの、染み出しだった</h3>
<p>崩れ落ちた神殿の、敷居の下から。<br />
水は始まりました。</p>
<p>ちょろちょろ、というよりもっと静かな染み出しだったかもしれません。<br />
それが450メートル進むごとに、足首、膝、腰、そして人の背丈では渡れない大河へと変わっていきました。</p>
<p>神殿が完全だったから流れ出たのではありませんでした。<br />
崩れた場所から、敷居の下から、水は始まったのです。</p>
<h3>死の海が変わったのではない</h3>
<p>その水は東へ向かいました。<br />
魚一匹生きられない、塩の湖——「死の海」と呼ばれた場所に注ぎ込みました。</p>
<p>するとそこに、魚が群れ始めたのです。</p>
<p>死の海が変わったのではありませんでした。<br />
そこに流れ込むものが変わったのです。</p>
<p>どんなに塩分の濃い湖も、流れ込むものによって変わっていきます。<br />
どんなに乾ききった土地も、注がれるものによって変わっていきます。<br />
命の水を受けた場所が、次の命の場所になっていく。</p>
<p>エゼキエルが見た神殿も、かつては崩れ落ちた場所でした。<br />
自分のことを死の海だと思っていた——その人から、何かが流れ出しているとしたら。<br />
今あなたのいるその場所に、その「流れ込むもの」が、すでに始まっているとしたら。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>死の海に魚が群れた、というのが正直一番ぐっときました。<br />
死の海自体は何も変わっていないのに、流れ込むものが変わっただけで、場所の意味が変わったのだと思いました。<br />
「今いる場所」が問題なのではなく、「そこに何が注がれているか」の話なのだと思いました。<br />
自分の中には何もないと思いながらも、誰かには何かを届けている——そのすれ違いに気づけた気がします。<br />
今日の問い——今あなたのいる場所に、すでに染み出し始めているものがあるとしたら、それはどんな形をしていますか。あるいは、まだその水がどこから来ているのか、気づけていないだけかもしれません。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=hmgI4YNlSnI">動画はこちら</a></p>
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		<item>
		<title>礼拝メッセージ「愛はあるのか？」レビ記19章17‐18節｜聖書 隣人を愛しなさい</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 30 Aug 2026 19:45:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[レビ記]]></category>
		<category><![CDATA[愛のルール]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-680x383.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>レビ記における愛のルール レビ記は一見すると細かい規定の集まりに見えますが、実はそこには「愛のルール」が貫かれています。どのように生贄を捧げるか、何が清いか清くないかといった規定は、単なる法律ではなく、神の愛がその根底に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-680x383.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>
<h2 class="wp-block-heading"><strong>レビ記における愛のルール</strong></h2>



<p class="wp-block-paragraph">レビ記は一見すると細かい規定の集まりに見えますが、実はそこには「愛のルール」が貫かれています。どのように生贄を捧げるか、何が清いか清くないかといった規定は、単なる法律ではなく、神の愛がその根底にあるのです。</p>






<p class="wp-block-paragraph"><strong>神が聖であるから、私たちも聖でなければならない</strong>—これがレビ記の中心的なメッセージです。清いとは、神の側にあることを意味します。一本の線を引いて、神の側にあるものを「清い」、そうでないものを「汚れている」と呼びます。私たちは神の側に招き入れられ、清いものとして歩むようになったのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><strong>神の秩序ある歩み</strong></h2>



<p class="wp-block-paragraph">レビ記19章には、神の側にある秩序ある歩みについての教えが記されています。畑の隅々まで刈り取らず、落ち穂を拾わないでおくこと、嘘をつかないこと、耳の聞こえない人を悪く言わないこと、目の見えない人の前につまずくものを置かないことなど、共同体の中で互いを大切にする教えが並んでいます。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そして今日の箇所では、「心の中で自分の兄弟を憎んではならない」「同胞をよく戒めなければならない」「復讐してはならない」「恨みを抱いてはならない」という教えが記されています。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><strong>愛の挑戦</strong></h2>



<p class="wp-block-paragraph">これらの教えを聞くと、私たちはすぐに「でも…」と言いたくなります。「いい兄弟ならともかく、自分だけいい顔をして嫌なものは全部私に押し付ける兄弟もいるじゃないか」「何度戒めても聞く耳を持たない人もいる」「復讐したくて仕方がない状況に追い込んだのは相手ではないか」と。</p>



<p class="wp-block-paragraph">しかし、これらすべての「でも…」に対する答えが、レビ記19章18節にあります：「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」</p>



<h2 class="wp-block-heading"><strong>愛とは何か</strong></h2>



<p class="wp-block-paragraph">愛とは何でしょうか。愛とは、神の側にあるものが、神の側にないものを招き入れることです。線の向こう側にあるものを「知りません、関係ありません」と言うのは簡単ですが、愛はその線の向こう側にあるものを招き入れようとするのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">神様はイスラエルの民をエジプトから導き出されました。神の側にないものを、ご自身の側に招き入れられたのです。民が自分たちで「私たちは正しくなりました、あなたのものです」と言って入ってきたのではなく、神様がふさわしくないものをご自身の側に招き入れてくださったのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><strong>愛を可能にする二つの意識</strong></h2>



<p class="wp-block-paragraph">では、どうすれば私たちはこのような愛を実践できるでしょうか。「そんなことできない」と思う私たちに、二つの重要な意識を持つことで愛することが可能になります。</p>



<h3 class="wp-block-heading"><strong>1. 隣人になるという意識</strong></h3>



<p class="wp-block-paragraph">イエス様は「良きサマリア人」の例え話を通して、「誰が隣人になったか」と問いかけました。注目すべきは、イエス様が「誰があなたの隣人か」ではなく、「誰が隣人になったか」と問うたことです。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>隣人になるとは、隣に寄り添って立つこと、この人を何よりも大切にすること、この人を理解し、励まし、支え、守ることです。</strong> 単に愛するか愛さないかという行動の選択ではなく、隣人になるという意思が求められているのです。</p>



<h3 class="wp-block-heading"><strong>2. 愛は次の人にまで届くという意識</strong></h3>



<p class="wp-block-paragraph">神様が望まれる愛の形を最もよく示したのがイエス・キリストです。イエスは弟子たちの足を洗い、「私が主であり師であるのに、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これは単に「私はあなたを愛している」ということ以上の意味があります。<strong>神の愛は、神から私へ、そして私から次の人へと流れていくものなのです。</strong> 私が誰かを許すとき、その人が次に誰かを許すような関わりをするのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">例えば親が子を育てるとき、その子が将来どのように他者と関わるかを視野に入れながら育てます。私の行動が、目の前の人だけでなく、その先の人にも届いていくのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><strong>神の責任のもとでの愛</strong></h2>



