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	<title>尾道歴史新聞</title>
	
	<link>http://www.the-onomichi.com/history</link>
	<description>濱岡康正により、月1回刊行する、尾道の歴史を綴るブログです。</description>
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		<title>尾道に「天の岩屋」がある!! ＜歴史都市尾道の謎＞</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=232</link>
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		<pubDate>Sun, 28 Jun 2009 08:22:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[古代]]></category>
		<category><![CDATA[天の岩屋]]></category>
		<category><![CDATA[天の岩戸]]></category>

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		<description><![CDATA[
日本書紀、古事記に記されている「天の岩屋」または「天の岩戸」。これが尾道に隠されていたのだ。
尾道には四箇所に、巨石による遺跡がある。
尾道は３つの山に囲まれた街だが、それぞれの山、千光寺山、西國寺山、浄土寺山には玉の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwaya-11.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/iwaya-11-200x300.jpg" alt="天の岩屋" title="天の岩屋" width="200" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-240" /></a><br />
<h2>日本書紀、古事記に記されている「天の岩屋」または「天の岩戸」。これが尾道に隠されていたのだ。</h2>
<p>尾道には四箇所に、巨石による遺跡がある。</p>
<p>尾道は３つの山に囲まれた街だが、それぞれの山、千光寺山、西國寺山、浄土寺山には玉の岩と鏡岩、タンク岩、不動岩があり、尾道の街を守るかのように配置されている。</p>
<p>そして、この三箇所の岩が見ている先には、尾道の向かいにある島、向島の岩屋山にある岩屋巨石がある。はるか古代に、このような巨石をそれぞれ山の上に配置した人物とは、当時のかなりの権力者だったと思われる。</p>
<p> しかし一体何故、このような遺跡を残したのか、そして遺跡を造らせた権力者とは何者なのか、 この謎を解明しようとなさっているのが、尾道大学の稲田教授である。</p>
<p><span id="more-232"></span></p>
<p>稲田教授の著書「隠された神話・歴史都市 尾道の謎」（発行：尾道市）に、</p>
<blockquote><p>何故違う場所にある三つの寺が岩屋山を向けて建てられたのか？岩屋山は不思議な山である。三古刹が向いている岩屋山。初めは岩が多い山というのが印象だったが、フィールドワークを重ねる度に新たな発見と出合った、四山の中でも特筆すべき山だ。</p>
</blockquote>
<p>と記しておられる。</p>
<p>「隠された神話」によると、答えは三山の岩が見つめる先、岩屋巨石にあるとしている。</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/onomichi-map.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/onomichi-map-300x199.jpg" alt="尾道は平安京と同じ都市構想を持つ" title="尾道は平安京と同じ都市構想を持つ" width="300" height="199" class="alignnone size-medium wp-image-231" /></a></p>
<h2>岩屋巨石</h2>
<p>岩屋巨石に向かって行く途中に、行く先を誘導するかのように、摩壁仏が数多く配置されています。</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/makabe.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/makabe-300x200.jpg" alt="摩壁仏" title="摩壁仏" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-235" /></a></p>
<p>不動明王？天手力男神（あめのたぢからおのかみ）？彫ってある字が良く読めません。</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fudou.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fudou-300x200.jpg" alt="不動明王？" title="不動明王？" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-237" /></a></p>
<p>岩屋山の巨石。これは日本神話に登場する天の岩屋？</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/amanoiwaya.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/amanoiwaya-300x200.jpg" alt="天の岩屋" title="天の岩屋" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-238" /></a></p>
<p>岩屋山は標高約100mほどの小さな山だ。尾道側の三山は、それなりに人が訪れる場所だが、この岩屋山は人訪れぬ山であり、隠された秘密の場所のようだ。<br />
  巨石までの道のり上、数多くの摩壁仏が配置されており、この場所を守るかのようだ。<br />
  そして巨石にたどり着くと、見事な巨石が真っ二つに割れており、その壁面には不動明王なのか、日本神話で天の岩屋を開いたとされる天手力男神（あめのたぢからおのかみ）なのか、とにかく男神が描かれている。</p>
<p>そして、割れて開かれた岩の向こうは、夏至の朝日の方向になる。</p>
<h2>天の岩屋、そして。</h2>
<p>この岩屋巨石、冬至と夏至の朝日、夕日の交差する場所に配置されており、線を結ぶと正六角形が表れる。正六角形とは、亀甲の形であり、出雲大社の神紋、「二重亀甲剣花菱」とも読める。</p>
<p>つまり、出雲の国で、<strong>須佐乃男命</strong>がヤマタノオロチを退治して大蛇の尾から引き抜いた、草薙の剣を象徴しているのではないだろうか？</p>
<p>そして、千光寺山の玉岩、鏡岩と合わせると、この地に三種の神器が表れることになり、もし三種の神器を表し、岩を配置した人物がいたとしたら、その当時の日本の支配者に違いない。</p>
<p>もしかして、須佐乃男命その人だったのかも知れない。</p>
<p>考えてみれば、古代の日本の流通の中心は山陽道、瀬戸内海であり、山陽道のちょうど中央に位置する尾道に、時の権力者、支配者が、力の象徴を残したとしても不思議はない。岩屋山が、日本神話にでてくる、<abbr title="太陽神。天の岩屋に隠れた人。">天照大御神</abbr>が隠れたとされる、天の岩屋そのものなのかも知れない。</p>
<p>いずれにしても、古代人の太陽に対する信仰、憧れの思いが垣間見れる。</p>
<p>尾道の街は、富裕層を中心に真言宗の信仰が篤い。観音信仰の街とも云える。この観音様への信仰こそ、天照大御神への崇めではないだろうか？神仏混合により、人々の太陽神への信仰が、自然に観音様への信仰として受け入れられていったのではないだろうか？</p>
<p>この岩屋巨石のある岩屋山は、「<a href="http://www.the-onomichi.com/history/?p=168">尾道にチベットのポタラ宮がある。</a>」で紹介した西提寺の寺領の中にある。つまり観音様の住む場所、補陀山（ほださん）を指しているのが岩屋山、ということだ。</p>
<p>そして、岩屋山と対を成すように大神山があり、ここは、天照大御神の神託を受け、神通力を得たとされる倭姫命（やまとひめのみこと）が終焉の地として選んだ場所、という記述がこの山に建つ<a href="http://www.the-onomichi.com/fieldwork/?p=199">大元神社</a>に記されている。</p>
<p>倭姫命は魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」と目されている人物であり、彼女が弟の<abbr title="桃太郎伝説、浦島太郎伝説の元になった人では？と云われている人物。">日本武尊（ヤマトタケル）</abbr>に蛮族征伐に向かわせる際、三種の神器のひとつ、「草薙の剣」を託した場所はもしかして、ここ、尾道だったのでは？と想像してしまう。</p>
<p>何故なら岩屋巨石こそ、草薙の剣＝太陽神の力、と先に私が記したことから考えられるからだ。</p>
<h2>追記</h2>
<p>岩屋巨石は稲田教授によると、</p>
<blockquote><p>他の三山の巨石よりも更に古くから存在していた。</p>
</blockquote>
<p>とのことだ。教授の考古学心としては、是非巨石の下を掘り返してみたい、と考えておられるようだが、罰当たり、ということになるだろうし、許可が下りるかも分からないから残念な気持ちを持たれているようだ。</p>
<p>稲田教授の考えでは、三山全てが玉岩、鏡岩、と推察している。そこから見えてくることは、山陽道、瀬戸内の海道の流通権を支配するための要塞都市としての尾道の姿だ。</p>
<p>私も折りを見てこの件に関して、更に突っ込んで調べて見たいと思う。</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/photo-setonohinode.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/photo-setonohinode-300x200.jpg" alt="瀬戸の日の出" title="瀬戸の日の出" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-233" /></a></p>
<p>瀬戸の日の出</p>
<p><iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;oe=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=116726906988203091586.0004667e2cfeb03f55ba7&amp;ll=34.402909,133.209722&amp;spn=0.006197,0.00912&amp;z=16&amp;output=embed"></iframe><br /><small>より大きな地図で <a href="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;oe=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=116726906988203091586.0004667e2cfeb03f55ba7&amp;ll=34.402909,133.209722&amp;spn=0.006197,0.00912&amp;z=16&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">岩屋の大岩　(かがみしま)</a> を表示</small></p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=232&type=feed" alt=" 尾道に「天の岩屋」がある!! ＜歴史都市尾道の謎＞"  title="尾道に「天の岩屋」がある!! ＜歴史都市尾道の謎＞" />

