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	<title>国際協力文化交流協会（SIENCE）</title>
	
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		<title>シンポジウムとチャリティコンサートの動画を公開</title>
		<link>http://sience.or.jp/base/archives/234</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Feb 2010 07:19:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[2010年1月24日に開催されたシンポジウム：若者の視点から国内外の大災害への貢献を考える 哀悼と国際平和の祈りチャリティコンサートの動画を公開しました。
当日無事に開催することができ、皆様のご協力に誠に感謝しております [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://sience.or.jp/base/archives/48">2010年1月24日に開催されたシンポジウム：若者の視点から国内外の大災害への貢献を考える 哀悼と国際平和の祈りチャリティコンサート</a>の動画を公開しました。</p>
<p>当日無事に開催することができ、皆様のご協力に誠に感謝しております。</p>
<p>ビデオはこちらから。</p>
<ul>
<li><a href="http://www.hyogo117tv.jp/navi.cgi?20100124_01">シンポジウム：若者の視点から国内外の大災害への貢献を考える</a></li>
<li><a href="http://www.hyogo117tv.jp/navi.cgi?20100124_02">哀悼と国際平和の祈りチャリティコンサート</a></li>
</ul>
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		<item>
		<title>2010年新年挨拶</title>
		<link>http://sience.or.jp/base/archives/52</link>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 11:55:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[2010年の新年の挨拶を掲載しました。
新年の挨拶をダウンロードする。（Word、282KB）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>2010年の新年の挨拶を掲載しました。</p>
<p><a href="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/nengajyo2010.doc">新年の挨拶をダウンロードする</a>。（Word、282KB）</p>
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		</item>
		<item>
		<title>シンポジウム：若者の視点から国内外の大災害への貢献を考える 哀悼と国際平和の祈りチャリティコンサート</title>
		<link>http://sience.or.jp/base/archives/48</link>
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		<pubDate>Tue, 15 Dec 2009 11:52:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[シンポジウム：若者の視点から国内外の大災害への貢献を考える哀悼と国際平和の祈りチャリティコンサートを開催します。

プログラム概要（PDF、1.09MB）
プログラム詳細（PDF、170KB）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>シンポジウム：若者の視点から国内外の大災害への貢献を考える哀悼と国際平和の祈りチャリティコンサートを開催します。</p>
<ul>
<li><a href="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/2009symposium.pdf">プログラム概要</a>（PDF、1.09MB）</li>
<li><a href="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/2009symposium-program.pdf">プログラム詳細</a>（PDF、170KB）</li>
</ul>
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		<item>
		<title>新しい道</title>
		<link>http://sience.or.jp/base/archives/126</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Jun 2009 07:44:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[エジソン　ケイゾウ　デ　ミランダ　クボ

私留学を通じてあらゆる情報を獲得することができるが、それらをいかにして自分の人生に、あるいは職業選択に生かすことができるかを考慮するのは重要である。
私が、始めて日本に来たのは、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>エジソン　ケイゾウ　デ　ミランダ　クボ</h2>
<p><img class="alignright size-full wp-image-127" title="著者顔写真" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/br1ryugakusei.jpg" alt="著者顔写真" width="200" height="252" /></p>
<p>私留学を通じてあらゆる情報を獲得することができるが、それらをいかにして自分の人生に、あるいは職業選択に生かすことができるかを考慮するのは重要である。</p>
<p>私が、始めて日本に来たのは、1998年の4月6日だった。言葉にかなり苦労し、また、大学院向けの授業を聴き取るのは、不可能であった。それでも、神戸大学の修士課程を目指した。ブラジルの大学で経営学部を卒業し、日本に来た当時、私は21歳であった。1年間の研究生を経て、経営学研究科の試験を受け、合格することができた。修士に入ってから研究の世界と出会い、色々な技術を身につけることができ、研究に対する動機が高められた。日本の成功を支えてきたチーム作業、チームワークなどをゼミで経験して、それが興味深かった。</p>
<p>日本での勉強は楽しかった。しかし、時間がたつにつれ、私は自信を得るよりも、落ち込んでしまった。何故落ち込んでいるのか何度も自問してみたが、自分を納得させるような答えがみつからなかった。もうすぐ修士課程が終わるというのに、自分の日本語能力はまだ低いし、ブラジルに帰ったら、身につけてきた知識や、発見したことを通じて良い仕事を見つけることができだろうか。ブラジルと日本は社会制度の面でも法律の面でもかなり違うし、帰国したらどういう仕事をすれば良いのか。早く国へ帰ったほうが良いのか、あるいは日本で博士課程に挑戦すれば良いのか、等の悩みがあった。何故そんなに悩む必要があるのか。修士課程が終わったら帰れば良いのではないかと思った。ある日、大学院のゼミで自分の修士論文の結論について発表した時に、指導教官から興味深いコメントを頂いた。（自分の研究でかなり悩んだでしょう。悩む必要がある、悩む人は成長する）。自分の先生から頂いた言葉を今でも大事にしている。悩み続け、修士課程が終わった時点で帰国してしまった。それは2001年の3月31日だった。</p>
<p>帰国してから就職活動を始めたのだが、思うように仕事が見つからなかった。24歳で、実務経験がなかったし、深刻な状況に陥ってしまった。その時、ある思いがわきあがってきた。自分が日本で習ったことを誰かに教えたくなった。急に大学に就職したくなった。職業を決める時には自分がやりたい仕事の内容から始めたほうがよいのではないか。日本で勉強したことを現実にぶつけてみたい。しかし、ブラジルに、着いたときには、多くの大学で前期が既に始まっていたし、就職活動をしても教えるチャンスが出てこなかった。</p>