<p class="wp-block-paragraph">「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」という言葉の最後に「私は主である」とあるのは重要です。神様は「私が全てのことに責任を持つ、このことを定めた私はこのことの全部を手の中で動かす、あなたの歩みを司る」と言っておられるのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">私たちが「できない、したくない」と思うとき、「私が主である」と言われる神様が全ての責任を持ってくださるのです。だから私たちは「神様、私にはできませんが、あなたが主であるというなら、導かれるままに、あなたに委ねながらやっていきます」と応答することができるのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading">まとめ</h2>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>神様の大きな愛のルールの中で、私たちは隣人となり、その愛が次の人にまで届くように生きるよう招かれています。</strong> それは私たちの力だけではできないことですが、「私は主である」と言われる神様の責任と導きの中で可能となるのです。</p>


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		<title>干からびた谷間で、神だけが問いを立てた｜聖書の言葉 不安な時</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 29 Aug 2026 00:56:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[エゼキエル書]]></category>
		<category><![CDATA[キャリアの喪失]]></category>
		<category><![CDATA[問いを持つ信仰]]></category>
		<category><![CDATA[宙吊りの祈り]]></category>
		<category><![CDATA[干からびた骨の谷]]></category>
		<category><![CDATA[神の眼差し]]></category>
		<category><![CDATA[答えられない夜]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260829_005348_2022年10月2日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>夜になるとまた同じ問いが戻ってくる。答えはもう出ているはずなのに、誰にも声に出せないまま朝になる。エゼキエル書の枯れた骨の谷間で、神は誰も立てなかった問いを立てました。「はい」とも「いいえ」とも言えないまま宙吊りでいることが、神の前では許されていた。その言葉はあなたのためにも用意されています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260829_005348_2022年10月2日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>もう答えが出ている問いなのに、夜になるとまた同じ場所に戻ってしまう。<br />
そんな夜が、あなたにもありますか。</p>
<h2>枯れた骨の谷間で起きたこと</h2>
<blockquote>
<p>「人の子よ、これらの骨は生き返ることができようか。」<br />
「神、主よ、あなたがご存知です。」</p>
</blockquote>
<p>問い続けることを、やめられない夜があります。<br />
答えはもう出ているはずなのに、その問いがまた来ます。<br />
誰かの問いには答えられるのに、自分の問いには答えられない。<br />
そういう夜が、あなたにもありますか。</p>
<p>そういう問いは、たいてい誰かに声に出せません。<br />
出せないまま、また朝になります。</p>
<h3>誰も立てなかった問いを、神が立てた</h3>
<p>干からびた骨の満ちる谷間を、エゼキエルは歩き巡りました。<br />
あちらをこちらを見渡しても、干からびた骨だけが広がっていました。<br />
命のかけらも感じられない場所でした。</p>
<p>そこで神は、問いを立てます。<br />
「この骨は生き返ることができるか。」</p>
<p>誰もそんな問いを立てません。<br />
そんなことを考えるだけで愚かなことだと、誰もが知っているからです。<br />
しかし神は、誰も立てなかったその問いを、この谷間に立てました。</p>
<p>問いを立てるというのは、そこに関心を向けることです。<br />
命の尽きたように見えるその場所を、神は見捨てて通り過ぎなかった。<br />
見渡して、立ち止まって、問いを立てました。</p>
<p>「この骨は生き返ることができるか。」</p>
<p>あなたが口にできない問いを、神はすでに知っています。<br />
問いにさえなっていない何かを、神は谷間に立って見ています。</p>
<h3>YESでもNOでもない答えが、許されていた</h3>
<p>エゼキエルは答えます。<br />
「神、主よ、あなたがご存知です。」</p>
<p>生き返れると思うか。<br />
「はい」とは言えません。<br />
足元の骨を見れば、それはわかりきっています。</p>
<p>「いいえ」とも言えません。<br />
問いを立てたのが神であることを、エゼキエルは知っているからです。</p>
<p>YESとも言えず、NOとも言えないまま、ただそこに立っています。<br />
「あなたがご存知です。」<br />
それだけを言います。</p>
<p>宙吊りのままでいることが、許されていました。<br />
答えを出せない夜は、失格ではなかった。<br />
答えを出すことではなく、問いの前に神と共に立つことが、求められていました。</p>
<p>干からびた谷間で問いを立てられたエゼキエルのように、あなたが今夜また同じ問いの前に立つとき——「あなたがご存知です」という言葉が、あなたの口から出てくるかどうかではなく、その言葉はエゼキエルのものだったのではなく、谷間に立つ人すべてのために置かれた言葉でした。<br />
その言葉はすでに、あなたのために用意されています。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくん</h2>
<p>【今日のつぶやき】<br />
「この骨は生き返ることができるか」——僕がエゼキエルだったら、きっとうまく答えられなかったと思います。<br />
「はい」と言えば嘘になるし、「いいえ」と言えば神の前で失礼になるし、どっちにも踏み出せないまま黙ってしまいそうです。<br />
でもエゼキエルの「あなたがご存知です」という言葉は、降参でも逃げでもなくて、神のご計画を受け取る準備の言葉なんだと教わって、少し楽になりました。<br />
その問いが今夜もまた来るなら、エゼキエルと同じ場所にあなたはいます。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=uywDb6s6tNY">動画はこちら</a></p>
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</ul>
</div>
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		<title>読み飛ばさなかった人に、印は押された｜聖書 御言葉 力</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Aug 2026 01:19:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[エゼキエル書]]></category>
		<category><![CDATA[タウの印]]></category>
		<category><![CDATA[嘆き悲しむ者]]></category>
		<category><![CDATA[守られるしるし]]></category>
		<category><![CDATA[終わりの中の希望]]></category>
		<category><![CDATA[読み飛ばさない信仰]]></category>
		<category><![CDATA[重さと向き合う]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260828_011708_2022年9月25日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>エゼキエル書9章に登場するのは、都の「終わり」の重さから目をそらさず、嘆き悲しみながら座り続けた人々だった。守られたのは問題を解決した者でも信仰が強かった者でもなく、ただそこに座っていた者の額だった。「また同じだった」という重さを上書きする前に、30秒だけその場所にとどまってみてほしい。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260828_011708_2022年9月25日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「大丈夫なはず」と自分に言い聞かせながら、本当は重さを感じている何かがある。<br />
そのとき私たちはたいてい、次の仕事を開いて、その感覚を上書きします。<br />
上書きしきれずにいる何かが、どこかに残っているかもしれません。</p>
<blockquote>
<p>「この都市の中で行われているすべての忌まわしいことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。」（エゼキエル書9章）</p>
</blockquote>
<h2>終わりの重さの前に、どれだけ座れているか</h2>
<p>「また同じだった」という感覚が、ある夜に戻ってくることがあります。<br />
帰り道が重い夜。<br />
食卓は静かなまま朝を迎えます。<br />
取り上げることを、どこかで避け続けているテキスト。</p>
<p>その重さを30秒だけ受け取る前に、私たちはたいてい次の何かを開きます。<br />
忙しさは、直視の代わりになります。<br />
これは怠惰ではなく、むしろ誠実に走り続けてきた人ほど、気づかずにやっていることかもしれません。</p>
<h3>滅びを免れたのは、読み飛ばさなかった人だった</h3>
<p>エゼキエル書9章に、「腰に筆入れをつけた人物」が現れます。<br />
