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	<title>礼拝説教と聖書メッセージ〜音声ポッドキャスト毎週更新</title>
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	<description>人生の意味や喜び、生きる目的は？聖書から答える！大野キリスト教会(神奈川県相模原市)の日曜日の礼拝で語られている聖書メッセージをお届けします。説教者は中澤信幸牧師です。</description>
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		<title>礼拝説教と聖書メッセージ〜音声ポッドキャスト毎週更新</title>
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		<title>不平は私に来て、感謝は神様へ行った――それでも、あなたは必要とされていた</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 11 Apr 2026 01:29:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[モーセの荒野]]></category>
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					<description><![CDATA[誰かの愚痴を引き受けて、陰で動いて、祈って。それなのに感謝の言葉は別の方向へ飛んでいく。そんな経験が、あなたにもあるのではないでしょうか。 聖書箇所 「モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。『逆らう者たちよ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>誰かの愚痴を引き受けて、陰で動いて、祈って。それなのに感謝の言葉は別の方向へ飛んでいく。そんな経験が、あなたにもあるのではないでしょうか。</p>
<p>聖書箇所</p>
<blockquote>
<p>「モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。『逆らう者たちよ、さあ聞け。この岩から我々があなたがたのために水を出さなければならないのか。』」（民数記20章10節）</p>
</blockquote>

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">40年分の苦労を、ひと言で否定された人</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">神様の言葉は、さらに理不尽だった</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">「私を通して」――その言葉が、静かに重さを変える</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">考えてみましょう</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">参考礼拝メッセージ</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">40年分の苦労を、ひと言で否定された人</span></h2>
<p>モーセという人物がいます。</p>
<p>彼は民を40年間、荒野で導き続けました。不平不満はいつもモーセに向かいました。水が欲しいと言ってはモーセに訴え、食べるものがないと言ってはモーセを責めた。なのに祈りと感謝は神様へ向かう。その非対称さが、ずっと続いていました。</p>
<p>そしてついに約束の地が目前に迫ったその時、また民が言いよってきたのです。「なんでこんなところに連れてきたのか。死んだ方がましだった。」</p>
<p>40年分の積み重ねを、ひと言でなかったことにされた。腹を立てない方がおかしいと思います。モーセは岩を杖で2度打った。すると水が湧き出た。民は飲んだ。でも誰もモーセに礼を言わなかった。</p>
<p>こんな理不尽なことが、あっていいのでしょうか。</p>
<h3><span id="toc2">神様の言葉は、さらに理不尽だった</span></h3>
<p>水が湧き出た後、今度は神様がモーセに語りかけます。「あなたは私が聖であることを民の前に示さなかった。だからあなたは約束の地に入ることができない。」</p>
<p>民に責められ、次は神様にも責められる。「一体誰のために、私はここまでやってきたのか」——そう叫びたくなる場面です。</p>
<p>でも神様の言葉の意味は、責める以上に深いものでした。</p>
<p>モーセが最初に民を救おうとした時のことを思い出してください。彼は自分の力で仲間を守ろうとして、退けられました。それから40年後、今度は神様がモーセを呼んだのです。「行け。私があなたを遣わす。」</p>
<p>モーセが民を導いたのではありませんでした。神様がモーセを通して導かれていた。その違いが、最後の最後に問われたのです。「私の力でやってきた」という思いが、知らないうちにモーセの中に育っていた。だからこそ、民の言葉が「自分への攻撃」に聞こえた。</p>
<h3><span id="toc3">「私を通して」――その言葉が、静かに重さを変える</span></h3>
<p>これは、モーセだけの話ではないと思います。</p>
<p>長い時間をかけて、誰かのために動いてきた。祈って、見守って、陰で支えてきた。それなのに伝わらない。感謝も届かない。「私がここまでしているのに」という言葉が、心の中で静かに重くなっていく。</p>
<p>そういう時、神様の問いはこんな形で来るのかもしれません。「あなたを通して、私が動いているのだよ。」</p>
<p>それは「あなたじゃなくていい」という意味ではありません。「あなただから、ここに置いた」という意味です。不平不満を引き受ける場所に、感謝が届かない場所に、それでもあなたがいる。そこに神様が動いている。</p>
<p>評価されなくても、報われなくても、あなたがその場所にいることには意味があります。誰かに伝わらなくても、神様はちゃんと見ている——そのことを、モーセの物語は静かに語りかけてきます。</p>
<h2><span id="toc4">考えてみましょう</span></h2>
<p>今のあなたの持ち場で、不平不満を引き受けながらも感謝はなかなか届かない、そんな場面があるとしたら——「私がやっている」と「私を通して神が動いている」は、あなたにとってどう違うでしょうか。</p>
<h2><span id="toc5">参考礼拝メッセージ</span></h2>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=MwLZP38jTgg">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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		<item>