<p>大学に就職できず、企業を目標に就職活動をし始め、サン・パウロにある日系企業（紡績企業）に就職でき、日本人出向社員と一緒に働くことになった。日本で習った日本的経営がブラジルではどの様に導入されているか、職場の雰囲気がわかるようになって、良い経験ではないかとおもった。ただし営業活動をやりながら、大学での就職のことをずっと考えていた。ある日、部長からこういう話があった、（エジソンさんも知っているように、ブラジルでは日本みたいに暗黙の了解はないし、従業員になんでも細かく説明しないといけない）。それを聴いたときに、同時に色々なことに気づいた。もし大学に就職できたら日本とブラジルの間の違いを自分の専門から色々指摘することが出来るであろう。日本で蓄積した情報を適切に利用すれば、数多くのことが言えるし、面白いのではないか。日系企業に勤めながら、自分の目的を追求しつづけた。</p>
<p>ある日、サン・パウロにある私立大学から連絡があり、自分の留学経験、特に自分の研究テーマについて発表してくださいとのことだった。会社を出て、大学に行った。教室に入ったら、100人ぐらいの学生達が座っていて、様子をみると、学生達の年の差が大きかった。それ以上に私より実践で実務世界のことのわかる方々が大勢いることに気づいた時、自信を失った。人前で話すのは恥ずかしかった私は、なんとか発表することが出来たのだが、学生達の興味を引き出すことが出来なかったような気がした。そのあと経営学講座部長の事務所に行って、面接を受けた。その大学の部長からこういうふうに聞かれた：あなたが何を教えたいですか。ブラジルの教室のことはわかりますか。どういう科目に自信があるのですか。日本で研究したことを生かすことができるような科目を考えて、二科目のみだと言った。その時、部長からこういう風にいわれた（こちらの大学ではあなたが担当したい科目は既に別の先生が担当しておりますので、別の科目はどうですか）。その部長からさまざまな科目を勧められたなだが、私は最も自信のある科目しか言えなかったのである。2ヶ月後、企業での仕事をやめて、その大学に就職することが出来た。思っていたよりも面接で上手くいったようだった。その大学の部長によれば、いろいろな科目を勧められても、自身のある科目、深い知識のある科目しか担当しないと述べることは、学問の世界では大切である。会社では、色々なことが出来る人が必要とされているのと違い、学問の世界では、一つだけの研究テーマにこだわっている人が最終的に高く評価されることがわかった。その時に、その大学の部長からもこういうことを言っていただいた。（あなたは、日本に留学したことがあるし、学生達に色々教えられる。学生達はあなたが成し遂げたことをみて、新しい夢を持つことになると思う。自信を持って、蓄積した知識を教室で生かしてください）。</p>
<p>思った通り、自分の夢は現実になっていた。最初に、二科目しか担当しなかった結果、給料は低かった。それにしても、自分の専門分野でよく言われているように、人間を動機付けるのはお金ではなく仕事の内容だということを実感した。心からやりたいことが見つかって、前に進めばいいのではないかと思った。</p>
<p>大学で助手として活動をし始めてから、多くの困難な問題に直面した。多くの学生から苦情が出たり、3回程部長の事務所に呼ばれた。エジソン先生の授業は内容がわかるけど、教え方は解かりにくいなどと言われた。首になりそうな状態に達した時に短期の教育学の技法講座を受け、学生達がもっと自分の実務経験をいえるような講義を考え、それに自分が会社で経験したことや、日本で習ったこと、見たことなどを楽しく教えることが出きるようになった。結局先生として認められるようになった。</p>
<p>大学に就職してから1年後、ある一回生から私の講義に対して出た苦情の件で、部長に呼ばれた。また苦情が出たと聴いた時に、非常に落ち込んだ。ある学生は私の教え方と合わないと主張し、別のクラスに移りたいと部長に申し出ていた。私の落ち込んだ顔をみて、部長がこういう風にいった。（エジソン、大丈夫。あなたは誰をも納得させることができると思うか。誰でもあなたのことを好きになると思うか。神様の息子イエス・キリストでさえ全ての人を納得させることが出来なかったのに、何故、ただの人間である我々が全ての人を納得させることができるとおもう）。こういう背景には、部長がキリスト教の発想から大学講座を経営していたという事があった。この件があってからさらに、文化比較、あるいは国際比較にもっと興味を持つようになり、教室では日本とブラジルの違い、あるいは、文化の面白さについて、学生達と楽しく話したりした。それから、1年半が経ち、無事に仕事ができた。</p>
<p>今年の4月にまた日本に来るチャンスがあり、博士を目指して来日した。三年間ブラジルにいて、色々なことを試して、留学の価値がわかった。留学で得た知識を自分なりに生かしたら、大勢の人に希望を与えることができると信じており、それは社会貢献となるし、道のない所に、道が開かれると確信している。</p>
<p>（Edson Keyso de Miranda Kubo､ブラジル、神戸大学大学院　経営学研究科）</p>
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		<title>国境を越えて人々がわかりあい、支えあうことを目指して</title>
		<link>http://sience.or.jp/base/archives/123</link>
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		<pubDate>Thu, 21 May 2009 07:37:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ヨンラタナシリ　バンディット

1998年から2004年の6年間、私は神戸の街で留学生生活を送りました。この六年間、私は多くのことを体験し、学び、そして真剣に考えることができました。
私にとって、日本への留学が始まった瞬 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>ヨンラタナシリ　バンディット</h2>
<p><img class="alignright size-full wp-image-124" title="著者顔写真" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/tai1ryugakusei.jpg" alt="著者顔写真" width="200" height="240" /></p>
<p>1998年から2004年の6年間、私は神戸の街で留学生生活を送りました。この六年間、私は多くのことを体験し、学び、そして真剣に考えることができました。</p>
<p>私にとって、日本への留学が始まった瞬間は、大学の4回生の時に日本への留学生が決まったときからです。そのときから、私はあることに気づきそして真剣に考え始めました。</p>
<p>それは、この日本への留学が実現できたのは、日本国政府をはじめ、両親そして多くの人の支えによるものだということです。日本へ留学してからも、私はまた多くの日本人、同じ留学生にさまざまな面で支えられ、自分の可能性と能力の限界に挑戦することができました。そして、この留学のことだけではなく、私が生まれてから今まで、そしてこれからも私はいろいろな面で多くの人に支えられている必要があることを考え始めました。</p>
<p>このように、人が誰かの支えを必要とすることを考えたとき、私が大学の授業で学んだ、ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉を思い出しました。彼は、今から約2400年前に「人間は政治的動物」であり、人が人間として完成することができるのは国家の秩序においてのみと主張しました。これは、人が一人だけでは生きることができなく、互いに協力し、支えあう必要があり、そして互いに協力することを実現させるために人々は国家という組織制度を作り上げたということです。</p>
<p>大学での専攻が政治学だったこともありまして、人が互いに協力し、支えあうために必要である国家の組織制度の持つ意味に非常に関心がありました。日本留学での研究テーマもこの制度というものに対する関心から始まったものです。</p>
<p>私の日本での研究のテーマは、日本とタイの大蔵省の組織構造の違いを比較し、その組織構造の違いが、消費税率の動向にどのような違いを及ぼしたかである。</p>
<p>私はこの研究で、ある結論を得られました。それは、日本とタイの大蔵省の組織構造の違いは消費税率の動向の違いを及ぼしただけではなく、それぞれの組織に所属している官僚の政策選好（政策に対する価値観）にも大きな違いを及ぼしたのである。つまり、制度や組織の形は、そこに所属する人の価値観に影響を及ぼしたということである。</p>
<p>大学院での研究では、研究の対象を大蔵省の組織構造の違いに限定していましたが、行政組織だけではなく、もっと小さな単位である家族やもっと大きな単位である地域や国家にも同じように所属している人たちの価値観に影響を与えていると思います。</p>