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		<item>
		<title>“恋多き女、林芙美子”－尾道ゆかりの人－</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=228</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Jun 2009 05:51:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[近代]]></category>
		<category><![CDATA[小説家]]></category>

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		<description><![CDATA[
6月、梅雨空に咲く紫陽花（あじさい）を林芙美子は好んでいた、ということで、 6月は「紫陽花忌 」と云って「林芙美子を偲ぶ会」が開かれている。
林芙美子にはれっきとした手塚緑敏（通称ロクさん）という夫がいながら恋人が沢山 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.flickr.com/photos/ku_non/175389909/"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/175389909_d5a3dc396f-199x300.jpg" alt="あじさい" title="あじさい" width="199" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-227" /></a>
<p>6月、梅雨空に咲く紫陽花（あじさい）を<a href="http://www.the-onomichi.com/refer/人名集/林芙美子/">林芙美子</a>は好んでいた、ということで、 6月は「紫陽花忌 」と云って「林芙美子を偲ぶ会」が開かれている。</p>
<p>林芙美子にはれっきとした手塚緑敏（通称ロクさん）という夫がいながら恋人が沢山いた。そのうちの一人に、シベリア鉄道一人旅でヨーロッパまで会いにいったこともいる。</p>
<p>戦後あるルポライターが2週間かけてシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに行ったが、心細く心配で辛い旅だったと語っていたが、恋に身を焼く芙美子にとってはわくわくする旅であっただろう。</p>
<p>しかし、この芙美子よりもっと凄い女性がいた。芙美子の母である。</p>
<p><span id="more-228"></span></p>
<p>この人、九州で最初芙美子の実父と結婚している。自分より14歳年下の宮田麻太郎という人である。</p>
<p>この芙美子の実父が浮気をしたというので別れて、後、芙美子の養父となるあの「<abbr title="第一次大戦後の暗い東京で、飢えと絶望に苦しみながらも、したたかに生き抜く「私」が主人公。">放浪記</abbr>」、「<abbr title="古里を持たないと断言した著者が、唯一“旅の古里”と懐かしんだ尾道を舞台に描く自伝的処女短編。">風琴と魚の町</abbr>」に出てくる人物で、母子が尾道に来た時の相手、沢井喜三郎は、芙美子の母より20歳年下だった。</p>
<p>芙美子の母親はどうも年下が好きらしい。</p>
<p>芙美子は名をあげ、48歳で亡くなった。（1903～1951）　すると母親は芙美子の夫、手塚緑敏に結婚を申し込んだということである。</p>
<p>実は内々に関係があったという人もいる。この母あってこの娘あり、ということか。</p>
<p>今だったら五月みどりがいるが、この二人には目じゃない。まあ、テレビもワイドショーも無かった時代ではあるが、「ようやるわ。」ということだ。</p>
<p>だからあの名作「<abbr title="恋愛小説の最高傑作との呼び声もある。">浮雲</abbr>」が生まれたのであろうか？この芙美子のお母さんが可愛くて、活き活きしていて、中々魅力のある人物だったらしい。</p>
<p>今の世の女性よ、&quot;負けるな、芙美子の母ここにあり&quot;ということか？</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fumiko.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/fumiko-300x200.jpg" alt="林芙美子像" title="林芙美子像" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-229" /></a></p>
<p>-林芙美子像-</p>
<p><iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E5%B0%BE%E9%81%93%E3%80%80%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90%E5%83%8F&amp;sll=37.020098,136.40625&amp;sspn=53.871855,79.101563&amp;ie=UTF8&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;cid=14159881769567083086&amp;ll=34.41831,133.206997&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;source=embed&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E5%B0%BE%E9%81%93%E3%80%80%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90%E5%83%8F&amp;sll=37.020098,136.40625&amp;sspn=53.871855,79.101563&amp;ie=UTF8&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;cid=14159881769567083086&amp;ll=34.41831,133.206997" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small></p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=228&type=feed" alt=" 恋多き女、林芙美子－尾道ゆかりの人－"  title="恋多き女、林芙美子－尾道ゆかりの人－" />