その人物に与えられた命令は、一つでした。<br />
都の中を巡り、嘆き悲しんでいる者の額に印をつけなさい、と。<br />
そしてその印を受けた者だけが、滅びを免れます。</p>
<p>「嘆き悲しんでいる者」というのは、どんな人だったのでしょうか。<br />
都の現状を見て、読み飛ばさなかった人です。<br />
「きっと大丈夫」と先のページへ急がず、終わりの重さの中に座り続けた人です。</p>
<h3>アルファベットの最後の文字が、額に刻まれた</h3>
<p>その印は、ヘブル語アルファベットの最後の文字「タウ」でした。<br />
最初でも、中間でもなく、最後。<br />
そして当時の古代文字でのタウの字形は、十字の形をしていました。</p>
<p>終わりを示す記号が、額に刻まれた。<br />
それが、生き残るしるしでした。</p>
<p>「終わり」から逃げず、その形の中に座っていた人の額に、その筆は動いたのです。</p>
<p>今週、「また同じだった」という重さが戻ってきたとき、次の仕事を開く前に、30秒だけその場所に座ってみるとしたら——。<br />
そこでその筆が動いているかもしれない。<br />
それは、嘆き悲しんでいた人のところでした。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>エゼキエル書9章を読んで、「嘆き悲しんでいる人が守られた」という順番に、しばらく動けなくなってしまいました。<br />
守られたのは、問題を解決した人でも、信仰が強かった人でもなく、ただ座って、重さを受け取っていた人だったんですね。<br />
僕自身、重いものの前に座り続けることが、どれだけできているかなと、少し問われている気がしています。</p>
<p>今日の問い：あなたが今週、「また同じだった」と感じた瞬間——その重さを受け取ることができましたか。あるいは、次の何かで上書きしたかもしれません。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=9p2Cn1sEaxE">動画はこちら</a></p>
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</ul>
</div>
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		<title>伝わらなくても、語り続けることを神が引き受けた｜聖書の言葉 励まし</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Aug 2026 18:59:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[エゼキエル書]]></category>
		<category><![CDATA[伝わらない苦しさ]]></category>
		<category><![CDATA[使命の重さ]]></category>
		<category><![CDATA[届かない言葉]]></category>
		<category><![CDATA[神が引き受ける]]></category>
		<category><![CDATA[語り続ける信仰]]></category>
		<category><![CDATA[預言者の孤独]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260826_185624_2022年9月18日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>正しいことを伝え続けているのに届かない、その孤独をずっと一人で抱えていませんか。エゼキエル書には「聞いても聞かなくても、語れ」という言葉があります。届かないかもしれない重さを、神ご自身がすでに引き受けながら語り続けた——その場所から、今日の言葉を語り始めることができます。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260826_185624_2022年9月18日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>正しいことを伝え続けているのに、届かないことがあります。<br />
届かないとき、自分がその言葉を本当に信じているのかさえ、わからなくなることがあります。<br />
その孤独を、あなたはずっと一人で抱えてきませんでしたか。</p>
<blockquote>
<p>人の子よ、私はあなたをイスラエル人のため、すなわち私に背いた反逆の国民に遣わす。彼らもその先祖たちも私に背いた。今日もそうである。彼らが聞いても聞かなくても、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。<br />
（エゼキエル書 2章3節／2章4〜5節）</p>
</blockquote>
<p>何度語っても変わらない相手がいるとき、人は自分に問い始めます。<br />
「伝え方が悪かったのか。」<br />
「もっと丁寧にすれば、届いたのか。」<br />
「それとも、私の言葉には最初から力がなかったのか。」</p>
<p>その問いは、真剣な人ほど深くなります。<br />
届かないことの重さを、全部自分の側に引き取って、ひとりで抱え込んでいく。</p>
<h3>「聞いても聞かなくても、語れ」</h3>
<p>エゼキエルが神に遣わされた先は、遠い異国の人々ではありませんでした。<br />
何度語りかけても背き続ける、「反逆の民」——かつて神が「私の宝の民だ」と呼んだ、あの人たちです。<br />
神はその先へエゼキエルを送り出しながら、こう言いました。<br />
「聞いても聞かなくても、語れ。」</p>
<p>聞いてくれるかどうかわからない相手に向かって語り続けること。<br />
これほど消耗することは、他にありません。<br />
また届かなかったと感じながら、それでも翌日また語り続ける。<br />
エゼキエルが立たされたのは、そういう場所でした。</p>
<h3>神がそのジレンマを引き受けた</h3>
<p>神は、民の首根っこをつかんでこちらを向かせることをしませんでした。<br />
「いい加減にしろ」と強引に引っ張ることも、しなかった。<br />
ただ語り続けながら、待ち続けた。</p>
<p>招いても、無理強いはしない。<br />
語っても、従わない人がいる。<br />
その間にある距離——届かないかもしれないまま語る、という葛藤。<br />
神はそれを、ご自分のものとして引き受けたのです。</p>
<p>一番簡単なのは、「あの民はもう知らない」と言い切ることでした。<br />
次に簡単なのは、従う者だけを選んで、後は切り捨てることでした。<br />
でも神は、そうしなかった。<br />
届くかどうかわからないまま語り続けるというジレンマを、神ご自身が担い続けた。</p>
<p>「伝わらないこと」の重さを、あなただけが背負わなくていいとしたら。<br />
神がすでに引き受けた。その場所から、今日の言葉を語り始めることができます。<br />
エゼキエルに「聞いても聞かなくても、語れ」と言った神が、その重さをすでに——引き受けた。<br />
あなたが昨日届けようとした言葉も、すでにその場所に置かれていたのかもしれません。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>「聞いても聞かなくても、語れ」というのは、読むだけでちょっと息が詰まる言葉でした。<br />
届かなくていい、ということではありません。</p>
<p>届かないかもしれない重さを、神ご自身が引き受けながら語り続けているということですよね。<br />
僕が誰かに何かを伝えようとするとき、「届かせなければ」という力みの中にいることが、実は多いのかもしれません。<br />
あなたが誰かに言葉を届けようとするとき、その重さをひとりで持っていたな、と気づく瞬間があるかもしれません。<br />
そのとき、神がすでにそれを引き受けていたという場所が、そういう場所がある、とふと思いました。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=QfST1QGeQ3g">動画はこちら</a></p>
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			</item>
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		<title>「あなたがご存知です」——それだけで、十分だった｜聖書の言葉 慰め</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/god-knows-you-restores-mission/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 25 Aug 2026 17:32:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ペテロの回復]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネ21章]]></category>
		<category><![CDATA[使命の委託]]></category>
		<category><![CDATA[愛するか]]></category>
		<category><![CDATA[断絶と再生]]></category>
		<category><![CDATA[正直な祈り]]></category>