		<title>これだけ歩いてきたのに、なぜ足元が崩れるのか</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 11 Apr 2026 01:29:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[バールペオル]]></category>
		<category><![CDATA[信仰の継続]]></category>
		<category><![CDATA[民数記]]></category>
		<category><![CDATA[見えない誘惑]]></category>
		<category><![CDATA[足元を確かめる]]></category>
		<category><![CDATA[軛を共にする]]></category>
		<category><![CDATA[静かな抵抗]]></category>
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					<description><![CDATA[祈って、見守って、地道に歩んできた。それは本当のことです。でも、ふとした瞬間に「あれ、私はちゃんとできているのだろうか」と不安になることはないでしょうか。 イスラエルはバールペオルと軛を共にした 近づけば近づくほど、新し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>祈って、見守って、地道に歩んできた。それは本当のことです。でも、ふとした瞬間に「あれ、私はちゃんとできているのだろうか」と不安になることはないでしょうか。</p>
<blockquote>
<p>イスラエルはバールペオルと軛を共にした</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc1">近づけば近づくほど、新しい困難が来る</span></h3>
<p>荒野の旅は、きつかった。でも荒野にいる間は、邪魔するものが少なかった。</p>
<p>イスラエルの民も同じでした。エジプトを出て、長い長い荒野を歩いてきた。水がない、食べ物がない。それでも神様と歩調を合わせながら、少しずつ前に進んできた。そしてようやく、約束の地が見えてきた。</p>
<p>そこで待っていたのは、喜びだけではありませんでした。</p>
<p>現地の人が立ちはだかり、新しい困難が次々と現れました。でもそれは見える困難でした。「あそこに敵がいる」「この道は通れない」。目に見えるものは、対処できます。神様の助けを求めて、一歩一歩越えていくことができる。</p>
<p>問題は、見えないところで起きていたことでした。</p>
<p>約束の地が近づいてきたとき、民は現地の娘たちと交わるようになります。一緒に食事をする。それ自体は、何もおかしくない。荒野で苦労してきた。美味しい食事を囲んで、楽しむことの何が悪いのか。</p>
<p>でも、その食卓はゆっくりと、次の場所への入り口になっていきました。食事の席から、現地の神々を拝む礼拝へ。少しずつ、気づかないうちに。</p>
<p>「これくらいなら大丈夫」と思っていた。自分だけは例外だと思っていた。でも振り返ってみると、いつの間にかそんなに遠くまで来てしまっていた。</p>
<p>聖書はこれを「バールペオルと軛を共にした」と言います。軛とは、二頭の家畜をつなぐ道具のことです。歩調を合わせ、一体となって進むための道具。民はいつの間にか、神様ではなく別のものと歩調を合わせるようになっていた。</p>
<p>それは壊疽のようなもの、と言えるかもしれません。最初の傷口はとても小さい。放っておいても大丈夫に見える。でも気づいたときには、思ってもみなかった場所まで広がっている。</p>
<h3><span id="toc2">「遠くの敵」より「近くの内側」</span></h3>
<p>私たちは遠くを見て心配します。子供のこと、孫のこと、将来のこと。「あそこが心配」「この問題が解決しない」。目に見えるものに向かって祈り、備えようとします。</p>
<p>でも民の歩みを実際に台無しにしたのは、遠くにいた強大な敵ではありませんでした。近くにあった、ごく小さな「これくらいなら」でした。</p>
<p>これは脅しではありません。むしろ逆です。</p>
<p>遠くの問題が解決しなくても、あなたがここに立って、今日も歩調を崩さずにいること。それ自体がすでに、意味のある抵抗です。信仰歴15年という時間は、あなたが何度も「これくらいなら」を踏みとどまってきた歴史でもある。目立たないけれど、確かなものです。</p>
<p>足元を見る、ということは、弱さを認めることではありません。自分が今、何と軛を共にしているかを静かに確かめること。それだけで十分です。</p>
<h3><span id="toc3">考えてみましょう</span></h3>
<p>今、自分が一番多くのエネルギーや心を注いでいるものは何でしょうか。それは自分を、どちらの方向へ連れて行っているでしょうか。</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=SBP2iLJCVRQ">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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		<item>
		<title>祈り続けているのに、何も変わらない。それでいいのだろうか</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/praying-through-doubt-finding-hope/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 11 Apr 2026 01:29:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[エレミア書]]></category>
		<category><![CDATA[問い続ける力]]></category>
		<category><![CDATA[壊れた水ため]]></category>
		<category><![CDATA[無力感と信仰]]></category>
		<category><![CDATA[祈りの継続]]></category>
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					<description><![CDATA[毎日、誰かのために心を砕いて、祈って、見守っている。 それなのに、状況は変わらない。 「私のやっていることに、意味はあるのだろうか」 そんな問いが、ふとよぎることはありませんか。 私はあなたの若かった頃の誠実、婚約時代の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>毎日、誰かのために心を砕いて、祈って、見守っている。<br />
それなのに、状況は変わらない。<br />
「私のやっていることに、意味はあるのだろうか」<br />
そんな問いが、ふとよぎることはありませんか。</p>