<p>そのため、それぞれの地域や国に住む人たちはそれぞれの特有の価値観や考え方があることは決して不思議のことではありません。そして、現代社会において、それぞれの地域や国の人たちの持つ価値観で最も重要な価値観とは、「その地域や国の人々がほかの地域や国の人達のことをどのように思うか」だと思います。</p>
<p>「人は政治的動物」と主張したアリストテレスがいうように、国家の中だけで、人間が完成するという哲学は2400年前の社会には当てはまることだと思います。</p>
<p>だが、現代において、人が一地域や一国家の中だけで人間として完成するということが可能かどうかは疑問に思います。なぜなら、地域や国家そのものが他の地域や国家と関係なく存在することができるわけではなく、互いに協力し支え合う必要があるからです。</p>
<p>それが、現代でいう国際関係、国際協力である。地域や国家に住む人たちも自分の地域や国家の中だけでは、完成な生活ができるわけではなく、必ずなんらかの形で地域間や国際的の協力が必要である。人の支えあう協力し合う輪が国際の範囲まで広がることになります。そのため、それぞれの地域や国に住む人々が、ほかの国や地域との関係を重要なことだと思うことも必要になると思います。</p>
<p>だが、現実的に国家や地域間で、戦争や紛争があり、人が分かりあうことが出来ないことがまだまだあります。これは非常に残念な事実です。どの国のどの地域に住んでいる人でもみんな同じ人です。異なる地域や国の人に違うところがあるとすれば、それは、生まれ育った地域や国が違うことや、その地域や国家の特有の価値観が違うだけです。</p>
<p>私は日本の留学で体験した国際交流を通じて、ほかの地域や国家との関係いわば、国際理解、国際協力が大切なことだと真剣に考えるようになりました。そしてこの留学での最初の本格的な国際交流は、小学校でのタイの文化の紹介でした。</p>
<p>自分でも不思議だとは思いましたが、それまでは、母国であるタイの文化や習慣に関して真剣に考えたことがありません。この小学校でタイの文化を紹介することが決まったとき、何をしたらいいのかすごく悩みました。自分の母国のことをどのように紹介したらいいのか。タイのことに興味をもってくれるのか。日本の小学生にタイのことをわかってもらえることに必死でした。きっと、そのときは、私がタイ人であることをもっとも自覚した時だと思います。そして、私は小学生たちがタイのことを少しでも感じてもえるためにタイ料理を作り、みんなで一緒に食べる事に決めました。自分自身が、それまで作り方が知らなかったタイ料理も作れるようになり、タイ語に関しても発音記号や文法を紹介できるほど、タイのことをより理解できたことがとてもうれしかったです。</p>
<p>国際交流は、ほかの地域や国のことを理解することや、自分の地域や国のことを理解してもらうためのことだけではなく、実際には自分が生まれ育った国や地域のことをより理解することも出来ることに気づきました。自分が生まれ育った国や地域のことを理解することは、他の地域や国のことを理解する上で欠かせないことだと思います。</p>
<p>そして、この国際交流には更にうれしい出来事がありました。それは、小学生たちから数多くの手紙が届いたことです。　『タイのお話楽しかったです』、『タイ料理おいしかったです』、『いつかタイに遊びに行きたいです』、『タイ人と友達になりたいです』のような手紙の内容のほかに、タイについて調べてきたことや、疑問に思ったことをまとめたレポートも送ってきてくれました。人には元から互いに分かりあえる何かを持っていることを感じました。国際交流を通じてこのことを感じることができて、本当によかったと思いました。</p>
<p>この国際交流のすばらしさを知った私は、その後も時間が許す限り国際交流に積極的に参加するようになりました。やがて、日本に留学して4年目の2001年、私は国際教育文化交流協会と出会いました。この出会いにより、私は日本でのより幅広い国際交流に参加する機会を得られ、そして、国際交流は母国の文化の紹介だけで終わるわけではなく、国際交流をするための組織や制度というものは必要であると考えるようになりました。</p>
<p>国際交流として、小学校や中学校で母国の文化を紹介すること自体はもちろん十分に国際交流として成り立っていると思います。だが、現実的に留学生は何年間か日本で留学し、最終的には母国に戻る事が決まっています。そのため、留学生の日本での国際交流は留学生が母国に戻るまでの短期的なものになることが多いです。日本での国際交流で出来た縁を、日本での留学生活限りで終わらせるのはもったいないことだと思います。</p>
<p>そして、留学生と日本人が個別的に国際交流をするより、国際交流と国際理解に対して、みんなで一緒に考え、一緒に話し合って、一緒に活動をする場ができれば、さまざまの地域や国の人たちが分かり合え、支えあえ協力し合うことがよりより広い範囲にわたって実現することができると思います。この一緒に話し合って、一緒の活動をする場所というものが、国際交流をするための制度や組織というものです。</p>
<p>私は日本で留学しているときから、この国際交流をするための制度または組織の必要性を感じ、考えてきました。そして、日本での留学を終え、タイに戻ってきた私はこれから、国際交流で何が出来るか考えてきた結果、私は日本に留学した留学生をはじめとする国際交流の制度や組織を作り上げたいと思います。</p>
<p>同じく日本に留学し、日本を理解し、そして日本を愛する留学生は数多くいると思います。そしてこれらの留学生には、互いに同じような目標があると思います。それは、日本との架け橋しになることです。この同じ目標を持った留学生が国際交流の組織を支えあうことは出来たらどれくらいすばらしいことでしょうか。その上、私のように日本での留学を卒業した後でも、この国際交流は続けることができます。それにより、留学しているときとまた違う立場で国際交流について一緒に考えることができます。またさまざま形の国際交流が実現するのではないかと思います。</p>
<p>私の考えた、この留学生による国際交流の組織で出来ることは、留学生一人ひとり出来ることとみんなで一緒に出来ることがあると思います。留学生一人ひとりで出来ることは、それぞれが日本への架け橋になる活動である。私が考えている自分でできることとは、私の知っているタイのことと日本のことを出来る限り多くの人に紹介することです。</p>
<p>そして、みんなで一緒の出来ることとして、例えば、それぞれの国や地域のことを互いに案内し、直接に見に行くことを通じて、国際交流をすることである。または、将来を担うそれぞれの国の学生が国際的な共同活動を作り上げることが考えられます。</p>
<p>人はみな誰かの支えを必要とします。今まで、私は誰かの支えを多く必要としてきました。このまま何もしないで過すことは結局人の支えを一方的に必要することになってしまいます。これからは、この国際交流の場を通じて、人々が互いに理解し合い、協力し合う輪をより広げることで、今度は誰かの支えになることをがんばっていきたいと思います。</p>
<p>（Yongratanasiri Bundit､　タイ、　神戸大学大学院法学研究科修了）</p>
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		<item>
		<title>就活スペシャル-SPI攻略セミナーの開催について</title>
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		<pubDate>Fri, 01 May 2009 06:05:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[下記の要項でSPI攻略セミナーを開催しますので、ふるってご参加ください。
チラシダウンロード（PDF、285KB）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>下記の要項でSPI攻略セミナーを開催しますので、ふるってご参加ください。</p>
<p><a href="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/SPI.pdf">チラシダウンロード（PDF、285KB）</a></p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>母国を抱えて歩んでいきたい道</title>
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		<pubDate>Tue, 21 Apr 2009 07:28:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ウンゴシ　アリニネ　リチャード