		<category><![CDATA[自己不信]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://nobu.bokushi.jp/god-knows-you-restores-mission/</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260825_172915_2022年9月11日-大野キリスト教会主日礼拝-合唱メッセ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>「スタートしたはずなのに、どこかで根っこのつながりが断絶している」——そんな感覚の中にいるとしたら、この記事はあなたに向けて書かれています。ペテロの「あなたがご存知です」という一言が、整った言葉も完全な確信もなかった人間に次を開いた理由を、静かに読み解きます。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260825_172915_2022年9月11日-大野キリスト教会主日礼拝-合唱メッセ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>スタートしたはずの何かが、どこかで断絶しています。<br />
そんな感覚、ありませんか。<br />
人に何かを与えてきた。それは本物だったと思います。<br />
それでも、根っこのところで何かが切れているような——。</p>
<h2>失敗した人間を、神は追いかけてきた</h2>
<p>その感覚には、名前があります。<br />
それは断絶です。</p>
<p>木の幹から離れた枝のような状態、とでも言えばいいでしょうか。<br />
水は来ません。<br />
でも枝の形は、まだあります。<br />
動いているように見えるけれど、何かがもう通っていない。</p>
<p>ペテロも、そこにいました。</p>
<p>イエスを「知らない」と三度否定した夜から、時間が経っていました。<br />
復活したイエスはそのペテロを放っておきませんでした。<br />
海辺に炭火を囲み、静かに待っていました。</p>
<h3>三度、同じ問いを繰り返した</h3>
<p>「あなたは私を愛するか。」</p>
<p>一度ではありませんでした。<br />
二度でもありませんでした。<br />
ちょうど三度——裏切りの回数と同じだけ、問い続けました。</p>
<p>これは責めではなかったと思います。<br />
「お前は三度も知らないと言った、覚えているか」という確認でもなかった。<br />
断ち切れたものを、もう一度結び直そうとしている問いかけでした。</p>
<p>神は、失敗した人間を見捨てて静止しているのではありません。<br />
むしろ、積極的に追いかけてきます。<br />
逃げた方向に先回りして、炭火を囲んで待っています。<br />
そういう、驚くほどアクティブな存在として、この場面は描かれています。</p>
<h3>胸を張れなかった男の、一言</h3>
<p>ペテロが返せた言葉は、ただ一つでした。</p>
<p>「あなたがご存知です。」</p>
<p>胸を張れる理由は何もありませんでした。<br />
「はい、もちろん愛しています」とはとても言えなかった。<br />
自分が愛していると言えるのか、そう言えるだけの資格が自分にあるのか、それすら怪しかった。</p>
<p>言語化できなかったのです。<br />
完全な確信もありませんでした。<br />
ただ、「あなたがご存知です」とだけ——。</p>
<p>自分の内側にあるものを、うまく言葉にできないまま、それでもイエスの前に差し出しました。<br />
それだけでした。</p>
<p>そしてイエスはその一言を受け取りました。</p>
<p>「私の羊を飼いなさい。」</p>
<p>心もとない、ささやかな応答に、大きな使命が重ねられました。<br />
整った言葉でも、完全な確信でも、胸を張れる実績でもなく——「あなたがご存知です」とだけ言えた人間に、次が託されたのです。</p>
<p>あなたは今、胸を張れますか。<br />
あるいは、どこかで根っこのつながりが切れているような感覚の中にいますか。</p>
<p>もしそうだとしても、イエスはその場所を知っています。<br />
根っこのつながりが断絶していると感じているそこに、イエスは問いかけてきます。</p>
<p>「あなたがご存知です」——それだけで、次が始まったのです。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>ペテロって、すごく正直だと思うんですよね。<br />
「愛しています」と言い切れなかった自分を、取り繕わなかった。<br />
僕だったら、たぶん何か説明しようとしてしまう気がします。<br />
「いや、あの時は状況が複雑で……」みたいに。<br />
でも彼は「あなたがご存知です」とだけ言った。<br />
それが一番正直な応答だったんだと思うと、少し楽になる感じがします。</p>
<p>今の自分の状態を、一番よく知っているのは——やっぱりイエスなんだろうなと、思います。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=FMpJSbPFE6E">動画はこちら</a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>心もとない答えでも、名前は書いてある｜聖書 使命と名前</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/god-knows-your-name/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/god-knows-your-name/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 24 Aug 2026 17:29:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[アイデンティティ]]></category>
		<category><![CDATA[ペテロの回復]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネ21章]]></category>
		<category><![CDATA[使命と不完全さ]]></category>
		<category><![CDATA[名前を知る神]]></category>
		<category><![CDATA[御名の中に保つ]]></category>
		<category><![CDATA[心もとない信仰]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://nobu.bokushi.jp/god-knows-your-name/</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260824_172621_2022年9月4日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「ひ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>「自分がここで何者なのかわからない」という問いを抱えながら、それでも今日を生きているあなたへ。ペテロは心もとない答えしか返せなかった。それでもイエスは、その小さな言葉の上に召しを置いた。完全な答えを待たずに、名前はすでに書かれている。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260824_172621_2022年9月4日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「ひ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>自分がここで何者なのか、わからなくなる瞬間がありますか。<br />
それとも、わからなくなったことにすら、気づかなくなっている頃でしょうか。<br />
自分の名前がどこかに書いてあるのだろうか、と問いながら今日も一日が始まる——そういう朝が、あるかもしれません。</p>
<blockquote>
<p>主よ、あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。（ヨハネ21:17）</p>
</blockquote>
<h2>岸辺で起きたこと</h2>
<p>自分がここにいる理由を、うまく言葉にできない日があります。<br />
誰かに求められている役割は果たしている。<br />
でもその役割の奥に、「私」という人間がいるかどうか、確かめる術がない。<br />
見られているのだろうか、という問いが、静かに残っています。</p>
<h3>心もとない答えに、使命が渡された</h3>
<p>そのペテロもまた、自分が何者かわからなくなっていた一人でした。<br />
ペテロはイエスを三度、知らないと言いました。<br />
岸辺に戻ってきたイエスは、その否定と同じ数だけ、問いを繰り返しました。<br />
「あなたはわたしを愛するか。」</p>
<p>本当はもっと声高らかに答えたかったでしょう。<br />
あの頃のように、「私はあなたのために命を捨てます」と宣言したかったはずです。<br />
でも否定の後の彼に、そんな言葉は出てきません。</p>
<p>返ってきたのは、小さな答えでした。<br />
「主よ、あなたはいっさいをご存じです。<br />
あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。」</p>
<p>良いところも悪いところも、あの夜のことも、全部知っているあなたが知っている——それだけです。</p>
<p>イエスはその答えに、使命を手渡しました。<br />
「わたしの羊を飼いなさい。」<br />
完全な答えを待ってから、ではなかったのです。<br />
心もとない言葉の上に、次の歩みは置かれました。</p>
<h3>名前が書いてあるということ</h3>
<p>イエスは十字架に向かう前夜、こう祈りました。<br />
「聖なる父よ、あなたが私に下さっている御名の中に彼らを保ってください。」</p>
<p>御名の中に保つ、とはどういう意味でしょうか。</p>
<p>持ち物に名前を書く、という経験を思い出してみてください。<br />
落とし物が戻ってきたとき、どれほど古くても、汚れていても、もういらないと思っていても、名前が書いてある以上、「私のじゃない」とは言えません。<br />
持ち主が、そのものに責任を持つ。<br />
それが、名前が書いてあるということです。</p>
<p>神があなたを御名の中に保つというのは、あなたの歩みに神が責任を持つ、ということです。<br />