<blockquote>
<p>私はあなたの若かった頃の誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地での私への従順を覚えている。</p>
<p>わたしの民は二つの悪を行った。一つは湧き水の泉である私を捨てたこと。二つ目は多くの水ため、水をためることのできない壊れた水ためを自分たちのために掘ったこと。</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc1">誰も覚えていなくても、神は覚えている</span></h3>
<p>神様は記憶力が抜群です。<br />
それも、人間の「記憶」とはスケールが違います。</p>
<p>エレミアが生きた時代、神はイスラエルの民にこう言いました。<br />
「あなたたちの若かった頃の誠実を、私は覚えている」と。</p>
<p>「若かった頃」とは、千年以上も前のことです。<br />
エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、砂漠を歩き始めたあの日のこと。<br />
水も食べ物もない荒野で、それでも「あなたが神です」と言い続けた、あの頃のこと。</p>
<p>誰もそんな昔のことは覚えていません。<br />
歴史の教科書の中の話です。<br />
でも神は「覚えている」と言う。</p>
<p>これはただの励ましの言葉ではありません。<br />
神は、目に見えないところで積み重ねてきた歩みを、千年単位で覚え続ける方だということです。</p>
<p>誰かに気づかれなくても、表立って評価されなくても、それでも誠実に続けてきたこと。<br />
神はそれを、ひとつも見落とさずに覚えています。</p>
<h3><span id="toc2">「問い続けること」が、信仰の核心</span></h3>
<p>ところがエレミアの時代、民はある大切なことをやめてしまいました。<br />
神に「なぜですか」と問うことを、やめてしまったのです。</p>
<p>代わりに何をしたか。<br />
自分たちで解決しようと、あちこちに水ためを掘り始めました。</p>
<p>水のたまらない、壊れた水ため。<br />
でも彼らは掘り続けた。<br />
こっちにも、あっちにも。<br />
「もっと穴を掘れば、何とかなるかもしれない」と思って。</p>
<p>これは他人事ではありません。<br />
誰かのために「何かしなければ」と焦って、あれもこれもと手を出す。<br />
でも状況は変わらない。<br />
また別の手を探して、また動く。</p>
<p>それが悪いことだとは言いません。<br />
ただ、その忙しさの中で、神への問いが消えていないか。<br />
「神様、なぜこうなっているのですか。あなたはどこにおられますか」という言葉が、心から出なくなっていないか。</p>
<p>エレミア書が語るのは、こういうことです。<br />
困難の中で神に「なぜですか」と問い続けることは、ふさわしいことだ、と。<br />
答えが来なくても、問い続けることそのものに意味がある、と。</p>
<p>泉は、問いの先にあります。<br />
自分で掘った水ための中にはありません。</p>
<p>毎日、心の中で誰かのことを神の前に持ち出して、「なぜですか」「どこにおられますか」とつぶやいている。<br />
それは、信仰が足りないのではありません。<br />
それこそが、信仰の核心に触れている姿です。</p>
<h3><span id="toc3">考えてみましょう</span></h3>
<p>「問い続けること」と「自分で何とかしようとすること」の間で、今の自分はどちらに引っ張られているでしょうか。</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=c85P3PYdQZw">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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		<itunes:summary><![CDATA[毎日、誰かのために心を砕いて、祈って、見守っている。<br />
それなのに、状況は変わらない。<br />
「私のやっていることに、意味はあるのだろうか」<br />
そんな問いが、ふとよぎることはありませんか。<br />
<br />
私はあなたの若かった頃の誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地での私への従順を覚えている。<br />
わたしの民は二つの悪を行った。一つは湧き水の泉である私を捨てたこと。二つ目は多くの水ため、水をためることのできない壊れた水ためを自分たちのために掘ったこと。<br />
<br />
誰も覚えていなくても、神は覚えている<br />
神様は記憶力が抜群です。<br />
それも、人間の「記憶」とはスケールが違います。<br />
エレミアが生きた時代、神はイスラエルの民にこう言いました。<br />
「あなたたちの若かった頃の誠実を、私は覚えている」と。<br />
「若かった頃」とは、千年以上も前のことです。<br />
エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、砂漠を歩き始めたあの日のこと。<br />
水も食べ物もない荒野で、それでも「あなたが神です」と言い続けた、あの頃のこと。<br />
誰もそんな昔のことは覚えていません。<br />
歴史の教科書の中の話です。<br />
でも神は「覚えている」と言う。<br />
これはただの励ましの言葉ではありません。<br />
神は、目に見えないところで積み重ねてきた歩みを、千年単位で覚え続ける方だということです。<br />
誰かに気づかれなくても、表立って評価されなくても、それでも誠実に続けてきたこと。<br />
神はそれを、ひとつも見落とさずに覚えています。<br />
「問い続けること」が、信仰の核心<br />
ところがエレミアの時代、民はある大切なことをやめてしまいました。<br />
神に「なぜですか」と問うことを、やめてしまったのです。<br />
代わりに何をしたか。<br />
自分たちで解決しようと、あちこちに水ためを掘り始めました。<br />
水のたまらない、壊れた水ため。<br />
でも彼らは掘り続けた。<br />
こっちにも、あっちにも。<br />
「もっと穴を掘れば、何とかなるかもしれない」と思って。<br />
これは他人事ではありません。<br />
誰かのために「何かしなければ」と焦って、あれもこれもと手を出す。<br />
でも状況は変わらない。<br />
また別の手を探して、また動く。<br />
それが悪いことだとは言いません。<br />
ただ、その忙しさの中で、神への問いが消えていないか。<br />
「神様、なぜこうなっているのですか。あなたはどこにおられますか」という言葉が、心から出なくなっていないか。<br />
エレミア書が語るのは、こういうことです。<br />
困難の中で神に「なぜですか」と問い続けることは、ふさわしいことだ、と。<br />