私の国マラウイは、アフリカの中でも貧しい国であり、先進国と違って年金制度がない。そのため親は子供に投資をするという考えをもっているので子供が多ければ多いほど将来は明るいと信じている。つま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>ウンゴシ　アリニネ　リチャード</h2>
<p><img class="alignright size-full wp-image-122" title="著者顔写真" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/mru1ryugakusei.jpg" alt="著者顔写真" width="200" height="234" /></p>
<p>私の国マラウイは、アフリカの中でも貧しい国であり、先進国と違って年金制度がない。そのため親は子供に投資をするという考えをもっているので子供が多ければ多いほど将来は明るいと信じている。つまり退職した後の生活は、子供が保証してくれるのである。</p>
<p>従って、親は一生懸命子供たちに勉強をさせる。私は、小さいときから田舎に帰る度に 祖父さんが農業の仕事以外何もしないで、一日中家にいる姿を見てつまらない生活だなと思っていた。退職してもきちんとした仕事を持ちたいと言う考えがそこで生まれたのだ。</p>
<p>私が高校生のとき、マラウイには日本をはじめ、海外からの電気製品や車などの輸入が増加していたが、ほとんど中古品だったので壊れた時に修理するのが大変だった。父親の友人がマラウイの大学で電気工学を学んだので55歳だったにも関わらず自営業で電気製品の修理の仕事をしていた。それに憧れた私も、そのような仕事をすればいつまでも仕事ができるのではないかと思った。</p>
<p>マラウイでは日本が世界で技術的に一番進んでいる国であり、日本の電気製品や車が丈夫で長く使えるという評判が高い。日本の大学で電子工学の勉強ができたらいいと思っていたが、日本からの情報がマラウイにはあまりなくて、在日マラウイ人も少ないことからとても無理だと思い諦めていた。しかし、私が通っていた高校に、JICAのボランティア活動で日本の方が数学を教えにきたのがきっかけとなり、日本に留学することができた。私は、日本語学校を卒業後、早稲田大学理工学部電気電子情報工学科に入学し、自分の夢の実現に向けて電子工学を勉強することに決めた。大学では主に半導体工学の勉強をしたが、母国に帰ったとき半導体の企業や設備がないので日本で学んだ最先端の技術を活かすことができないことが分かった。そこで母国が今必要としている技術を把握し、情報・ネットワークセキュリティの勉強をはじめようと思い、早稲田大学理工学研究科に進学することを決意した。</p>
<p>近年日本ではネットワークインフラが拡大・浸透し、電子商取引、オンライン銀行、電子政府、電子投票等に代表されるようなネットワークを利用したサービスは、生活に不可欠な存在になりつつある。</p>
<p>一方、ネットワークを流れる情報においては、第三者による盗聴や改ざんといった脅威が存在し、ネットワークにおける犯罪が増加、また複雑化する傾向がある。従って、これらの脅威に対する対策として情報セキュリティ技術の重要性が高まり、ネットワークを利用したサービスにおける情報セキュリティを考えるとき、第三者による不正アクセスや個人情報の漏れを避けるために、サービス利用者の本人性を確認すること（個人認証）は、特に重要な課題である。</p>
<p>私は大学院で、ネットワークを利用したサービスにおける情報セキュリティの課題の対策の一つとしてバイオメトリクス（生体情報認証）の研究をしている。私の国マラウイでは、インターネットをはじめネットワークインフラが少しずづ普及しつつあり、近い将来に電子商取引、電子政府、オンライン銀行、e-パスポート等といった代表的なサービスが実現されるようになる。しかし、マラウイの大学ではまだ情報セキュリティの研究が盛んではないので、母国に帰って様々な分野で貢献していきたいと思っている。</p>
<p>卒業後に希望しているキャリアとしては、ＩＴビジネスコンサルタントがあり、大学で他に学ばなかった幅広い技術も身につけ、人や企業に現在必要とされるサービスの提案や教育をしていきたい。母国に帰っても政府や民間企業へのビジネスコンサルタントをし、大学では半導体工学をはじめ、日本で学んだ最先端の技術を教えたいと考えている。</p>
<p>私は日本語学校のときから国際理解の場を深めるために色々な小学校・中学校と高校で国際理解という授業を受け持ち、母国の文化や自分が歩んできた道等について教えてきた。それを通して人とのコミュニケーションばかりか日本の文化を知ることもできた。日本という国がわずか50年間でこんな立派な国になったことを小学校や中学校の先生に教わってとても驚いた。また、日本人の勤勉さや国民性にも感動した。</p>
<p>私の国には、民族が多くて北・南・中央に別れ、一つの愛国心になるのはなかなか難しい。これからマラウイが豊かな国になっていくには国民全員が一つになって、国に対しての愛国心を持たなければならない。将来母国に帰ったら、日本が心がけている国民性の素晴らしさを子供達に教えたいと思っている。</p>
<p>私が日本で得た素晴らしい経験は、貴重でお金では買えないものであり、これからも日本の歴史や文化を勉強していきたい。私は日本にきて一度も後悔したことがなく、日本を私の第2の故郷と思っている。</p>
<p>（Ngosi Alinine Richard､　マラウイ、早稲田大学大学院理工学研究科）</p>
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		<title>夢を実現する私</title>
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		<pubDate>Sat, 21 Mar 2009 07:20:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[レ　ヴィエト　チュン

ベトナムの北部の貧乏な田舎に生まれた私は、今年、29歳になったばかりで、14歳から、ずっと両親と離れて、自分の勉強をまじめに頑張っています。小学一年生から中学校まで、五人の家族と一緒に貧乏な生活を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>レ　ヴィエト　チュン</h2>
<p><img class="alignright size-full wp-image-120" title="著者顔写真" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/btnryugakusei.jpg" alt="著者顔写真" width="200" height="217" /></p>
<p>ベトナムの北部の貧乏な田舎に生まれた私は、今年、29歳になったばかりで、14歳から、ずっと両親と離れて、自分の勉強をまじめに頑張っています。小学一年生から中学校まで、五人の家族と一緒に貧乏な生活をしていましたが、両親と兄弟はいつもそばにいて、世話してくれ、本当に精神的に満ちたりたとっても幸せな時期でした。14歳からの私は家族と離れて、すごく寂しかったけれども、自分の道を実現できるように、いつまでも頑張るという決意を持っていました。当時、地元では、大学に合格した学生達は、一年間に2、3人ほどで、非常に少なかったのですが、大学に入ることは私の最初の大きな夢でした。中学校を卒業してから、田舎から50キロを離れたタンホア県の都会にある一番有名な高校の入学試験に受かって、それからずっと自分の両親と離れて暮らして勉強しました。50キロ離れていたけれども、実家に帰るのは、当時はバスで、８時間ぐらいかかって、大変でした。</p>
<p>大学受験の時、父がベトナムの首都のハノイにある大学に入学試験を受けるために、私を連れて行って、困ったことがいっぱいでした。この時のことは一生忘れることができません。その時は、大学はほとんど、ハノイにあったので、受験時期には、学生たちと父母たちは一緒にハノイに行きました。私は田舎から、お父さんの知り合いの米を運輸するトラックに乗せてもらい、夜11時に出発しましたが翌日の昼1時半にハノイについて、175キロの距離で、13時間半もかかりました。それ以上に泊まるところにも困って、厳しい台風もありました。大雨が降ったので、水が受験の部屋に入って、蚊もいっぱいいて、試験を受けながら、蚊と戦っていました。試験が終わって、試験の部屋から出た瞬間に、大雨の中に心配そうなお父さんの顔を見て、涙が出るほど感動しました。試験に頑張らなければならない気持ちが強くなりました。その思い出はいつまでも忘れません。</p>
<p>高校3年間一生懸命勉強をがんばったおかげで、首都にある受験した三つの大学に合格しました。合格という知らせをもらったとき、信じられないほど嬉しかったです。両親とも心から喜んでくれました。強く意志を持って、まじめに勉強を頑張ったので、自分の最初の夢は実現することができました。そして、ハノイ国民経済大学に入学することに決めました。</p>