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		<title>「春雨じゃ濡れていこう。」尾道縁の文学者、行友李風</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 08:04:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[近代]]></category>
		<category><![CDATA[月形半平太]]></category>

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		<description><![CDATA[
 行友李風（ゆきとも りふう,1877～1959）
「春雨じゃ濡れていこう」、と傘もささずに飲屋街を歩くと「月形半平太」「行友李風」は忘れられても、この言葉だけは我々の口に残されている。
額に月形の傷を持ち、正義の味方 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.flickr.com/photos/eliotstyle/3583587415/"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/06/e698a5e99ba8.jpg" alt="e698a5e99ba8 「春雨じゃ濡れていこう。」尾道縁の文学者、行友李風" title="e698a5e99ba8" width="250" height="167" class="alignleft size-full wp-image-225" /></a>
<p> <strong>行友李風</strong>（ゆきとも りふう,1877～1959）</p>
<p>「春雨じゃ濡れていこう」、と傘もささずに飲屋街を歩くと「月形半平太」「行友李風」は忘れられても、この言葉だけは我々の口に残されている。</p>
<p>額に月形の傷を持ち、正義の味方、月形半平太を生み出した男こそ行友李風（尾道市土堂生まれ）である。</p>
<p>この月形半平太は、幕末の坂本龍馬の先生であり、同士でもある武市瑞山（武市半平太,1829-1865）がモデルであるとされている。武市は幕末、土佐藩郷士、剣道に優れ、江戸桃井道場の塾頭を務めた男。</p>
<p>何せ「かっこ良い」この月形半平太の生みの親が尾道の生まれであり、若くして<abbr title="葉藍を醗酵させて染料になったものや沈澱藍、葉藍等を売買する人">藍商</abbr>の家業を継ぐが破産、大阪に出て新聞記者になる。<abbr title="新国劇の創設者。「国劇」は「わが国の劇」、この場合は歌舞伎を指します。">沢田正二郎</abbr>の新国劇の専属作家になり、数々の名作を発表している。</p>
<p><span id="more-226"></span></p>
<p>「国定忠治」の「～赤城の山も今宵かぎり&#8230;」の名セリフ、そして「新撰組」、「天保水滸伝」など、数知れず名作を作った人である。</p>
<p>尾道在住、畠中美恵子氏（文化財保護委員）の行友李風の小論文がある。</p>
<p>行友氏は1959年大阪市で亡くなられている。畠中氏がお悔やみを申し上げると、遺品などを尾道に送られたということである。</p>
<p>いつか尾道で&quot;行友李風を偲ぶ会&quot;を開いてほしいし、この文芸作品の普及版が出ることを望んでいる。</p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=226&type=feed" alt=" 「春雨じゃ濡れていこう。」尾道縁の文学者、行友李風"  title="「春雨じゃ濡れていこう。」尾道縁の文学者、行友李風" />

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		<item>
		<title>尾道と高野長英</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=218</link>
		<comments>http://www.the-onomichi.com/history/?p=218#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 19 May 2009 07:11:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[幕末、明治]]></category>
		<category><![CDATA[蘭学者]]></category>