答えが来なくても、問い続けることそのものに意味がある、と。<br />
泉は、問いの先にあります。<br />
自分で掘った水ための中にはありません。<br />
毎日、心の中で誰かのことを神の前に持ち出して、「なぜですか」「どこにおられますか」とつぶやいている。<br />
それは、信仰が足りないのではありません。<br />
それこそが、信仰の核心に触れている姿です。<br />
考えてみましょう<br />
「問い続けること」と「自分で何とかしようとすること」の間で、今の自分はどちらに引っ張られているでしょうか。<br />
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<br />
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=c85P3PYdQZw">動画はこちら</a><br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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	</item>
		<item>
		<title>「ただこのマナを見るだけだ」と言いたくなる日に</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 22 Mar 2026 01:29:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[あるものへの気づき]]></category>
		<category><![CDATA[マナ]]></category>
		<category><![CDATA[不満と郷愁]]></category>
		<category><![CDATA[民数記11章]]></category>
		<category><![CDATA[縁の下の力持ち]]></category>
		<category><![CDATA[繰り返しの日常]]></category>
		<category><![CDATA[荒野の旅]]></category>
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					<description><![CDATA[毎日同じように働いて、同じように祈って、同じように気にかけている。それでも何かが変わる気配はない。そんな繰り返しの中で、「以前はもっとうまくいっていた気がする」と感じたことはありませんか。 聖書の言葉をひとつ、読んでみて [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>毎日同じように働いて、同じように祈って、同じように気にかけている。それでも何かが変わる気配はない。そんな繰り返しの中で、「以前はもっとうまくいっていた気がする」と感じたことはありませんか。</p>
<p>聖書の言葉をひとつ、読んでみてください。</p>
<blockquote><p>「今や私たちの喉はカラカラだ。全く何もなく、ただこのマナを見るだけだ」</p></blockquote>
<h3><span id="toc1">「今が不満」だから、過去が輝いて見える</span></h3>
<p>エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野の旅を続けていました。</p>
<p>雲の柱と火の柱に導かれて、少しずつ約束の地に近づいている。それは確かなことでした。でも、毎日が同じ景色の繰り返しです。変化がない。刺激がない。ゴールの実感もない。</p>
<p>そうして民の心に浮かんできたのは、エジプトへの郷愁でした。</p>
<p>「あの頃はよかった。魚も食べられた。キュウリも、スイカも、ニンニクもあった。今は何もない。このマナだけだ」</p>
<p>でも少し立ち止まって考えてみてください。エジプトでの彼らは、奴隷でした。自由がなかった。自分たちが必死に働いた成果は、すべて異国の主人のものになっていきました。それが「あの頃」の現実でした。</p>
<p>なのに今、彼らはそのことを思い出しません。</p>
<p>「今が不満だから」、過去の良かったことだけが浮かび上がってくる。これが脳の性質です。今がしんどければしんどいほど、記憶はそっと「あの頃は違った」というストーリーを作り出します。</p>
<h3><span id="toc2">今ここにあるものが、見えなくなっていた</span></h3>
<p>民が「ただこのマナを見るだけだ」と言った時、聖書はすぐ後でそのマナについて丁寧に説明しています。</p>
<p>コエンドロの種のような形で、油で揚げたお菓子のような味がした、と。荒野で毎日安定して与えられる穀物質の食べ物。それは、命をつなぐものでした。砂漠の中で、それが毎朝降ってきていた。</p>
<p>でも民には、もうそれが見えていませんでした。「あって当たり前」になっていたからです。</p>
<p>ないものは鮮やかに見える。あるものは透明になっていく。これは民だけの話ではないと思います。</p>
<p>毎日誰かのために動いている。職場でも、家庭でも、教会でも、祈りの中でも。それが積み重なると、いつの間にか「これが普通」になっていきます。自分でもそれが見えなくなる。</p>
<p>でも、あなたがそこにいることで、誰かの何かが今日もちゃんと動いている。それはマナと同じで、なくなってみてはじめて気づかれるものかもしれません。</p>
<p>「あの時は違った」という思いが来る時、それは「今が不満だ」というサインです。それ自体は正直な感覚です。でもその時にほんの少しだけ、「では今ここに何があるか」と目を向けてみることが、見方を変えるきっかけになるかもしれません。</p>
<p>今日あなたのそばにあるものが、実は誰かには見えていないほど大切なものかもしれない。そう思うと、この一日の景色が少し変わってくることがあります。</p>

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-10" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-10">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><ol><li><a href="#toc1" tabindex="0">「今が不満」だから、過去が輝いて見える</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">今ここにあるものが、見えなくなっていた</a></li></ol></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">考えてみましょう</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">参考礼拝メッセージ</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc3">考えてみましょう</span></h2>
<p>今日の「ただこれだけ」と感じているものが、もし突然なくなったとしたら、自分は何を失うことになるだろうか。</p>