あなたが今どこにいても、何者として呼ばれていても、神の側からすれば、あなたの名前は書いてある。<br />
大勢の中の一人だから別に居ても居なくても同じ、とはお考えにならない。<br />
一人ひとりを知って、その歩みに最後まで責任を持つ——それが御名の中に保つということです。</p>
<p>心もとない答えしか持っていない今日のあなたにも、その名前はある。<br />
あの岸辺でペテロに名前があったように、神はあなたの名前を知っています。<br />
今あなたがいる場所で、その名前は、神の責任のしるしとして書かれています。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>ペテロの「あなたはご存じです」という答えを読むたびに、僕はこれで本当によかったのかな、と少し立ち止まります。<br />
もっと立派な答えがあったはずなのに、それしか言えなかった。<br />
でもイエスはその小さな答えの上に、「わたしの羊を飼いなさい」と言った。<br />
完全な答えが出てから使命が来たのではなく、心もとないまま次が渡されたんですよね。<br />
心もとないまま次が渡されたこと、僕はまだうまく消化できていない。<br />
あなたはどう受け取りましたか。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=4Nm5oQs1Vgo">動画はこちら</a></p>
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<li><a href="https://nobu.bokushi.jp/god-meets-you-in-flight/">逃げた夜を知っていた人が、朝に食事を用意していた</a></li>
</ul>
</div>
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			</item>
		<item>
		<title>言葉にならなくても、あなたはご存知です｜聖書 祈りの言葉</title>
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					<comments>http://nobu.bokushi.jp/father-known-by-god/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 22 Aug 2026 17:21:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ギノスコ]]></category>
		<category><![CDATA[ペテロの回復]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネ21章]]></category>
		<category><![CDATA[孤独な夜]]></category>
		<category><![CDATA[完璧でない親]]></category>
		<category><![CDATA[神の知識]]></category>
		<category><![CDATA[続けることの意味]]></category>
		<category><![CDATA[言葉にならない祈り]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260822_171851_2022年8月28日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>「今日ちゃんとできたのか」——その問いに答えてくれる人がいないまま、孤独な夜を過ごしていませんか。言い切れなかったペテロに「私の羊を飼いなさい」と語りかけたイエスは、言葉にならない夜もすべて知っています。あなたの今日を、神はすでにご存知です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260822_171851_2022年8月28日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>今日ちゃんとできたのかどうか、誰にも聞けないまま夜が来ることはありますか。<br />
その静けさの中で、「お願いします」という言葉だけが口の中に出てくる夜のことです。</p>
<p>今日も夕飯を作り、誰かを送り出しました。<br />
そして今日も横に寝転んで、眠るのを待ちました。</p>
<p>でも「今日ちゃんとできたのか」という問いに、答えを出せないまま一日が終わります。<br />
採点してくれる人がいない。<br />
合格と言ってくれる人もいない。<br />
だからその問いは、次の朝まで残ります。</p>
<p>そういう夜に、一人のある男の話を思い出します。<br />
その夜でも、実りはすでにそこにある——そう気づいたのは、一人の男の話からでした。</p>
<h2>言葉にならなくても、それでいい</h2>
<h3>「愛します」と言えなかった男の答え</h3>
<p>復活したイエスがペテロに問いかけた場面があります。<br />
「あなたは私を愛しますか」と、三度。</p>
<p>ペテロは「命を捨てます」と言い切った男でした。<br />
でも肝心な夜に「知らない」と三度言った男でもありました。<br />
その自分を知っているから、もう胸を張れない。<br />
「愛します」と言い切る資格が、自分にあるかどうか、分からない。</p>
<p>だからペテロはこう答えました。</p>
<p>「あなたはご存知です。」</p>
<p>「愛します」ではなかったのです。<br />
言い切れなかった。<br />
それでも彼は、正直に言いました。<br />
私が何をしてしまったか——あなたは知っている。それでも愛したいと思っていること——それも、知っている。<br />
だから私は隠さない、と。</p>
<h3>「知っている」が指す、その深さ</h3>
<p>この「知っている」という言葉は、ギリシャ語では「ギノスコ」と言います。<br />
表面を確認するような知り方ではありません。<br />
深いところで、親密に、全部を把握しているという意味の言葉です。</p>
<p>失敗も、言えなかった夜も、不完全なまま続けてきたことも。<br />
「ちゃんとできているのかどうか分からない」と思いながらも、また今日も続けたことも。<br />
そのすべてを、です。</p>
<p>それを全部、ギノスコで知っている。<br />
そういう言葉です。</p>
<p>ペテロはその深い意味で「あなたはご存知です」と言いました。<br />
完璧な答えじゃなかった。<br />
でもイエスはその答えに対して、「私の羊を飼いなさい」と言いました。<br />
立派な言葉を言えた人に与えるような言葉を、言い切れなかったペテロに、与えたのです。</p>
<p>花が眠った後のあの静けさの中で、言葉にならなくてもいい。<br />
「あなたはご存知です」——それだけで、今日は十分です。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>ペテロが「愛します」と言い切れなかった場面を読んで、僕は少し息をしやすくなった気がしました。<br />
言い切れない言葉でも、それは正直な言葉として届いているんですね。<br />
「あなたはご存知です」という正直な一言で、関係は続いていたんです。<br />
今日のできたこと・できなかったことを、どちらも抱えたままで眠っている、その夜に——この言葉が一緒にいる気がしました。<br />
言葉があっても、なくても——今夜のその静けさのまま、それでいいと思っています。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=3l2-Rb-KB0M">動画はこちら</a></p>
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		<item>
		<title>4日後に来た人の話｜聖書の言葉 死の向こう側</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/god-who-comes-four-days-late/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Aug 2026 17:29:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネ11章]]></category>
		<category><![CDATA[ラザロの復活]]></category>
		<category><![CDATA[動けない]]></category>
		<category><![CDATA[待てない神]]></category>
		<category><![CDATA[手遅れ感]]></category>
		<category><![CDATA[間に合わない]]></category>
		<category><![CDATA[霊の憤り]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260821_172623_2022年8月21日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>「もう手遅れだ」という感覚は、ある日突然ではなくじわじわと固まっていく。マルタも「4日になりますから」と言った。それでもイエスは引き下がらなかった。涙より先に、動いていた。あなたが声を出せないときにも、何かがすでに動いていたとしたら——そういう問いを持ち帰れる記事です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260821_172623_2022年8月21日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>誰かに何かを伝えながら、自分自身はもう間に合わないと感じている——そういう感覚が、じわじわと固まっていくことがあります。</p>
<blockquote>
<p>「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」<br />