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		<description><![CDATA[
高野長英という男がいる。（1804-1850）
幕末の蘭学者で医者である。この男、勇気、力、学力、いずれもずば抜けた英才であった。
「夢物語」という書で、幕藩体制を批判して、投獄され、脱走し、蘭学を研究し、最後に自殺し [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/05/takano.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/05/takano-208x300.jpg" alt="高野長英" title="高野長英" width="208" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-219" /></a>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/refer/%E4%BA%BA%E5%90%8D%E9%9B%86/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1/">高野長英</a>という男がいる。（1804-1850）</p>
<p>幕末の蘭学者で医者である。この男、勇気、力、学力、いずれもずば抜けた英才であった。</p>
<p>「夢物語」という書で、幕藩体制を批判して、投獄され、脱走し、蘭学を研究し、最後に自殺している。</p>
<p>この男が尾道にいたことがある。</p>
<p>この尾道で何をしたのか？</p>
<p>「自分の婚約者に酷いことをした。」と書いてある。（<abbr title="歴史小説家。歴史を多面的に解釈する独特の世界観に定評がある。">童門冬二氏</abbr>）</p>
<p>彼は陸奥水沢の人である。高野家の養子になった。その娘「千才」と夫婦になることで医術も学び、学費もだしてもらった。</p>
<p>ところが当人は江戸で学び、長崎で<a href="http://www.the-onomichi.com/refer/%E4%BA%BA%E5%90%8D%E9%9B%86/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88/">シーボルト</a>（オランダの医師）に4年間教わった。 </p>
<p>広島から尾道に来て尾道で診療と講義を行った。</p>
<p>その時、婚約者「千才」はすでに25歳。当時では婚期遅れになっていた。婚約者の親類が「長英」を連れ戻しに来て、尾道で捕まえた。</p>
<p>ところが高野長英は、「あの娘と一緒になるつもりはない。」となんとも薄情な男ぶり。</p>
<p><span id="more-218"></span></p>
<p>大抵の男は、尾道に来るとこの尾道の景色の中でロマンチックになるし、優しくなるのに、長英は違ったようである。</p>
<p>とにかくもこのいいなずけ千才は後に結婚したが、長英という男、大酒を飲んで、背を向けて寝て、体を開くことはなかったそうである。</p>
<p>罪な男である。</p>
<p>後世に名を残した人の、なんともだらしない一面が尾道に残っている。しかしその人間臭い一面に、その存在感の身近さをも感じる。</p>
<p>江戸で脱獄した後、尾道に滞在したのか、長崎遊学の後か論じられたことがあったが、1830年の書簡があるとのことで、脱獄の前であることが分かった。</p>
<h2>幕末の適塾、緒方洪庵が1862年に尾道に来ている。</h2>
<p>鮮鯛やイカに舌鼓を打ったそうである。</p>
<p>「軒しげく建てる家なる、あしびきの山の尾道道せばきまで。」</p>
<p>この緒方洪庵の息子が日本で最初の帝王切開を行った医師であり、その医師によって生まれた子供が有名な<abbr title="哲学者、政治家、国会図書館長、戦後日本の精神的風土を作ったリーダーであった。">中井正一氏</abbr>であった。</p>
<p>尾道の誇りとする人物である。中井正一氏については次回書いてみたい。</p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=218&type=feed" alt=" 尾道と高野長英"  title="尾道と高野長英" />

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		<title>尾道の芸者の奇妙な風習＜生きている間に葬儀＞</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=185</link>
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		<pubDate>Fri, 24 Apr 2009 07:04:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[尾道芸者]]></category>

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		<description><![CDATA[
前回、尾道の「尼さん」について記した。
尼さんが尾道の「常称寺」に百人以上いたこと、又その人々が何を収入の糧として生活していたかについては、古着の修理、又は町人の子供達に「読み書き」を教えていたことを書いた。
その古着 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/04/geisha.jpg" alt="芸者イメージ" title="芸者イメージ" width="160" height="300" class="alignleft size-full wp-image-116" />
<p>前回、<a href="http://www.the-onomichi.com/history/?p=177">尾道の「尼さん」</a>について記した。</p>
<p>尼さんが尾道の「常称寺」に百人以上いたこと、又その人々が何を収入の糧として生活していたかについては、古着の修理、又は町人の子供達に「読み書き」を教えていたことを書いた。</p>
<p>その古着のことについてであるが、尾道の輸出品としては大事な商品であったのである。当時<a href="http://www.the-onomichi.com/refer/%E7%94%A8%E8%AA%9E%E9%9B%86/%E5%8C%97%E5%89%8D%E8%88%B9/">北前船</a>の輸出品として、塩、鉄製品、畳表、酒、酢、が主要品であるが、他に讃岐の砂糖、そして古着とがある。</p>
<p>古着の類が商品として輸出されることなど、現代人には考えにくいところであるが、北陸、北海道では木綿がないので重宝がられたようである。特に「道服」というのは、着物の中に綿を入れたいわゆる「どてら」であり、当時の防寒着として重宝がられた。</p>
<p><span id="more-185"></span></p>
<p>尾道の卸問屋の手を径る荷物は品種も多かった。特に北前船は北海道と北日本との直接取引きで、尾道商人を潤わせた。</p>
<p>冬が深まると海が荒れるので、秋に尾道に来て、春に帰国するのである。その間、荷商いを済ませると、「色街」で大振る舞いをし、芸者が大忙しということになる。</p>
<p>下関から大阪まで、尾道の色街は知られていた。<abbr title="相撲用語ですね。">西方前頭七枚目</abbr>に備後尾道があり、尾道の隣町の鞆は<abbr title="相撲用語です。">東方八枚目</abbr>で、遊女の値段も鞆より高い。</p>
<p>当時は「米」と比較して、大阪よりランクは下だが、高い相場だったそうである。＜諸国遊女立見録より＞</p>
<h2>尾道の芸者について</h2>
<p>さて、尾道の芸者についてであるが、昔、「豆千代」という芸者がいて、昔の様子を語っている。その中で、生きている間に葬式を出すという話がある。</p>
<p>芸者はそれなりの晩年を芸事を教えたり、「やり手婆さん」みたいなことをして生きていくことが出来るが、その本人が生きている間に葬式をすると香典が本人に渡る。これまでの付き合いがあっただんな衆やひいき先も出さざるを得ないし、けちることもしない。それを退職金がわりにして老後を生きていく「よすが」になる。</p>
<p>誠に尾道芸者の知恵はあなどれない。落語のネタにでもなりそうな話である。</p>
<h3>尾道小唄</h3>
<p>♪わたしゃ尾道波止場の生まれヨ<br />
出船、入船見てくらすヨ　エンヤラサ～<br />
<abbr title="新街、芸者町">新地</abbr>にゃ冬でも花が咲く<br />
エーよいとこ尾道ちゃ素敵～<br />
エンヤラサ～ドッコイショ♪</p>
<p>と歌いつがれている。</p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=185&type=feed" alt=" 尾道の芸者の奇妙な風習＜生きている間に葬儀＞"  title="尾道の芸者の奇妙な風習＜生きている間に葬儀＞" />