<h2><span id="toc4">参考礼拝メッセージ</span></h2>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=FkB2kR6Oa0E" data-wplink-edit="true">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>神があなたを選んだ時から、行き先は決まっている</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 15 Mar 2026 01:29:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[カレブ]]></category>
		<category><![CDATA[偵察隊]]></category>
		<category><![CDATA[導きへの信頼]]></category>
		<category><![CDATA[抱え込み]]></category>
		<category><![CDATA[民数記]]></category>
		<category><![CDATA[約束の地]]></category>
		<category><![CDATA[見守る信仰]]></category>
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					<description><![CDATA[毎日、誰かのことを心に抱えて生きている。 孫のこと、子供のこと、職場のこと。 「自分が何とかしなければ」と思いながら、でも何もできない自分がいる。 それでもここに立ち続けることに、意味はあるのだろうか。 聖書の言葉をひと [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>毎日、誰かのことを心に抱えて生きている。<br />
孫のこと、子供のこと、職場のこと。<br />
「自分が何とかしなければ」と思いながら、でも何もできない自分がいる。<br />
それでもここに立ち続けることに、意味はあるのだろうか。</p>
<p>聖書の言葉をひとつ、一緒に読んでみましょう。</p>
<blockquote>
<p>「もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちはあの地に導き入れられてそれを私たちにくださる。あの地は乳と蜜の流れる地だ。主が私たちと共におられるのだ。彼らを恐れてはならない。」</p>
</blockquote>

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-12" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-12">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">「できるか、できないか」が問題ではなかった</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">カレブが見たのは、同じ現実だった</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">「行き先は決まっている」という静けさ</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">考えてみましょう</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">「できるか、できないか」が問題ではなかった</span></h2>
<p>神があなたに与えようとしているものは、あなたの力次第では変わらない。</p>
<p>民数記には、こんな場面があります。イスラエルの民が約束の地に入ろうとする直前、神は12人の偵察隊を送り込みました。「私が与えようとしている地を、見てきなさい」という目的でした。</p>
<p>40日間、彼らはその土地を端から端まで歩き回りました。帰ってきた彼らが持っていたのは、担いで運ぶほど大きなぶどうの房。荒野を何年も旅してきた民が、その実りを見て息をのんだことは想像に難くありません。</p>
<p>でも彼らの報告はこうでした。「素晴らしい土地だった。ただ、住んでいる民は強大だ。私たちはバッタのように見えただろう。あそこには行けない」。</p>
<p>自分たちがバッタのように見えた、という言葉が刺さります。努力して、見てきて、現実を直視したのに、出てきた答えが「できない」。その感覚は、遠い昔の話ではないような気がします。</p>
<h3><span id="toc2">カレブが見たのは、同じ現実だった</span></h3>
<p>12人の中でただ一人、違う声を上げたのがカレブという人物でした。</p>
<p>彼も同じ40日間を歩きました。同じぶどうを持ってきました。同じ民を見ました。でも彼は言いました。「登っていってそこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」。</p>
<p>見ているものは同じです。体格差も、相手の強さも、知っていた。でも彼の言葉の根っこには、一つの確信がありました。</p>
<p>「神様はこの民を特別なものとして導いておられる。ならば、行き先は最初から決まっている」。</p>
<p>そういうことです。神が民をエジプトから連れ出したのは、約束の地に入れるためでした。その目的は、民の力がどれほどかによって変わるものではなかった。偵察の目的は「勝てるかどうかを判断するため」ではなく、「神が何を用意しているかを見るため」だった。カレブはそこを分かっていたのです。</p>
<h3><span id="toc3">「行き先は決まっている」という静けさ</span></h3>
<p>あなたが今、抱えているものは本物です。心配も、疲れも、「なぜ自分ばかり」という思いも。軽いものではない。</p>
<p>ただ、一つだけ聞いてみたいことがあります。</p>
<p>あなたがここにいるのは、あなたの力で踏みとどまってきたからだけでしょうか。</p>
<p>信仰の道に入ったあの日から、ここまで歩いてこられたのは、何かに支えられてきたからではないか。孫のことで泣いた夜も、職場でへとへとになった夕方も、それでも朝が来て、また立っていた。</p>
<p>神があなたを導き始めた時から、行き先は決まっています。あなたの判断がそれを変えることはない。あなたの力不足がそれをなくすこともない。</p>
<p>できるかできないかを、あなたが一人で決める必要はないのです。雲が動いた方向についていく——それだけでいい、とカレブは静かに言っています。</p>
<h2><span id="toc4">考えてみましょう</span></h2>