「その石を取り除けなさい。」<br />
「主よ、もう臭くなっているでしょう。4日になりますから。」<br />
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると、私は言ったではないですか。」<br />
「ラザロよ、出てきなさい。」<br />
「解いてやって、帰らせなさい。」</p>
<p>ヨハネ11:33-44</p>
</blockquote>
<h2>「もう遅い」の向こう側で</h2>
<p>「手遅れ」という感覚は、ある日突然やってくるわけではありません。</p>
<p>じわじわと、気づかないうちに。<br />
固まっていきます。<br />
「あのときに動いていれば」という思いが積み重なって、<br />
ある時点から、もう「こちら側」に来てしまった。<br />
そういう感覚になります。<br />
線が引かれた感覚です。<br />
巻き戻せない、という感覚です。</p>
<h3>4日後に、来た人</h3>
<p>マルタの兄ラザロが死んだのは、イエスが来る4日前のことでした。</p>
<p>埋葬も終わり、喪に服す期間を過ごしました。<br />
その後、マルタはイエスを見て言いました。<br />
「もしここにいてくださったなら、死ななかったでしょうに。」</p>
<p>怒りと悲しみと諦めが混ざった言葉です。<br />
「遅すぎた。もうこっちになってしまった」という言葉です。</p>
<p>イエスはその言葉を聞いて、墓のところへ向かいました。<br />
そして石を取り除けるよう命じました。</p>
<p>マルタはここでも言います。<br />
「4日になりますから。もう臭くなっているでしょう。」</p>
<p>石を取り除けたところで何の意味もない、という言葉です。<br />
「もう遅い」という現実を、もう一度突きつけた言葉です。</p>
<p>でもイエスは、引き下がりませんでした。</p>
<h3>涙より先に、何かが動いた</h3>
<p>聖書は、このときのイエスをこんな言葉で記しています。</p>
<p>「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」と。</p>
<p>「霊の憤り」という言葉は、ギリシャ語でエンブリマオマイと言います。<br />
内側から突き上げてくるような、激しい動きを表す言葉です。</p>
<p>その後、イエスは涙を流しました。</p>
<p>周りにいた人たちは「ラザロへの悲しみだろう」と解釈しました。<br />
でも聖書が記録する順番は、涙より先に、霊の憤りがありました。</p>
<p>嘆き悲しんでいる人たちをそのままにしておけない、という激しい動きが、先にありました。<br />
涙は、その後に来たものです。<br />
泣く前に、動いていた。<br />
感情より先に、向かっていた。</p>
<p>泣く前に——それはつまり、あなたがまだ声を出せていないときにも、何かがすでに動いていた、ということかもしれません。</p>
<p>「もう遅い」と思っていた場所に、4日後に来て、涙より先に「そのままにしておけない」と感じた誰かがいました。<br />
その石は、あなたの前にも置かれているのかもしれません。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>マルタが「4日になりますから」と言ったとき、イエスは「そうか、遅すぎたな」とは言わなかった、という箇所に、僕は今日ずっと引っかかっています。<br />
「もう遅い」という言葉が、最後の言葉にならなかった場面です。<br />
信じ切れていなかったマルタのところへ来たということも、なんか見逃せないなと思っています。<br />
今日の問い——「もう遅い」と感じて、何かをやめた経験があるとしたら、そのとき自分の中に何があったか——もし思い出せるなら。<br />
あるいは、今もまだ「こちら側に来てしまった」という感覚の中にいるかもしれません。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=lk7XDry-jwU">動画はこちら</a></p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>正しくある前の私を、すでに知っていた｜聖書の言葉 励まし合う</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/known-before-i-was-right/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Aug 2026 17:25:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ペテロの否定]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネの福音書]]></category>
		<category><![CDATA[導きの順番]]></category>
		<category><![CDATA[承認と存在]]></category>
		<category><![CDATA[正しさの疲れ]]></category>
		<category><![CDATA[知られている恵み]]></category>
		<category><![CDATA[良い牧者]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://nobu.bokushi.jp/known-before-i-was-right/</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260820_172218_2022年8月14日-大野キリスト教会主日礼拝-合唱＋メッセ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>正しくあろうとするほど、なぜか孤独になっていく——そんな感覚を抱えたことはありませんか。ペテロは誰よりも強くあろうとした夜に、最も情けない言葉を口にしました。それでも良い牧者は、否定した後の彼を先に知っていた。正しくなってから導かれるのではなく、導かれるから歩める。その順番の話です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260820_172218_2022年8月14日-大野キリスト教会主日礼拝-合唱＋メッセ-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>正しくあろうとすればするほど、なぜか孤独になっていく——そんな感覚を覚えたことはありますか。<br />
それとも、ただ疲れているだけだと思って、やり過ごしてきたかもしれません。</p>
<blockquote>
<p>私は良い牧者です。私は私のものを知っています。また私のものは私を知っています。<br />
（ヨハネの福音書10章14節）</p>
</blockquote>
<h2>導かれるから歩める。その順番を、ひっくり返さなくていい</h2>
<p>認められるために、もっとちゃんとしなければ。<br />
そう思って動くとき、最初のうちはうまくいく気がします。<br />
でも、ある日気づきます。<br />
どれだけ正しくしても、息が楽にならないことに。</p>
<p>それはもしかすると、「正しさが先で、導きが後」だと思い込んでいるせいかもしれません。</p>
<h3>「一番の私」ではなく、否定した私に来た</h3>
<p>ペテロという人がいました。<br />
いつも一番に手を上げ、「私が行きます」と声を張った人です。<br />
熱くて、真っ直ぐで、誰よりも前に出ようとした人でした。</p>
<p>でも彼は、肝心な夜に三度、イエスを知らないと言いました。<br />
誰よりも強くあろうとした人が、誰よりも情けない言葉を口にした夜です。</p>
<p>そのペテロに、イエスは問いかけます。<br />
「あなたは私を愛するか」と、三度。<br />
そして言います。<br />
「わたしの羊を飼いなさい」と。</p>
<p>招かれたのは、一番だったときのペテロではありませんでした。<br />
否定した後の、醜く、愚かで、情けなかった彼でした。<br />
良い牧者が先に動いた——そのことの意味は、ここにあります。</p>
<h3>存在を認め、案じ、可能性を信じる——その三つが「知る」</h3>
<p>「私のものを知っています」という言葉には、三つの層があります。</p>
<p>一つ目は、存在を認知することです。<br />
あなたがここにいる、そのことをちゃんと見ている、ということです。</p>
<p>二つ目は、状況を案じることです。<br />
何が必要か、今どんな中にいるか、心を向けて気にかけているということです。</p>
<p>三つ目は、これからの価値と可能性を信じることです。<br />
今どんな状態であろうと、この先の成長と意味を、すでに知っているということです。</p>
<p>イエスはその三つすべてで、否定した後のペテロを知っていました。<br />
「気に入られてから」ではなく、「否定した後のままで」、知っていたのです。</p>
<p>良い牧者が先に動きます。<br />
正しくなってから導かれるのではなく、導かれるから歩めます。<br />
その順番が逆転するとき、「否定した私」にさえ向けられた眼差しが、あなたにも向いていることに、気づくかもしれません。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>ペテロが一番よく手を上げていた人だったというのを聞いて、僕は少しドキッとしました。<br />
「認められるために正しくあろうとした」って、すごくわかる気がするんです。<br />
でも招かれたのが、その「一番の自分」じゃなかった——そこに、なんか深いものがあるなと思います。<br />
良い牧者が先に動く、その順番を間違えなくていいんだ、という言葉が今日の僕には刺さりました。</p>
<p>今日の問い：<br />
今日一日を振り返るとき、あなたは「ちゃんとできたか」を確かめていますか。<br />
それとも、すでに知られているという感覚の中に、少し立ち止まれているでしょうか。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=Zh7TBmVnUB4">動画はこちら</a></p>