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		<title>尾道と尼寺</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=177</link>
		<comments>http://www.the-onomichi.com/history/?p=177#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Apr 2009 06:37:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[尼寺]]></category>

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		<description><![CDATA[
尾道には山陽一の遊女街があったが、それにも増して山陽道一の尼寺があったことはあまり知られていない。
この欄でも書いたことがあるが（尾道のもうひとつの裏の顔）、江戸幕府の隠密の指揮場所、もしくは変装する場所として使われて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/09/photo-jyoushouji.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/09/photo-jyoushouji-300x200.jpg" alt="常称寺" title="常称寺" width="300" height="200" class="alignleft size-medium wp-image-107" /></a></p>
<p>尾道には山陽一の遊女街があったが、それにも増して山陽道一の尼寺があったことはあまり知られていない。</p>
<p>この欄でも書いたことがあるが（<a href="http://www.the-onomichi.com/history/?p=160">尾道のもうひとつの裏の顔</a>）、江戸幕府の隠密の指揮場所、もしくは変装する場所として使われていた<a href="http://www.the-onomichi.com/refer/%E7%94%A8%E8%AA%9E%E9%9B%86/%E6%99%82%E5%AE%97/">時宗</a>の常称寺がある。足利尊氏の寄進によって、1309年に建立された古寺で、国の重要文化財が五つもある。豪勢な寺院であったが、今は当時の面影はない。</p>
<p>この常称寺に尼寺があった。－小栗庵、慶徳庵、福泉庵、布施家之庵、珠数屋、松之寮とあった。尼寺小路の名称もあったが、今はこの名さえ消えてしまった。時宗西郷寺にも尼寺が三つあったそうである。(庵は小さな僧房のこと。寮も同様。）</p>
<p>明治時代にも三庵が残っていたが、大正十二年に最後の庵主（あんじゅ）さんが、他界されて、尼寺は無くなってしまったので、石倉一光住職が、「尼寺掟目」という小文を残しておられるので、そのことについて想像してみた。</p>
<p><span id="more-177"></span>
<p>この尼寺は、ある程度自治が認められていた。お針（さいほう）を教えていた。港（尾道の）の人々の着物の仕立て直しをしたりして、生計を立てていた。尼寺として、『庵主は、朝夕「経」をとなえ、草花を絶やしては成らない』などの掟があった。</p>
<p>しかしこの掟目をみると</p>
<ol>
<li>各庵主の席順がきびしく定められている。（席順でもめたことが分かる）</li>
<li>着用について、絹、麻、木綿、とある。（これは、絹と着ていた人がいたということ）</li>
<li>庵主がたびたび出奔している。帰ってきたときは、席順を一番下にして迎えている。（男と逃げたに違いない）</li>
<li>子供をもらっている。捨て子や事情のある子供を養子にして、針仕事を教えて生きていけるよう教育している。</li>
<li>旅人を泊めている。男を泊めてはいけない、とあるのは、男を泊めた尼寺があったということである。</li>
<li>再度、「男を泊めてはいけない」とあるのは、たびたび男を泊めた尼寺があったことが分かる。</li>
<li>「酒宴の貸座敷にしてはいけない」とあるので、三味線をひいたり酒宴をしていたことがうかがえる。</li>
<li>「手遊び勝負（ばくち） を禁じる」のは尼が「ばくち」もやっていたと思われる。</li>
</ol>
<p>尾道に尼寺が沢山あって、そこに離縁したり不幸があったりした女性が尼になり、仏門に入って生きたという、江戸時代、明治時代があり、今はもうない、ということである。</p>
<p>今日、「時宗」に限らず「創価学会」などの新興宗教は女性が活躍している。</p>
<p>しかし、時宗の祖、「一遍上人」は女性の教育に努められ、遊行中女性が付き従っている。尼さんが一番多いのも時宗であった。尾道に尼寺がひとつでも残っていたら、と残念に思う。</p>
<p>以下の小文は、石倉一光住職が記したものです。また、「尼寺掟目」は、住職が写されたものの一部を抜粋させて頂きました。</p>
<blockquote><h3>常称寺「尼寺掟目」について</h3>
<p>備後国後地村（尾道市久保町）尾陽山願王印常称寺は、遊行二祖真教上人の開基で足利尊氏の寄進によって延慶二年（1309年）に権立された古寺で、江戸末期までは、<abbr title="八坂神社は元々は高麗系の八坂氏の氏神で農耕神だったため、牛頭天王を祀るようになった？">祇園牛頭天王</abbr>を祀る神殿があり、豪勢な寺院でした。</p>
<p>現在の大門の<abbr title="屋根の棟をふくのに用いる瓦。江戸時代以降の形式">棟瓦</abbr>には、昔を偲ぶ三種の巴の紋が残っています。当時の末寺は滋観寺、海福寺、成福寺、極楽寺、正覚寺、二之寮があり、尼寺は<strong>小栗庵、慶徳庵、福泉庵、布施家、南之寮、珠数屋、</strong>と他寺所蔵と思われる王蔵庵、<strong>松之寮</strong>と山門の中に並び立っていた古図でうかがわれます。</p>
<p>明治以降もしばらく三庵では庵主さんがお針を教えられており、最後の庵主さんは大正十二年頃に他界されて庵の姿も消え、今は尼寺小路の名称だけが寂しく残っているだけです。</p>
<p>「尼寺掟目」は、本坊常称寺が庵寺の掟として天保十四年（1843年）に定められたものです。去る11月13日文化の日、晴朗な秋日和を利して常称寺に訪れ、山主から古い名号数軸を見させて頂き、最後に「こんなものがある」と出して頂いたのがこの「尼寺掟目」でした。なかなか面白いところがあるので、楷書に改めて写させて頂きました。</p>
</blockquote>
<p>-石倉一光著-</p>
<h2>「尼寺掟目」</h2>
<dl>
<dt>定</dt>
<dd>往古より相続有之候尼寺に候得ども是と申法式定例も無之本坊諸式之勤方等人々思々に取計一統申合之掟等有之候得ども時之一老庵主之了簡に依て間違甚以不次第の儀も有之仏法僧法之定式無之甚以下宜在候に付此度荒々定例相定置候間己後心得違無之様急度相守可申ものなり</dd>
<dt>天保十四年卯年九月十五日</dt>
<dd>常称寺　卅三世　其阿上人</dd>
<dt>掟</dt>
<dd>
<ul>
<li>何事によらず本坊の下知急度相守可申候尼寺之儀は住職の節たり共本山へ御願ひ申候事も無之公辺へ御届け申候儀も無之唯本坊の思召次第に候得ば本坊の下知相背候ものは急度曲事可申付事</li>
<li>公儀御法度之趣益国法相背申間敷候別而近来公儀御厳重之被仰出に候へば随分神妙如法に寺務いたし候事肝要に候万一不相用酒宴益不如法相募り候節は急度可之沙汰候事</li>
<li>宗風急度相守申候事</li>
<li>朝暮誦経念仏益香花等由断有之べからざる事</li>
<li>・・・・・・・</li>
</ul>
</dd>
</dl>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=177&type=feed" alt=" 尾道と尼寺"  title="尾道と尼寺" />