<p>今、自分が「何とかしなければ」と引き受けていることの中に、本当は自分が決めなくていいことが混じっていないだろうか。</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=SBP2iLJCVRQ">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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		<title>荒野は、神様の間違いじゃなかった</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 15 Feb 2026 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[待ち続ける祈り]]></category>
		<category><![CDATA[民数記]]></category>
		<category><![CDATA[留まることの従い]]></category>
		<category><![CDATA[神の導き]]></category>
		<category><![CDATA[荒野の信仰]]></category>
		<category><![CDATA[見えない意味]]></category>
		<category><![CDATA[雲の柱]]></category>
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					<description><![CDATA[どれだけ動いても、祈っても、状況が変わらない日々がある。「なぜ私の周りはいつもこうなんだろう」と、ふと思ってしまう瞬間が。そんな気持ち、あなただけじゃないかもしれません。 聖書箇所：民数記9章15〜23節 彼らは主の命に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>どれだけ動いても、祈っても、状況が変わらない日々がある。「なぜ私の周りはいつもこうなんだろう」と、ふと思ってしまう瞬間が。そんな気持ち、あなただけじゃないかもしれません。</p>
<p>聖書箇所：民数記9章15〜23節</p>
<blockquote>
<p>彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により主への勤めを守った。</p>
</blockquote>

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-14" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-14">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">海を渡った先が、荒野だった</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">「宿営を続けること」も、主への従い</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">夜も消えなかった、あの光</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">考えてみましょう</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">海を渡った先が、荒野だった</span></h2>
<p>イスラエルの民は、エジプトで奴隷として生きていました。神様に叫び続けた末、ようやく海が割れて向こう岸に渡れた。やっと自由になれた。これから豊かな約束の地へ——そう思ったはずです。</p>
<p>でも海の向こう側は、荒野でした。</p>
<p>日差しが強く、雨も降らず、食べ物も水も十分にない。老いた人も、小さな子どもも、その荒れた地をひたすら歩いていかなければならない。「神様、これは間違いじゃないですか」と言いたくなるのは、当然のことだったと思います。</p>
<p>ところが民数記を読んでいくと、この荒野は「仕方なく通る迂回路」ではなかったことがわかります。神様は荒野に入る前に、民一人ひとりを数え、部族ごとに配置を決め、幕屋に仕える者たちには細かく役割を割り当てていました。「とりあえずこれで乗り切って」という間に合わせではない。荒野の中でこそ生きるための、ちゃんとしたデザインでした。</p>
<p>荒野は通るべくして通る道。神様の手違いでも、迂回路でもなかったのです。</p>
<h3><span id="toc2">「宿営を続けること」も、主への従い</span></h3>
<p>さらに興味深いのは、民の動き方です。</p>
<p>彼らは自分の判断では動きませんでした。幕屋の上に雲の柱が立っている間は、宿営し続ける。雲が動けば、旅立つ。それだけでした。</p>
<p>一日でも、一ヶ月でも、一年でも——雲がとどまっている限り、彼らはその場に留まり続けました。</p>
<p>それは「何もしていない」ではありませんでした。主の命により宿営することが、すでに従いだったのです。動けない時間の中にも、意味があった。待ち続けることの中に、神への応答があった。</p>
<h3><span id="toc3">夜も消えなかった、あの光</span></h3>
<p>昼は雲の柱として、夜は火の柱として——民はその光を見失いませんでした。誰がどこにいても、幕屋の上の光はそこにあり続けた。</p>
<p>うまくいかない日が続いても、答えが見えなくても、あなたが今いる場所が「通るべくして通る道」だとしたら。その場所を、神様は見失っていない。</p>
<p>「守られている」という感覚が、理由もなく静かに強まる時があるとしたら、それはたぶん根拠のない気のせいではないと思います。</p>
<h2><span id="toc4">考えてみましょう</span></h2>
<p>今、自分の人生の中で「ここは荒野だ」と感じている場所があるとしたら——それが迂回路ではなく、通るべくして通る道だとしたら、あなたの受け止め方は少し変わるでしょうか。</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。</p>
<p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=FznShyEy-MU">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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			</item>
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		<title>整えられながら、進んでいる</title>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 08 Feb 2026 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[テサロニケ人への手紙]]></category>
		<category><![CDATA[初穂の信仰]]></category>
		<category><![CDATA[山道と導き]]></category>
		<category><![CDATA[御霊による聖別]]></category>
		<category><![CDATA[祈りながら見守る]]></category>