<p>厳しい経済状態の中で私を支えてくれた両親のおかげで、4年間勉強に専念でき、いい成績で卒業できました。大学時代の間に、いろいろ勉強ができました。友達もいっぱいできて、その中に、一人の恋人もできました。その人が今の私の家内です。学校から専門知識をもらっただけではなく、大学の寮の20平方メートルの一部屋、いろいろな国から来た学生たちと一緒に暮らしたことは、私にとって初めての共同生活で、たくさんの生活経験をもたらしました。気がついたことは、どんな環境にも、自分が本音で、身の回りの人たちと協調しながら、暮らすべきということです。今、日本に住んでもその経験は私にとっては、大変役に立っています。</p>
<p>大学をよい成績で卒業することで、首都ハノイで大規模企業の研究所に勤めるという大きな夢を持って、就職活動ができました。すべての自分の努力が無駄にならないよう、多くの卒業生たちが勤めることを期待されている石油会社の研究所の入社試験に私は受かりました。それからずっと4年間、天然ガス市場の開発などを中心として、仕事を頑張りました。若者として、仕事のため、将来のため、もっと勉強しなければならないということが分かってきました。仕事を離れないと勉強に専念できません。そのため、海外に留学するのは、いつも捨てきれない私の夢になりました。けれども、私費で留学するのは、考えられませんでした。それは、自分にはお金がなくて、留学しても勉強に専念できないから、そのためでした。そして、日本の文部科学省奨学金に願書を出しました。努力と運ともに、ベトナム全国でその奨学金をもらえるための試験に受かった21人の中に、私の名前も入りました。何年間も頑張って待っていたのは無駄なことではなく、必ず努力が実るはずという自信を持つことができました。会社が合格結果を認めて、留学することを応援してくれました。そして2001年から、日本に来て、留学生としての生活が始まりました。</p>
<p>以前に考えたよりも、留学生の生活になれるまで、やはり時間がかかりました。困ったこともそんなに少なくありませんでした。日本という先進国を新聞・テレビからよく知っていると思っていたけれど、びっくりすることも多かったです。アジアの国の中で、自然資源もあまりないのに、人間的資源だけしか存在していないのに、どうしてこれほどの発展社会を作れたのか、そのものでした。前思ったよりも、この留学するチャンスは、私にとって本当に、画期的なことでした。</p>
<p>来日してから、まず、初めは、日本語を勉強しました。六ヶ月間神戸大学の留学センターで日本語をまじめに勉強しても、専門の指導教官に会ったときはぜんぜん駄目でした。あまり聞き取れませんし、会話でもあまりできませんでした。日本語の能力をもっと高めなければならないと頑張る気が強くなりました。そして、毎日一生懸命勉強しました。やはり、日本で勉強しているから、日本語能力がないと勉強にならなくて、先生から教えてもらった知識を十分に受けられないと思っています。それだけではなく、専門分野以外でも、日本語が通じないと、生活も困るし、日本の伝統的な文化も完全に理解できないということでもあります。そして、もちろん勉強のために、日本語は大切ですが、せっかく日本にいるからこそ、日本語を、勉強しないと、もったいないとも私は考えています。</p>
<p>しかし、よいチャンスですけれども、日本人の友達をたくさん作らないと、日本人と遠慮なく交流しないと、上手にならないという経験をしました。日本人は冷たくて、近づきにくいと留学生からよく聞いていましたが、それは、人によって違うかも知りません。私の場合は、神戸では、いっぱい日本人の友達もできたし、自分の子供としていつも世話してくれるホストファミリーもいるし、今まで神戸大学で、3年以上、研究を指導してくださる親切な先生もいます。皆さんの暖かいサポートのおかげで、自分のやる気も強くなってきました。心の底から、感謝いたします。</p>
<p>修士の二年間の頑張ったことで得た結果は、すべての成績が優で、修士論文が完成できて、合格しました。そして、博士後期課程に進学するための条件も満たして、2004年に博士後期課程の一年生になりました。</p>
<p>修士の間に経営知識、市場経済分析、市場経済制度の設計という分野を深く研究しました。近年、盛んに展開されている研究分野に着目し、この分野で修士論文を作成しました。修士論文は、ベトナムへの効率的な電力市場の制度設計をテーマとしました。今まで、まだ自由化されていなしベトナムの電力分野が、電力価格を引き下げ、生産効率を高め、効率的投資をもたらすためには、どのような市場構造を設計したらよいかという点を考察しました。過去電力自由化を行った国々がデザインした電力卸売市場を分析し、その結果をもとに、ベトナムの電力事業への市場のモデルの提案を行いました。自分の国の電力分野を開発させるために、少しでもその分野に貢献できるように、ずっと一年間、力を注いで、ベトナムからの資料・統計が不足したため、図書館・インターネットから、いろいろ資料を調べたり、整理したり、神戸大学の丸山指導教官の研究指導を受けて、その論文を書くことができました。世界で、電力分野がだんだん自由化されている傾向の中に、ベトナムの電力分野の効率を高めることができる」という強い自信があって、その研究を行いました。その論文も11月13日に大阪で開かれた日本全国に在日ベトナム人留学生の第一回学会で、発表することができました。これからも、もっと深く研究していきたいと思っています。</p>
<p>学校から、勉強するものだけでなく、社会から勉強になることもたくさんがあります。私は、国際文化交流活動、小学校生徒達と交流、ボランティア活動などによく参加しています。今年は、私はベトナムの大使として、第34回神戸祭りに参加させて頂くことになって、すばらしい記念になりました。それらの活動によって、自分の国の文化、伝統的なものを一緒に交流できますし、世界中の友達もいっぱいできて、日本の文化だけでなく、様々の国の文化も分かってきました。大変役立つと思います。認識できるほど、世界歴史、地理などの知識が苦手な私は、その知識がよく改善されています。</p>
<p>今年の4月から、神戸国際協力交流センター（KICC）で、私ともう一人のベトナムの留学生と交代で、2週間に一回、多言語相談という仕事をしています。それは神戸に住んでいるベトナム人、来たばかりのベトナム留学生などに、神戸での生活活動ガイド、そして外国人登録証、ビザ延長などの手続きのやり方についての相談という仕事です。相談できるように、さまざまの神戸での生活活動についての情報、日本の法律システムなどを調べて、自分にとっても、勉強になるし、神戸にいるベトナム人にも相談してあげることもできます。その仕事のおかげで、様々の日本のことが分かるようになってきました。その上に、日本に住んでいるベトナム人と一緒に困ることを相談に乗ったりしていると、自分の海外での生活経験も豊富になってきます。</p>
<p>先日、11月17日、西宮市生涯学習大学「宮水学園」で、私の専門分野の市場科学から、ベトナムでの計画経済から市場経済への改革とその結果、そしてベトナムと日本との経済関係をテーマとして、約100以上の日本人が参加した会議室で発表しました。そんな多くの人々の前で、今まで、発表した経験は全然なく、初めは、緊張しましたが、だんだん自信を持って、うまく発表できました。こんなにベトナムの経済のことについてよく関心がある多くの日本人がいるのか、初めて分かってきました。自分の専門分野も自分の国の経済のことも多くの日本人に伝えることができて、すごく嬉しかったです。参加した人達は、たくさん質問したりするのではなく、彼らの自分の経験、考え方も教えてくれたりしたので、私にとって、すごく勉強になりました。これから、さらに、自信を持って多くの人達の前で話し、専門論文を発表できるためのよい経験になりました。びっくりしたのは、発表を終わって、帰るときには、先輩の男性が私を追いかけてきて、ベトナムの観光地を発表の内容のなかに、ちょっと紹介しましたが、彼はハロン湾というベトナムでの有名な観光地を、「何回も行きましたよ」、「本当に、自然な所ですよ」、「すごくすばらしい印象を残っているよ」、「日本人は、まだ知らないよ」って、そして、「丁寧にチュン先生は、次回もっと、もっと詳しく日本人達にその素晴らしいところを教えてね」と彼が言いました。本当に感動しました。日本とベトナムとの友好関係を高めるように、これからもチャンスがあれば、少しでもベトナムの経済だけではなく、ベトナムの文化、伝統、歴史、観光紹介など、もっと多くの日本人たちに伝えたいと思っています。</p>
<p>「日本で勉強を卒業してから、何の仕事をするつもりか」、そして、「勉強した知識をどうやって社会に貢献できますか」、という質問がよく聞かれました。各人はそれぞれ別の夢を持っているでしょう。私の夢は、社会での高い地位を持ったり、お金持ちになったりする夢ではなく、それは、市場科学の分野で、立派な研究者になりたいという夢です。</p>