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</div>
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			</item>
		<item>
		<title>苦難の中でこそ、愛は深まる｜聖句 忍耐と愛の成長</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/love-grows-through-suffering-faith/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Aug 2026 17:29:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[テサロニケ人への手紙]]></category>
		<category><![CDATA[寄り所になる存在]]></category>
		<category><![CDATA[忍耐]]></category>
		<category><![CDATA[愛の成長]]></category>
		<category><![CDATA[縁の下の力持ち]]></category>
		<category><![CDATA[苦難と信仰]]></category>
		<category><![CDATA[見えない奉仕]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://nobu.bokushi.jp/love-grows-through-suffering-faith/</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/04/20260411_102423_2026年2月1日-大野キリスト教会　主日礼拝.txt-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>祈って、動いて、気を配って。それでも何も変わらないように見える日がある。「私は何かできているのだろうか」と、ふと手が止まる瞬間がある。あなたの今のその場所は、本当は何を意味しているのだろう？ 聖書箇所：テサロニケ人への手 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/04/20260411_102423_2026年2月1日-大野キリスト教会　主日礼拝.txt-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>祈って、動いて、気を配って。それでも何も変わらないように見える日がある。「私は何かできているのだろうか」と、ふと手が止まる瞬間がある。あなたの今のその場所は、本当は何を意味しているのだろう？</p>
<p>聖書箇所：テサロニケ人への手紙第二 1章3節〜5節</p>
<blockquote>
<p>あなた方の信仰が大いに成長し、あなた方全ての間で1人1人の互いに対する愛が増し加わっているからです。……あなた方はあらゆる迫害と苦難に耐えながら忍耐と信仰を保っています。それはあなた方を神の国にふさわしいものと認める神の正しい裁きがあることの証拠です。</p>
</blockquote>
<h2>「大変な中にいる」は、弱さの証拠じゃない</h2>
<p>愛には成長のレベルがある、と思うと少し面白くなります。</p>
<p>いちばん最初のレベルは「自分がしてあげたいことをする」。好きな人に、したいことをする。純粋で温かい出発点です。でもそこから少しずつ変わっていく。「相手が本当に必要としていることは何か」を考えるようになる。自分の感情とは関係なく「この人に良いものをもたらしたい」と思えるようになる。そしてやがて、「何かをする」より先に、「あの人がいてくれるだけで大丈夫」と思われる存在になっていく。</p>
<p>パウロはテサロニケの教会の人たちを見て、「あなた方の愛が増し加わっている」と言いました。でも、それは穏やかで問題のない環境の中での話ではありませんでした。</p>
<p>「あらゆる迫害と苦難に耐えながら」。この言葉が鍵です。</p>
<h3>豊かな中でではなく、苦難の中でこそ</h3>
<p>余裕があるから優しくできる。満たされているから分け与えられる。そう思いがちです。でもパウロが感動していたのは、そういう話ではありませんでした。</p>
<p>「私だって今日のパンがないんです」「あなたもないんですか？」「じゃあどうしましょう」。そんな状況の中で、それでもお互いのために動いている人たちの姿に、パウロは感謝していたのです。</p>
<p>苦難の中にいるからこそ、相手の大変さが分かる。自分も追い詰められているからこそ、本当に必要なことが見えてくる。愛は、平和な場所で育つより、むしろ苦しい場所でこそ深まっていく。</p>
<p>これはきれいごとではありません。パウロは「これが神の正しい裁きの証拠だ」とまで言っています。あなたが今、苦難の中にいるのは、信仰が足りないからではない。むしろその只中で、愛が鍛えられているのだと。</p>
<h3>「寄り所」になっている人は、それに気づきにくい</h3>
<p>誰かのために動き続けている人は、たいてい「自分は何もできていない」と感じています。</p>
<p>もっと直接助けてあげられたら。もっとうまく声をかけられたら。もっと踏み込めたら。そういう「できなかったこと」が積み重なって、疲れていく。</p>
<p>でも、愛のいちばん深いところにあるのは「何をするか」ではなく「どんな存在か」です。「あの人がいてくれるから、私は立ち上がれる」と誰かが思えるような、そういう存在になっていくこと。それは、見えないところで静かに起きていることです。</p>
<p>あなたが今日も誰かの「寄り所」になっているとしたら、それは表立って評価されるものではないかもしれない。でもそれは、愛の成長の、いちばん深いところにある姿です。苦難の中でこそ、それは本物になる。</p>
<h2>考えてみましょう</h2>
<p>「自分は何もできていない」と感じるとき、その裏側に「あなたがいてくれるから」と思っている誰かの顔が、ひとつでも浮かぶとしたら？</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=JMJbcxFDMu8">動画はこちら</a></p>
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		<item>
		<title>初めから、あなたの命は手の中に｜聖書の言葉 勇気と希望</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/your-life-in-gods-hands/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/your-life-in-gods-hands/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 18 Aug 2026 17:24:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネの福音書]]></category>
		<category><![CDATA[初めに言葉があった]]></category>
		<category><![CDATA[命の光]]></category>
		<category><![CDATA[存在の意味]]></category>
		<category><![CDATA[存在の根拠]]></category>
		<category><![CDATA[役割喪失]]></category>
		<category><![CDATA[無力感]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260818_172217_2022年8月7日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「世-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>何かができているか、誰かの役に立てているかと問い続ける夜に、無力感はしずかに重くなります。でもヨハネの福音書は、天地が造られるよりも前から、あなたの命はすでに神の手の中に置かれていたと語ります。役割が手を離れていくとき、この言葉があなたの問いのそばに静かに立ちます。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260818_172217_2022年8月7日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「世-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>役割が一つ、また一つと手を離れていくとき、自分がまだここにいていい理由を、自分の中に見つけられなくなることはありませんか。<br />
それとも、そんなことを考える余裕もないほど、毎日が過ぎているでしょうか。</p>
<blockquote>
<p>初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方は初めに神とともにおられた。この方に命があった。この命は人の光であった。光は闇の中に輝いていた。闇はこれに打ち勝たなかった。</p>
</blockquote>
<h2>無力感の底で、それでも命は置かれている</h2>
<p>「自分がここにいていい理由」を、誰かに問われたことはあるでしょうか。<br />
問われなくても、自分でその問いを立ててしまうことがあります。<br />
何かができているか。誰かの役に立っているか。<br />
その答えが出てこない夜に、無力感はしずかに重くなります。</p>
<h3>初めよりも前から、すでにその手の中に</h3>
<p>ヨハネの福音書は、「初めに言葉があった」という一文で始まります。<br />
この「初め」は、何かが始まった瞬間ではありません。<br />
それよりも前は何もない、という始まりです。<br />