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		<title>「どうしようもない私」種田山頭火と尾道</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=174</link>
		<comments>http://www.the-onomichi.com/history/?p=174#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Apr 2009 06:31:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[近代]]></category>
		<category><![CDATA[山頭火]]></category>

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		<description><![CDATA[
「分け入っても分け入っても青い山」で有名な山頭火と尾道について書いてみたい。
尾道は小さな街であったが、山頭火が来た頃の花町はたいへんな賑わいであって、芸者はいるわ、売春宿はあるわ、喧嘩は絶えず、肩が当たった当たらずで [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/02/hanamachi-image-215x300.jpg" alt="新街イメージ" title="新街イメージ" width="215" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-121" />
<p>「分け入っても分け入っても青い山」で有名な<a href="http://www.the-onomichi.com/refer/%E4%BA%BA%E5%90%8D%E9%9B%86/%E7%A8%AE%E7%94%B0%E5%B1%B1%E9%A0%AD%E7%81%AB/">山頭火</a>と尾道について書いてみたい。</p>
<p>尾道は小さな街であったが、山頭火が来た頃の花町はたいへんな賑わいであって、芸者はいるわ、売春宿はあるわ、喧嘩は絶えず、肩が当たった当たらずで喧嘩、女の取り合いであばれる、といった賑わいであった。</p>
<p>花町の入り口にクリーニング店があり、その店先まで山頭火が酔いつぶれてのたわっていたそうである。</p>
<p>人通りの激しい店先で、乞食坊主が酔っ払って寝ているので迷惑この上ない。酒臭い坊主が寝ているのである。（今では当時の面影は無く、静まり返っている。）</p>
<p>そのクリーニング店のお婆さんが、ぶつぶつ云うのでもなく、邪魔にするのでもなく、「その坊さん、腹が減っているだろうと、彼が目を覚ましたとき、食事とお茶を差し出したら、その坊さんが１句の短冊（たんざく）をくれ、3晩で3句の短冊をもらったそうで、今でも大事に保管しているそうな。」</p>
<p>クリーニング店のお嫁さんが云っておられた。後になって、あの有名な山頭火という俳人であると分かったときの驚きはなかったそうである。</p>
<p><span id="more-174"></span></p>
<h2>私は山頭火が大好きである。</h2>
<p>特に好きな一首は、「まっすぐな道でさみしい、どうしようもない私が歩いている」の句が一番好きだ。自分がどうしようもないので、この句に惹かれる。</p>
<p>ところが山頭火伝を何冊か読んだが、ここで尾道と山頭火について、少し異なった見解を持っている人を紹介したい。</p>
<p>画壇の大御所梅原龍三郎-中川一政氏などと友人であり、春陽会のメンバーである、尾道出身の小林和作氏の種田山頭火についての一文を紹介する。</p>
<h2>種田山頭火の事</h2>
<blockquote><p><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2009/02/santouka-image.jpg" alt="山頭火" title="山頭火" width="258" height="260" class="alignleft size-full wp-image-119" /></p>
<p>近頃、俳人の山頭火の事がひどく有名になって、殆んど、あらゆる俳人たちを凌いで取りざたされ、その上に、山頭火に関する本が続々と出て、なおかつ、全集まででることになったらしい。しかし私は、山頭火をそう別に関心してもおらず、この人物はずいぶんお粗末で、その俳句も同じようにお粗末で、語呂合わせのようなもので、面白くもおかしくもない、と思っているのだが、こんな人物を死後何十年もたった今、墓から呼び出して、わいわい騒ぎ立てるのは、その連中が、山頭火を種にして、自らの名をあげるための狂騒としか思えないがどうであろうか。</p>
<p>しかし、私は、この山頭火とは多少のツナガリがあるので関心は持っている。</p>
<p>私は、山頭火本人に、昭和十何年かの山頭火の晩年頃に尾道で会った事がある。その頃、本町の今の尾道郵便局の東の方で南側にあった家で、尾道の文化人でなおかつ郷土史家であった村田四郎氏が、山頭火を招いて、私どもにまで召集をかけた。私どもは、何人かで村田家へ行ったが、時間は夜だったと思う。山頭火は村田家の二階座敷を陣取っていた。大男に見えたが酒焼けのした多少崩れかかった顔で、何やらぶつぶつ云っていた。私どもは、山頭火が何者か知らなかったので、この不愉快な強情そうな顔の老酒徒の話をロクにきかず、こちらでも勝手にわいわい云っていた。</p>
<p>そのうちに、村田氏が色紙を出したので、山頭火はそれへ何枚も自作の俳句を書いた。私もその中の一枚をもらったが、字も俳句も別に立派だと思わなかったので、家へ持ち帰ったままで、今ではその色紙の行方も分からなくなった。</p>
<p>その時は、小野鉄之進君も我々と一緒だったと思う。</p>
<p>その後、間もなく山頭火は死んだはずだが、新聞などにその名が出るほどの人物ではないので、私どもは何も知らず、近年まで無関心でいた。</p>
<p>しかし、私の母が種田一家の事を知っていて、私どもへ山頭火の父の竹次郎氏の事を一寸話していた事があったが、私はそれも近年まで忘れていた。</p>
</blockquote>
<p>尾道には何度も来ているのに、たいていの「山頭火伝」にはその記述はない。尾道には山頭火の句牌もない。</p>
<p>誠に残念なことである。</p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=174&type=feed" alt=" 「どうしようもない私」種田山頭火と尾道"  title="「どうしようもない私」種田山頭火と尾道" />