<p>ベトナムでは、計画経済から市場経済への改革を行ったのは、1986年からです。その改革のおかげで、非常に経済と生活レベルがどんどん改善されていますが、まだまだ、貧乏な国だと思います。最近の国際化、グローバリゼーションの流れの中に、外国からの投資を引くため、先端技術・現代的管理レベルを導入するために、もっと市場経済を進めなければなりません。そのため、日本での市場科学の分野を専攻として市場経済分析、市場経済制度の設計、経営管理、そして、研究の方法などを勉強した知識は、ベトナムの経済への再建に採用できるようなよい研究を行うため、その知識はとっても役立つと思います。立派な研究者になるという自分の夢を実現できるように、日本に留学している間にもっと頑張って、勉強して、知識を高めなければならないと思っています。</p>
<p>年輩の日本人からもらったメールは「なんと言っても、一番重要なことは教育ですね」、「チュンさんが、日本でしっかり勉強されて、ベトナム再建に役立って、ご活躍されることを、切に願っています」って、それはいつまでも忘れません。今まで、3年半以上日本に住んで、思い出もいっぱいできましたし、友達もたくさんできましたし、親切に研究を指導してくれる先生もいますし、自分の家族としてのホストファミリーもありますので、日本が二番目の故郷という気持ちがあります。両国の経済特性を学問的に分析し、両国の将来に少しでも貢献できるような研究者になることを目指して、これからも頑張っていきたいと思います。</p>
<p>第七回「世界の若者会議2004」に、心を込めて、こういう書いたものを出すのは、賞のためではなく、若者の皆さんに、私のこれまでの自分の経験、得られた成果、自分の夢とその実現について話したい、それだけです。人によって、自分の経験と考え方、そして自分の夢とその実現のし方、それぞれは違いますが、心を開いて、お互いに教え合うことは、とても大切なものだと私は思っています。</p>
<p>私も日本人の若者と世界の多くの国から来日した若者の経験、考え方を聞かせていただきたいです。そして、皆さんの留学、または社会から、得られた知識・経験・成果をどのような職業で、どのように生かして、社会に貢献していきたいということも知りたいです。それは私にとって、とても勉強になると思います。</p>
<p>最後に、言うまでもなく、勉強は、留学の間、大切なものですけれど、それと、もう一つの貴重なものがあります。それは、健康です。健康でないと、頑張る気があっても、勉強できませんし、自分の夢も実現できないと思います。皆さんも私も、家族と離れて悲しさ、勉強の忙しさ、留学の生活大変さ、様々なことがありますが、少しでも自分の健康を大事にしましょう。</p>
<p>（Le Viet Trung、ベトナム、神戸大学大学院　経営学研究科）</p>
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		<title>新たな夢を芽生えさせた私の日本留学</title>
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		<pubDate>Sat, 21 Feb 2009 06:59:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[シャ シン

私は1993年西安外国語学院に入学し日本語の勉強を始めました。大学卒業する1997年、中国珠海にあるキャノンの支社に入社、一社会人となり、通訳兼秘書の仕事をしていました。二年後神戸大学に入り、修士課程を経て [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>シャ シン</h2>
<p><a href="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2009/02/2212d.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-118" title="著者顔写真" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2009/02/2212d.jpg" alt="" width="150" height="189" /></a></p>
<p>私は1993年西安外国語学院に入学し日本語の勉強を始めました。大学卒業する1997年、中国珠海にあるキャノンの支社に入社、一社会人となり、通訳兼秘書の仕事をしていました。二年後神戸大学に入り、修士課程を経て、現在博士後期課程に在学中です。</p>
<p>光陰矢のごとし、気づいたら日本に来て五年となった今でもよく思い出すのですが、当時日本留学を決意した旨を両親に告げた時、猛反対されました。その理由は、とても明瞭でした。女の子の異国での一人暮らし、世界一物価の高いと言われる日本での生活、紆余曲折な日中の歴史関係等でした。周りの親友にも大いに説教されました。今の高収入な仕事を辞めてまで貧乏な留学生活を始める意義をよく考えなさいと。みんなの反対を押し切って日本の土を踏む私ですが、なぜ留学先を日本にしたのか、やがて日本人にそれを聞かれることとは知る由もなかったです。中国の家族親友、日本の友人、双方の立場は違いますが、私の留学の意義を疑問視するところでは同じでした。自分の日本留学は本当に人生の正しい選択なのかと困惑する日々がしばらく続きました。</p>
<p>日本語を専攻する人は、一回だけでも本当の日本を見てみたい気持ちをほとんど皆持っています。実際には制限の多い現実において、日本留学を決心させてくれるきっかけがなければ、中々実現することができません。</p>
<p>私のキャノン勤務は、毎日日本人駐在員と一緒に仕事した二年間でした。短い期間でしたが、私は大事なことに気付きました。それは、お互いの文化の違いを理解できないまま日本語だけでは日本人と中国人が円滑にコミュニケーションをとるのが難しいことです。</p>
<p>実は、それまで私は、大学四年間も日本語を習い、日本文化と多少触れ合うこともできたにも関わらず、日本文化に対して、多くの中国人と同じような考え方を持っていました。それは日本人と中国人の文化は「同文同種」であるというものでした。</p>
<p>このような考え方を持っていたからこそ日本の文化を理解しようとする姿勢がたりなかったのです。当時通訳としての私ですが、日本語を必死に耳で聞き取るしかできなくて、心の理解ができないままでした。聞き取れた言葉の断片を繋いで中国語に訳すという単純作業ばかりしていました。当然うまくいくわけがありません。悩む日々が長く続いていくうちに、私は次第に日本文化の中にある日本独特なものを、まったくの異文化らしきものの存在を強く感じとるようになりました。</p>
<p>もっと日本について知りたいと思うのでしたが、中国は改革開放したと言っても日本からの直接的な発信を受ける機会が少なく、中国人が日本に関する情報を入手することはまだまだ難しいのが実情です。そこで、私は初めて決心しました。日本に行き、日本の文化を習い、自らの目でみた日本、心で感じた日本についての最新情報を中国人に伝えたいとの思いで、日本留学を決意しました。</p>
<p>現在の研究について、私は日本の中世貴族が中国書籍の享受によって中国文化をどのように受容したかに関心を持ち、「貴族日記にみる中世貴族の中国感」を博士論文のテーマにしております。中世を中心とする研究ですので、古文や漢文を大量に読まないといけません。日本人の学生より倍以上の時間をかかり、研究者の道の大変さをよく味わってきました。また、物価の高い日本において、勉学しながらの生活が、特にアジア出身の留学生にはとても厳しいものです。私は生活と勉学の両立には苦労したことが少なからずありました。挫けたりすることも時々あります。しかし、難関を一つずつ突破していくうちに、日本に対して見る角度が変わったり、視野を広めたりすることができたのを実感しました。自分がどれだけ日本文化の理解を深めてきたか、言葉でうまく表せませんが、一つ感じたのは、日本語を耳で聞いている昔の私がいなくなり、心で聞くようになる自分がいることが確認できます。そして、今の留学生活が、私に学識のほか、新たな夢と希望を与えてくれました。感謝の気持ちでいっぱいと同時に、教師になり、日本で広げた見聞を母国に伝えたいとの新たな夢をどんどん膨らんで行きます。</p>
<p>怠け者の私ですが、日本に来て心に刻まれた言葉が一つあります。それは日本ではよく耳にする言葉で、「がんばれ！」ということです。</p>
<p>日本に来て最初のアルバイト先でよく「がんばってね」と店長が励ましてくれました。仕事先でお互いに「頑張ってね！」と声をかけたり、久しぶりに会った知人同士が「頑張ってますか！」をもって会話が弾んでいくとか、それら日本でごく普通であることは、自分が何回もそのように声をかけられてから初めて分かったのです。「がんばれ」を中国語に訳しますと、「加油」となります。文字通りに油を加えるという意味で、機械みたいに油を注いだらよく動いてくれるというイメージのもとで出来た言い方でしょう。運動会、リレーや綱引きなどの試合では応援隊が「加油！加油！」と大きな声で叫ばないと雰囲気が高まりません。よく思い出してみたら、以上のような場合以外に「加油」は、私たち中国人が滅多に口にしない言葉ではないでしょうか！</p>