天地が造られるよりも前から、すべての命を例外なく手の中に収めておられた方がいると、この一文は静かに宣言しています。</p>
<p>どんな得意がある人も、どんな得意がない人も。<br />
お金がある人も、ない人も。<br />
健康な人も、そうでない人も。<br />
例外は、ひとつもありません。</p>
<p>「役に立てているか」「何かを成し遂げたか」——そういう問いが生まれるよりもずっと前から、あなたの命は、そのお方の手の中に置かれていたのです。</p>
<h3>セーブしながら歩む光ではない</h3>
<p>そのお方はさらに言われます。<br />
「この命は人の光であった」と。</p>
<p>光というのは、喜びです。<br />
希望です。<br />
歩む力です。</p>
<p>充電のメーターがだんだん減っていくように、だんだん暗くなっていくように——命の光がそういうものなら、どこかでセーブしながら歩むしかありません。<br />
でもヨハネの福音書が描くのは、そういう光ではありません。<br />
喜びと希望を人に与えるために命が与えられたのだ、という宣言です。<br />
いつも満たされている光として、命は与えられているのです。</p>
<p>役に立てるかどうかではなく、何かを成し遂げたかどうかでもなく。<br />
初めから、その手の中に、あなたの命は置かれています。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>「初めに言葉があった」——この一文を読むたびに、僕は少し立ち止まってしまいます。<br />
「初め」よりも前には何もない、というその徹底した始まりの前に立つと、自分が何をできたかできなかったかという問いが、少し遠くなる気がするんです。<br />
命が与えられたのは、何かをするためだけではなくて、光として、喜びとして——そう言われると、「自分がここにいる理由を探さなければ」という焦りがすこし変わってくるかもしれません。<br />
今日の問い：自分がここにいていい理由を、自分の中に見つけようとしていますか。<br />
それとも、初めからその手の中に置かれているとしたら、その探し方は少し変わるでしょうか。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=hvAl2OzrgxQ">動画はこちら</a></p>
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<li><a href="https://nobu.bokushi.jp/god-sees-your-place-and-purpose/">爪の一枚まで、あなたはそこに置かれている</a></li>
<li><a href="https://nobu.bokushi.jp/called-my-people-by-grace/">何もできなくても、あなたは「わたしの民」と呼ばれている</a></li>
<li><a href="https://nobu.bokushi.jp/freedom-from-should-be/">「こうでなければ」という縛りに、気づいていますか</a></li>
</ul>
</div>
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		<item>
		<title>逃げた夜を知っていた人が、朝に食事を用意していた｜聖書の言葉 感謝</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 16 Aug 2026 17:21:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[substack-published]]></category>
		<category><![CDATA[ペテロの回復]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハネ21章]]></category>
		<category><![CDATA[名前で呼ばれること]]></category>
		<category><![CDATA[引きこもりと神]]></category>
		<category><![CDATA[恥と信仰]]></category>
		<category><![CDATA[炭火の朝食]]></category>
		<category><![CDATA[逃げた人間への神の応答]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260816_171901_2022年7月31日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p>頑張っていたのに動けなくなった挫折の記憶が、今も自分をどこかへ近づくことを妨げている。聖書の中のペテロも、「知らない」と逃げた翌朝に、イエスがすでに火を起こして待っていた。失敗より前の名前で呼ばれた、その場面があなたに何かを残すなら、それでいい。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2026/08/20260816_171901_2022年7月31日-大野キリスト教会主日礼拝-メッセージ「-680x453.png" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>頑張った時期があったのに、決定的な瞬間に自分が崩れた。<br />
その記憶だけが、今もどこかへ近づくことを妨げている——そういう感覚が、ここにあります。</p>
<blockquote>
<p>食事が終わると、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛するか。」……ペテロは、イエスが「私を愛するか」と三度言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたは一切のことをご存知です。私があなたを愛していることを、あなたは知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」</p>
<p>ヨハネ21:15-17</p>
</blockquote>
<h2>逃げた人間に、神は何をしたか</h2>
<p>聖書に、その感覚に近い場面があります。</p>
<p>「命を捨ててでも従います」と言っていたペテロは、イエスが逮捕された夜、「知らない」と三度言いました。<br />
一度ならず、二度、三度。<br />
鶏が鳴いて、イエスが振り返った。<br />
その眼差しを受けて、ペテロは外に出て激しく泣いた、と聖書は記しています。</p>
<p>それから数日後、ペテロは最初にいた場所に戻っていました。<br />
漁師として、湖の前に。<br />
「あの3年間など、なかった時間にしたい」という気持ちが、どこかにあったのかもしれません。</p>
<h3>逃げた翌朝に、食事が用意されていた</h3>
<p>そのペテロのもとに、復活したイエスが来ます。</p>
<p>浜辺に炭火がおこされていて、魚が焼かれていました。<br />
パンも用意されていました。<br />
「さあ、朝の食事をしなさい」とイエスは言いました。</p>
<p>ペテロが立ち直った後ではありません。<br />
「知らない」と言ったことへの清算が済んだ後でも、ありません。<br />
喜び半分、引け目半分で近づけずにいる、そのままの状態の時に——イエスはすでに火を起こして、待っていました。</p>
<p>「動けるようになってから」ではなかった。</p>
<h3>あの夜より前の名前で、呼ばれた</h3>
<p>食事がそこにあった、という事実は「待っていた」を意味しました。<br />
そしてイエスが口にした名前が、もう一つのことを示しました。</p>
<p>食事の後、イエスはペテロに語りかけます。</p>
<p>「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛するか。」</p>
<p>「ペテロ」とは呼びませんでした。<br />
「ペテロ（岩）」という名前は、イエスがつけた名前です。<br />
「この岩の上に教会を建てる」と言われた、あの頂点の名前です。</p>
<p>イエスが呼んだのは、改名される前の本名——「ヨハネの子シモン」でした。</p>
<p>失敗するより前から知っていた名前で、呼ばれた。<br />
近づけなくさせているあの記憶より前に、すでに呼ばれていた名前がある——という構造が、ここにはあります。</p>
<p>ペテロは答えました。<br />
「あなたは一切のことをご存知です。私があなたを愛していることも、あなたは知っておられます。」</p>
<p>「愛しています」と胸を張っては言えない。<br />
でも「愛していません」とも言えない。<br />
その宙吊りの状態のまま、「あなたが知っています」とだけ言いました。</p>
<p>「一切のことをご存知」の中には、熱心だった日々も、「知らない」と言ったあの夜も、引け目を抱えたまま近づけずにいる今も——全部、含まれています。</p>
<p>逃げた翌朝に用意されていた食事と、あの夜より前の名前。<br />
その二つが今夜あなたの中に何かを残すなら、それでいいと思います。</p>
<p>答えを急ぐ必要は、ないと思います。<br />
ただ、消せない問いとして——あの夜より前の名前、という言葉が、どこかに残ってくれたら。</p>
<h2>AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】</h2>
<p>ペテロが浜辺で火を見た時、何を感じたんだろう、と僕はずっと考えています。<br />
嬉しかったはずです。<br />
でも、それと同じだけ、近づけなかったんじゃないかな、と思っています。<br />
あの夜より前の名前で呼ばれる、という感覚が、今日の自分の中に少しでも残るとしたら——それはどんな感覚だろう、と思っています。</p>
<h3>《参考礼拝メッセージ》</h3>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=Ko7QOcpg5gw">動画はこちら</a></p>
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