		<category><![CDATA[縁の下の力持ち]]></category>
		<category><![CDATA[見えない土台]]></category>
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					<description><![CDATA[縁の下で働き続けて、祈り続けて、見守り続けて。それでも「これでいいのだろうか」という気持ちが、ふとした瞬間に顔を出すことはありませんか。 聖書にこんな言葉があります。 「主に愛されている兄弟たち、私たちはあなた方のことに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>縁の下で働き続けて、祈り続けて、見守り続けて。それでも「これでいいのだろうか」という気持ちが、ふとした瞬間に顔を出すことはありませんか。</p>
<p>聖書にこんな言葉があります。</p>
<blockquote>
<p>「主に愛されている兄弟たち、私たちはあなた方のことについて神に感謝しなければなりません。神が御霊による聖別と真理に対する信仰によって、あなた方を初穂として救いに選ばれたからです。」</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc1">「何もしていない」のに感謝する、という不思議</span></h3>
<p>パウロはテサロニケの教会の人たちのことを、遠く離れた場所から思い浮かべていました。迫害を受けて、自分はその町を去らなければならなかった。会いに行くこともままならない。何かしてあげることもできていない。</p>
<p>それなのにパウロは言うのです。「感謝しなければならない」と。</p>
<p>その感覚、なんとなくわかる気がしませんか。</p>
<p>親戚のおじさん・おばさんとして、久しぶりに子どもや孫の顔を見る。特別なことは何もしていない。ただ遠くから気にかけていただけ。なのに「ああ、立派になっていった」と胸がいっぱいになる、あの感じです。</p>
<p>パウロにとってテサロニケの人たちはそれでした。自分が手をかけたわけではない。でも確かに育っていった。それを「初穂」と呼びました。</p>
<p>初穂というのは、誰かが土を耕して、種を植えて、水をやり、雑草を抜いて、見守り続けた末にようやく実る、最初の実りのことです。自然に勝手に生えてくるものではありません。誰かが関わり続けた結果です。</p>
<p>祈りながら見守ることも、そういうことかもしれません。「何もできていない」ように思えても、その祈りと気遣いは確かに土になっている。実りが見えなくても、土台は存在しているのです。</p>
<h3><span id="toc2">カーナビが山道を通らせるとき</span></h3>
<p>パウロはこの旅を、もう一つの言葉で説明します。「御霊による聖別」と「真理に対する信仰」。</p>
<p>難しく聞こえますが、イメージはこうです。</p>
<p>長い旅に出るとき、車はちゃんと整備されている必要があります。ブレーキが効くか、エンジンはかかるか。走りながら警告灯が点いたら、立ち止まって手入れをする。御霊の働きというのはそれに似ています。生きていく中で私たちの歩みを整え、ズレを修正し、また前へ向かわせてくれる。</p>
<p>そしてカーナビ。目的地を信頼して、その言う通りについていく。ときに「こんな細い山道を？」と思うような道を示されることがあります。海に行こうとしているのに、なぜか山の中を走らされるような感覚。「なぜこんな道なんだろう」と思いながらも、ついていったら確かに着いた、という経験。</p>
<p>「なぜこんなことが続くのか」という問いに、簡単な答えは出せません。でも、目的地がある旅であるなら、山道も旅の一部です。外れているのではなく、そこへ向かうルートの一部である可能性があります。</p>
<p>それを根拠のない楽観で信じるのではなく、これまで歩いてきた道を振り返りながら、静かに信頼していく。そういうことなのかもしれません。</p>
<p>あなたがこれまで祈ってきたこと、見守ってきたこと、縁の下で支えてきたこと。それは無駄ではありませんでした。整えられながら、確かに進んできたのです。今日も、その続きの上に立っています。</p>
<p><strong>考えてみましょう</strong></p>
<p>「何もできていない」と感じながらも、誰かのそばにいて、祈って、気にかけてきたことが、あなたにはあるはずです。それは今日、その人にとってどんな土台になっているでしょうか。</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=MwLZP38jTgg">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>苦難の中でこそ、愛は深まる</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/love-grows-through-suffering-faith/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 01 Feb 2026 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[テサロニケ人への手紙]]></category>
		<category><![CDATA[寄り所になる存在]]></category>
		<category><![CDATA[忍耐]]></category>
		<category><![CDATA[愛の成長]]></category>
		<category><![CDATA[縁の下の力持ち]]></category>
		<category><![CDATA[苦難と信仰]]></category>
		<category><![CDATA[見えない奉仕]]></category>
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					<description><![CDATA[祈って、動いて、気を配って。それでも何も変わらないように見える日がある。「私は何かできているのだろうか」と、ふと手が止まる瞬間がある。あなたの今のその場所は、本当は何を意味しているのだろう？ 聖書箇所：テサロニケ人への手 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>祈って、動いて、気を配って。それでも何も変わらないように見える日がある。「私は何かできているのだろうか」と、ふと手が止まる瞬間がある。あなたの今のその場所は、本当は何を意味しているのだろう？</p>
<p>聖書箇所：テサロニケ人への手紙第二 1章3節〜5節</p>
<blockquote>
<p>あなた方の信仰が大いに成長し、あなた方全ての間で1人1人の互いに対する愛が増し加わっているからです。……あなた方はあらゆる迫害と苦難に耐えながら忍耐と信仰を保っています。それはあなた方を神の国にふさわしいものと認める神の正しい裁きがあることの証拠です。</p>
</blockquote>