<p>実際に、長く日本に生活している私たち留学生まで「頑張ってね」と言うようになってきています。それは日本では「頑張ってね」はせでに挨拶代わりになっているからかもしれませんが、一歩深く尋究してみますと、「がんばれ」というのは日本人が生活や仕事に対しての真剣さと努力の表わし方だと言えるのではないでしょうか。のんびり好きな私たち中国人がいろいろと考えさせられます。</p>
<p>次に、私を感心させたことは、日本人の四季との付き合い方、楽しみ方です。大自然に対する繊細な愛情の大切さを教えてくれました。</p>
<p>スーパーのレジのアルバイトをしたことがあります。小さなレジ台が、四季の変化に合わせて季節感溢れる日本人の暮らしを生き生きとかいま見せてくれるすばらしい窓口になりました。</p>
<p>見たことも当然名前も分からない商品がたくさんあり、何もかも興味深く思えました。わらを編んで、松の葉っぱと紙切れで飾られた蝶の形のものや瓢箪の形で白いものをぎっしり詰めた先端に小さな蜜柑の模型がついている白いものを買う人が多くいました。聞いて分かったのですが、それは「門松」と「鏡餅」でした。お正月に家に飾るのです。とても新鮮に思えました。中国では旧正月を象徴するものは餃子と爆竹以外、私には思いつきません。古代中国の時、除夜を迎える儀式ではきっとたくさんの飾り物があったでしょうが、それらのものが現代中国に伝承されてきてないことに残念でなりません。</p>
<p>それ以後も私は主婦たちの買い物かごに注目し続けました。大豆を買い求める人が増えました。日本人も大豆を炒めて食べるのだと思いきや、節分の「鬼はソト、福はウチ」の豆撒きに使うのだとか。立春の到来を知らせてくれます。</p>
<p>気候が暖かくなってくる頃、薄い布地で魚模様の旗や長い蘭の葉らしきものを手にするお客さんもいます。これは何かと聞いてみると、「鯉幟」と言い、五月五日は「端午の節句」で、家の庭にたてて男子の成長を祝います。「蘭の葉」は菖蒲といい、お風呂に入れて、「菖蒲湯」を楽しむとか。思わずうなづきました。端午の節と言えば、中国も粽を食べる時期となります。母の傍で粽作りに騒いでいた自分の子供の頃を思い出しました。</p>
<p>店の野菜売り場に新鮮な青い梅の姿が現れます。決まっているかのように梅の横に広口の蓋付きのガラスの瓶も並べられています。梅雨の季節が来たのです。主婦たちは梅干作りや梅酒作りにずいぶん気合が入っているようです。</p>
<p>本格的な夏がやってきました。焼き立てのうなぎを買うお客さんがレジに来ると、直ちに小さなレジ台にいい香が漂い、人の食欲を誘います。夏バテを防ぐためにはうなぎが最適だとか、またプチ知識をいただきました。</p>
<p>店頭にまた私が見たこともないものが並ぶようになりました。ビニールのトレイになす、きゅうり、さつまいも、ホウズキ、小さな造花の飾りなどが一つに詰って色がとても派手なものです。どうしても美味しそうには見えないと尋ねてみたら、食べるものではなくて、お盆の時期の仏壇にそなえ、祖先の霊を迎えるためのものだと教えてもらいました。</p>
<p>気候が寒くなってゆきます。お歳暮の時期にもなると、街は冬支度であわただしくなってゆきます。「年賀状承ります」「お歳暮承ります」など店では臨時コーナーを設けるぐらいの忙しさです。とうとう店では「おせち料理承ります」のコーナーが現れます。新年の到来を知らせてくれます。</p>
<p>このように、あっという間に一年が経ちました。この一年で私は日本人の季節感を目で確認することができ、日本人の四季おりおりの暮らしを身近なものとして感じるようになりました。茶室の掛け軸や花瓶の生け花が季節を意識しながら飾られたり、俳句の中に必ず季語を入れなければならないなど、教科書で学んだ理論とは異なる形で、日本の主婦の買い物を通して、私は日本人の季節の移り変わりへの細かな心配りを学ぶことができました。さらに、季節と付き合い、自然を楽しむことが大切であることも教えられました。</p>
<p>以上述べた通り、私は自分の目で見た日本、心で感じた日本が、先進的な科学技術を持つ近代化した経済大国のイメージだけではなく、日本人の勤勉さ、伝統文化を大切にすることや、大自然への繊細な心配り等々があります。これらは、けっして教科書やインタネットなどのような現代的な交信手段を通して理解できるようなものではありません。日本の地に身をおいて心で感じてみないと、その精粋が味わえないものです。</p>
<p>母国の中国では、経済が著しい発展と活力を見せています。人々はますます加速していく生活リズムに追われる中、なんとなく何かが失われているとの思いを持つ人が多いようです。それは一体なんでしょうか？その答えは見付かりません。経済発展において中国の先輩に当たる日本の現代文化、日本人の文化と自然への接し方等が今の中国人がその朦朧な答えを見付けるのには役立つのではないかと考えています。</p>
<p>日本と中国両方において生活でき、両方の文化を知れることが私には特権です。できれば、この二つの国に、何か役立つことができたらとの思いをずっと心中にあります。これから、博士号を取得し、中国に戻って教師になり、日本についてのことをみんなに伝えたいとの夢を一日も早く実現できるよう頑張っていきたいと思っております。</p>
<p>日本留学は、私に新しい夢をもたらし、次の人生の方向を示してくれました。この経験は私には一生の宝物であり、これからも感謝の気持ちを忘れずに、前向きに生きていきたいと願っております。</p>
<p>（謝　秦、中国、神戸大学大学院　総合人間科学研究科）</p>
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		</item>
		<item>
		<title>世界を拓く留学生の多様なキャリアとイノベーション</title>
		<link>http://sience.or.jp/base/archives/113</link>
		<comments>http://sience.or.jp/base/archives/113#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 21 Jan 2009 06:51:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tanaka</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://sience.or.jp/base/?p=113</guid>
		<description><![CDATA[アルバン　アルフォンス　エマニュエル　アウレ

私の名前はアルバン・アルホォンス・エマニュエル・アウレで、歳は31歳です。西アフリカにある面積 322,462平方キロメートル、人口1600万の象牙海岸共和国の出身です。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h2>アルバン　アルフォンス　エマニュエル　アウレ</h2>
<p><img class="alignright size-full wp-image-115" title="著者顔写真" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/kjwryugakusei.jpg" alt="写真：学校で交流する様子" width="150" height="185" /></p>
<p>私の名前はアルバン・アルホォンス・エマニュエル・アウレで、歳は31歳です。西アフリカにある面積 322,462平方キロメートル、人口1600万の象牙海岸共和国の出身です。</p>
<p>私は神戸大学大学院経済学研究科の文部科学省の奨学金制度の一貫で、2001年10月4日に来日しました。日本に来たのは今回が2回目で、2000年2月に外務省主催の「アフリカにおける民主主義、紛争および発展」というテーマのシンポジウムに、象牙海岸共和国を代表して出席したことがあります。この訪問はたった8日間でしたが、会議での交流はもちろん、東京、広島、京都へ観光できたことは私にとって貴重な経験となりました。私は日本の交通機関、行政サービスの良さ、また隅々まで行き届いた商業の流通網に驚きました。この訪問は残念ながら短いものでしたが、この国に再び戻って、研究をしたいという私の思いは膨らみました。</p>
<p>そして、私は日本に留学することに決めました。たくさんの同胞のようにフランスやアメリカに留学するよりも、日本の大学で経済学を勉強した珍しいアフリカ人になってみようと考えたからです。</p>