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		</item>
		<item>
		<title>蟹工船と尾道と　（小林多喜二）</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=171</link>
		<comments>http://www.the-onomichi.com/history/?p=171#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Apr 2009 06:21:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[近代]]></category>
		<category><![CDATA[蟹工船]]></category>

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		<description><![CDATA[
「蟹工船」が今、ベストセラーになっている。
この小林多喜二と尾道の関わりを、私の友人T氏の承認を得て下記する。
一つ、尾道の対岸の向島に住んでいた田辺耕一郎（出身　安芸高田市　高田）と多喜二の関係である。
多喜二が特別 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/11/kanikousen.jpg" alt="蟹工船" title="蟹工船" width="160" height="160" class="alignnone size-full wp-image-111" /></p>
<p>「蟹工船」が今、ベストセラーになっている。</p>
<p>この<a href="http://www.the-onomichi.com/refer/%E4%BA%BA%E5%90%8D%E9%9B%86/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%A4%9A%E5%96%9C%E4%BA%8C/">小林多喜二</a>と尾道の関わりを、私の友人T氏の承認を得て下記する。</p>
<p>一つ、尾道の対岸の向島に住んでいた田辺耕一郎（出身　安芸高田市　高田）と多喜二の関係である。</p>
<p>多喜二が特別高等警察により、1933年2月20日に拷問により殺された。その遺体を取り囲む友人達の写真の右端の隣にいるのが田辺耕一郎である。</p>
<p>田辺は広島の中学校を中退して上京し、出版社に勤めながら詩や小説を書き、プロセタリア作家同盟に入って「工場細胞」を新潮社の文学時代に載せた。</p>
<p><span id="more-171"></span></p>
<p>その12日前には「林芙美子」の「恋文」という短編もでている。</p>
<p>殺される多喜二には、3年前投獄されているとき、田辺耕一郎は面会し差し入れをした。耕一郎のような勇気のある人は少なく、今でもそうだが刑務所への差し入れは特に大変なことであった。</p>
<p>多喜二は11月4日の手紙に、「僕は何時でも君を思うとき、巣鴨のあの中までズカズカ入ってくれた友情を考える。このことは僕を深く感動させる。」と書いてある。</p>
<p>又、遺体を解剖して死因を明確にする行動も、多喜二の事と田辺は行動を共にしている。</p>
<p>その数ヵ月後、耕一郎はナチスドイツの焚書に抗議する学芸自由同盟の書記を務めた。その名簿には、川端康成、林芙美子、平林たい子の名も連ねている。</p>
<h2>そして戦後になって。</h2>
<p>戦後、耕一郎は尾道の向島の兼吉に住み、文化活動に乗り出した。</p>
<p>1949年に川端康成が耕一郎に会うため尾道に訪れた後出稿された、「天授の子」という作品の中で、耕一郎が文中に、桑田という名で尾道と共に登場する。</p>
<p>もし小林多喜二が殺されずに生存していたら、戦後尾道を訪ずれ、彼の故郷、小樽と相似た港町を題材にした一遍の文学作品が出来上がったに違いないと想うものである。</p>
<p>次回は多喜二と尾道を題材にした、小説の神様、志賀直哉のことを報告したいと思う。</p>
<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=171&type=feed" alt=" 蟹工船と尾道と　（小林多喜二）"  title="蟹工船と尾道と　（小林多喜二）" />

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		</item>
		<item>
		<title>＜尾道にチベットのポタラ宮がある＞</title>
		<link>http://www.the-onomichi.com/history/?p=168</link>
		<comments>http://www.the-onomichi.com/history/?p=168#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Apr 2009 06:10:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[古代]]></category>
		<category><![CDATA[ポタラ]]></category>
		<category><![CDATA[観音菩薩]]></category>

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		<description><![CDATA[
ポタラの名は観音菩薩の拝むところ「ＰｏＴａｌａｋ」梵語


西提寺
今、チベットの首都「ラザ」にポタラカ＝ポタラ宮殿がある。
そこにお参りに行く日本人が多い。
観音様の浄土される山であり、日本にも熊野灘の那智山などにあ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<ul>
<li>ポタラの名は観音菩薩の拝むところ「ＰｏＴａｌａｋ」梵語</li>
</ul>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/09/photo-saidaiji.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/09/photo-saidaiji-300x200.jpg" alt="西提寺" title="西提寺" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-109" /></a></p>
<p class="wp-caption-text">西提寺</p>
<p>今、チベットの首都「ラザ」にポタラカ＝ポタラ宮殿がある。</p>
<p>そこにお参りに行く日本人が多い。</p>
<p>観音様の浄土される山であり、日本にも熊野灘の那智山などにある。</p>
<p>これが尾道にあるのだ！</p>
<p><span id="more-168"></span></p>
<h2>＜尾道に浦陀山がある＞</h2>
<p>浦陀落ともいう。</p>
<p>お寺に参詣するときは、それなりに礼儀がある。手水で手を洗い清めるとき、是非、そこのお寺の本堂の上に掛けてある「扁額」を見て欲しい。</p>
<p>その「扁額」によって、そこのお寺の寺格が判る。</p>
<p><a href="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/09/photo-uradayama.jpg" rel="facebox"><img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/wp-content/uploads/2008/09/photo-uradayama-300x200.jpg" alt="雇額" title="雇額" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-129" /></a>
<p class="wp-caption-text">顧額</p>
<blockquote><p>尾道には浄土寺、西国寺、千光寺が全て岩屋山に向けて建設されていて、これらのお寺は全て仏教が伝来する以前には、太陽が祭られていた「祭場」があった。</p>
</blockquote>
<p>とは尾道大学の稲田教授が研究成果を残しておられる。</p>
<p>この岩屋山のお寺というのが、西提寺である。この西提寺の「扁額」が浦陀山となっており、観音信仰が尾道を巡っていることが判る。このお寺には観音菩薩が2体、国の重要文化財になっている。浄土寺にも、千光寺も本尊は観音様である。</p>
<p>この尾道の南の岩屋山から「冬至」には太陽が昇る。それと同時に観音様が住まわれている神陀山ということになる。</p>
<p>さて、この観音様に囲まれ、四神が住み、守ってくださる青龍、白虎、朱雀、玄武の中心はどこか？これは、平城京、平安京にもある大極殿である。</p>
<p>この尾道の大極殿はどこか？と言うと稲田教授によれば「福善寺の中にある」と言われる。そこには古い五重の塔が二つある。地輪（方）、水輪（球）、火輪（三角）、風輪（半球）、空輪（全球）五つの塔姿であり、この世界を表している。</p>
<p>この前で祈めば天空は全て味方してくれる。</p>
<h2>尾道は不思議な街である。</h2>
<blockquote><p>平城京、平安京よりもっと古い都の雛形が尾道にあった。</p>
</blockquote>
<p>と稲田教授の論。</p>
<p>尾道を北に辿れば、出雲大社に辿り着く。古き尾道には太陽の暦が今も変わらぬ軌道を回っている。</p>
<p>最後に稲田教授に研究してもらいたいことがある。</p>
<p>それは月の軌道である。尾道には古い港があり、潮の満引が生活に密着している。この四山と月の軌道は何か神秘的なものがありはしないか。尾道の秘密を解き明かして欲しいと願うものである。</p>
<p>観音信仰の街、月光に輝く尾道に是非来て下さい。</p>
<p>福善寺の大極殿にお参りすると、観音菩薩に囲まれ、遥か海を隔てて浦陀山を見て、そこで祈り、その向こうの島には龍が天空に昇るという島、「百貫島」が見える。浄土寺の「扁額」もまた立派なものであります。</p>
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<img src="http://www.the-onomichi.com/wordpress/?ak_action=api_record_view&id=168&type=feed" alt=" ＜尾道にチベットのポタラ宮がある＞"  title="＜尾道にチベットのポタラ宮がある＞" />

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		<title>＜信長は尾道で殺された＞その2</title>
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		<pubDate>Fri, 24 Apr 2009 06:00:32 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[信長]]></category>

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		<description><![CDATA[明智光秀は帝の命により信長を殺したという証拠が最近数多く出て来ているが、西国寺で真言密教の高僧によって秘密の「調伏」が行われたのは事実である。
お寺にある古文書の解読によって徳島大学の先生が立証された。
又、この西国寺は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>明智光秀は帝の命により信長を殺したという証拠が最近数多く出て来ているが、西国寺で真言密教の高僧によって秘密の「調伏」が行われたのは事実である。</p>
<p>お寺にある古文書の解読によって徳島大学の先生が立証された。</p>
<p>又、この西国寺は醍醐寺派の準本山格であり、古くは1081年（永保二年）白河天皇の勅願寺となり、後白河天皇から1166年（仁和元年）、帝の菩提の修行の命が下ったお寺である。</p>
<p>京都の本山は天皇との関係が深く、現、門跡様は尾道の西国寺出身である。<span id="more-164"></span></p>
<p>秀吉に愛された「醍醐の花見」が行われた醍醐寺。徳川家康は秀吉の遺産は全て破壊したがこの醍醐寺には手をつけなかった。手がつけられなかったと思う。</p>
<p>明智光秀は”帝の命により信長を殺した”。という証であろう。</p>
<p>京都で大胆に「調伏」が行われていない。”尾道の西国寺で帝の命により信長を呪い殺した”。というのが真実だろう。</p>
<p>信長は人ではなく、悪霊の化身であり、仏法は人を生かし、悪霊から身を守るための秘法であるのであろうか。</p>
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