<p>日本は私たちアフリカ人にとって、欧米の大国に対置した発展の象徴となっています。また、私たちは中高で日本の歴史と経済を勉強します。日本の電化製品は人気が高く、若者にとって日本製品を持つのはある種のステータスです。にもかかわらず、日本に行こうとするアフリカ人がほとんどいないのは、距離や言語、また日本という国に対しての間違った認識のせいです。</p>
<h3>日本での研究および生活</h3>
<p>私の日本での留学生活は、神戸を拠点として、2001年10月4日から灘にある留学生寮で始まりました。妻と長女は翌年の4月に来日しました。</p>
<p>まず地域環境についてですが、日本、特に神戸は快適で住みやすい街です。まず、交通網が発達しており、ダイヤは正確です。また、安全性の面でも私たちの国とは比べものになりません。私の国では、治安の悪い地域では22時以降ミニバスやタクシーの運行を行っていません。交通網に加えて至る所にあるスーパーやコンビニエンス・ストア、公共サービス（銀行、病院、通信網等）の充実さは日本での生活をよりよいものにしてくれています。</p>
<p>次に人間関係についてですが、滞在期間を通して、私は友達の輪を広げることができました。6ヶ月間の日本語の授業を通して、留学生だけでなく日本人の友達もできました。また灘（2001年10月から2002年3月）やポートアイランド（2002年4月から2003年3月）の留学生寮では、様々な国の人との交流を通して、他の国の生活習慣などについて知ることができました。私は交流を通して、日本以外では特に、フィジー、ミャンマー、インドネシア、ウズベキスタン、タイそしてベネゼーラについて学び、アフリカの他の国の人々とも交流を深めることができました。</p>
<p>日本人と交流する方法として他に、大学や留学生センターのチューター制度やYMCAのホストファミリー制度があります。これらの制度は、最初だけではなく今日でも、日本の生活になじむために役立っています。私が定期的に連絡を取っているホストファミリーは、私にとって本当の家族の様な存在です。彼らは私が一番つらい時に心の支えになってくれました。</p>
<p>また、他の国と違い日本人があまり人種差別をしない事は、私たちアフリカ系黒人にとって、とても嬉しいことです。確かにまれに失望させられることもありますが、他の国であるような明らかな人種差別、暴力、傷害などは日本ではほとんどありません。日本では、ほとんど黒人がいないため逆に、私達は興味や注目の的です。</p>
<p>この3年間で私は色々なことを学び、伝えることができました。私はアフリカの文化、特に祖国の文化を、日常の会話や学生・大人向けのプレゼンテーションを通して伝えてきました。その代わりに日本語や日本文化、また他国の文化も知ることができました。さらに私は外国で生活する上で重要な、他者・文化への寛容さを学びました。</p>
<p>最後に日本での私の研究についてとりあげましょう。留学の選考試験で、大使館の方に日本で研究するに当たって、どのようにして言葉の壁を乗り越えるのかと尋ねられました。そのとき私は、今まで他の人がやり遂げられたのなら、努力と強い意志があれば乗り越えられはずですと答えました。日本に来る前は日本語を全く話せず、「こんにちは」でさえ知りませんでした。しかし、6ヶ月の語学研修の後、大学院で勉強を始められるようになりました。試験とゼミ、論文が得意な英語だったのが私にとって有利でした。夫として父親としての責任を果たしつつ博士号を取得するためには、専門的な英語や、日常会話程度の日本語を習得し、さらには経済学についてより深く理解しておくべきだったと思います。</p>
<p>大学院の講義はすべて日本語で行われているため、板書や本などを片手に授業についていきました。また授業内容についてまわりの生徒に聞いたり、それでもわからないときは教授に尋ねたりしました。試験のためには、沢山の英語の本や、インターネットで入手した文書で対処しました。こうして私は一番の障害である言葉の壁を乗り越えることができました。「為せば成る」という諺通り、一生懸命勉強することで、日本での研究を終えることができました。そしてこのことは私にとってすばらしい経験になったと思います。研究生活を終えて、今の私の気がかりは卒業後の進路です。</p>
<h3>就職の機会</h3>
<p><img class="alignright size-full wp-image-114" title="写真：学校で交流する様子" src="http://sience.or.jp/base/wp-content/uploads/2010/02/22-111c.jpg" alt="写真：学校で交流する様子" width="160" height="105" /></p>
<p>日本に来る前私は2年間講師をしており、博士号を取得している人が少ないこと、またこの分野に精通している人が少ないことを鑑みれば、今の私にとって自国の大学に就職することが妥当な選択と言えます。アフリカ諸国は私達のような知識を持った人を必要としています。さらに国が発展していくためには、知識を持った子供を育てていくことが必要です。私は帰国後、自国か他のアフリカ諸国に進出している日本企業で働きたいと考えています。私のフランス語と英語の知識、さらに少しの日本語と日本文化の知識は、就職するためのいい切り札になると思います。</p>
<p>ただ問題はアフリカ諸国の社会情勢が悪く、学生は国に貢献することよりもまず、自分自身が生き延びることを考えざるを得ないという点です。私の国も内戦状態にあり、貧困化、治安の悪化が進んでいるので、卒業後すぐ帰国することに不安を抱いています。</p>
<p>私の希望としては、1、2年ほど日本の企業や研究センターで働いて、大学で得た知識を実践的なものにしたいです。しかし私の日本語のレベルや企業の経済学への関心のなさから、日本で仕事を見つけるのはかなり難しいです。これからも希望を失わずに情報を探し、可能性があるならそれを最大限に生かしたいです。</p>
<h3>結論。および外国人留学生がよりよい生活を送り、さらに国際的な進路に進む道を広げるための提案</h3>
<p>私は日本政府ならびに文部科学省、また私を歓迎してくれた日本の皆様、そして家族に感謝したいです。この3年間の日本での経験は一生涯の思い出になるでしょう。博士号を日本で取ることに決めて本当によかったと思います。専門分野についてだけでなく、新しい言葉や文化を知ることができ、これらの知識を今後も国、家族さらに自分自身のために役立てていければと思います。<br />
ここで私は日本にいる外国人留学生にいくつかの提案をしたいと思います。</p>
<p>勉強面についてですが、私は既存の組織だけでなく、新しく来た留学生に先輩留学生がその経験を提供できるようなグループを作るべきだと考えています。なぜなら、情報によっては既存の組織の人から与えられる物よりも、先輩留学生から与えられる情報の方が役立つことがあるからです。</p>
<p>私はすばらしいホストファミリーに恵まれましたが、すべての人がそうだとは限りません。もしホストファミリーになろうと考えている人がいるなら、自分たちが留学生に与えうる影響の大きさについて考え、進んで留学生に時間をさいてあげて欲しいと思います。また、留学生には自分たちを受け入れてくれる環境や人を探すのではなく、自ら周りの環境や人々を受け入れていって欲しいと思います。</p>
<p>私は、日本に来た留学生を分野ごと、地域ごとに分類して、新たなネットワークを作るべきだと思います。このネットワークは、日本での留学経験のある人々と連絡をとったり、交流するだけでなく、ホスト国である日本との関係を保ち続けることを可能にします。また、このネットワークに本部を設け、日本の行政機関と連絡をきちんととれるようなものでなければなりません。このネットワークは日本に来た留学生が、世界各国の就職情報を収集したりするのに大変役立つでしょう。さらに、日本の企業が海外に進出するときにここで情報を得て、外国市場進出の道が開くことができるでしょう。</p>
<p>日本社会の高齢化が進むにつれて、外国人労働者に頼るべきか否かの議論がなされています。しかし、それならばまず日本での留学経験のある学生に日本で働く機会を与えてあげるべきではないでしょうか。</p>
<p>私は日本の経済状態が回復することを願っています。経済が豊かになればそれだけ奨学金制度も増え、外国人、特にアフリカの学生が夢を叶えることができます。それに、日本人の就職の機会が増えるだけでなく、日本で勉強した外国人の就職の機会が増えます。そうすれば、財政並びに技術が発展し、先ほど提案したネットワークもより充実したものとなります。</p>
<p>最後にもう一度日本政府および協力してくださった日本の皆様に感謝します。</p>
<p>（Alban Alphonse Emmanuel Ahoure、コートジボアール、神戸大学大学院経済学研究科）</p>
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