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-18" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-18">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">「大変な中にいる」は、弱さの証拠じゃない</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">豊かな中でではなく、苦難の中でこそ</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">「寄り所」になっている人は、それに気づきにくい</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">考えてみましょう</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">「大変な中にいる」は、弱さの証拠じゃない</span></h2>
<p>愛には成長のレベルがある、と思うと少し面白くなります。</p>
<p>いちばん最初のレベルは「自分がしてあげたいことをする」。好きな人に、したいことをする。純粋で温かい出発点です。でもそこから少しずつ変わっていく。「相手が本当に必要としていることは何か」を考えるようになる。自分の感情とは関係なく「この人に良いものをもたらしたい」と思えるようになる。そしてやがて、「何かをする」より先に、「あの人がいてくれるだけで大丈夫」と思われる存在になっていく。</p>
<p>パウロはテサロニケの教会の人たちを見て、「あなた方の愛が増し加わっている」と言いました。でも、それは穏やかで問題のない環境の中での話ではありませんでした。</p>
<p>「あらゆる迫害と苦難に耐えながら」。この言葉が鍵です。</p>
<h3><span id="toc2">豊かな中でではなく、苦難の中でこそ</span></h3>
<p>余裕があるから優しくできる。満たされているから分け与えられる。そう思いがちです。でもパウロが感動していたのは、そういう話ではありませんでした。</p>
<p>「私だって今日のパンがないんです」「あなたもないんですか？」「じゃあどうしましょう」。そんな状況の中で、それでもお互いのために動いている人たちの姿に、パウロは感謝していたのです。</p>
<p>苦難の中にいるからこそ、相手の大変さが分かる。自分も追い詰められているからこそ、本当に必要なことが見えてくる。愛は、平和な場所で育つより、むしろ苦しい場所でこそ深まっていく。</p>
<p>これはきれいごとではありません。パウロは「これが神の正しい裁きの証拠だ」とまで言っています。あなたが今、苦難の中にいるのは、信仰が足りないからではない。むしろその只中で、愛が鍛えられているのだと。</p>
<h3><span id="toc3">「寄り所」になっている人は、それに気づきにくい</span></h3>
<p>誰かのために動き続けている人は、たいてい「自分は何もできていない」と感じています。</p>
<p>もっと直接助けてあげられたら。もっとうまく声をかけられたら。もっと踏み込めたら。そういう「できなかったこと」が積み重なって、疲れていく。</p>
<p>でも、愛のいちばん深いところにあるのは「何をするか」ではなく「どんな存在か」です。「あの人がいてくれるから、私は立ち上がれる」と誰かが思えるような、そういう存在になっていくこと。それは、見えないところで静かに起きていることです。</p>
<p>あなたが今日も誰かの「寄り所」になっているとしたら、それは表立って評価されるものではないかもしれない。でもそれは、愛の成長の、いちばん深いところにある姿です。苦難の中でこそ、それは本物になる。</p>
<h2><span id="toc4">考えてみましょう</span></h2>
<p>「自分は何もできていない」と感じるとき、その裏側に「あなたがいてくれるから」と思っている誰かの顔が、ひとつでも浮かぶとしたら？</p>
<p>このメッセージの全編はこちらからどうぞ。<a href="https://www.youtube.com/watch?v=JMJbcxFDMu8">動画はこちら<span class="fa fa-external-link external-icon anchor-icon"></span></a></p>
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			</item>
		<item>
		<title>礼拝メッセージ「愛はあるのか？」レビ記19章17‐18節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message250216/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/message250216/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 16 Feb 2025 06:53:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[レビ記]]></category>
		<category><![CDATA[愛のルール]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://nobu.bokushi.jp/?p=17738</guid>

					<description><![CDATA[目次 レビ記における愛のルール神の秩序ある歩み愛の挑戦愛とは何か愛を可能にする二つの意識1. 隣人になるという意識2. 愛は次の人にまで届くという意識神の責任のもとでの愛まとめ レビ記における愛のルール レビ記は一見する [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-20" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-20">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">レビ記における愛のルール</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">神の秩序ある歩み</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">愛の挑戦</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">愛とは何か</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">愛を可能にする二つの意識</a><ol><li><a href="#toc6" tabindex="0">1. 隣人になるという意識</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">2. 愛は次の人にまで届くという意識</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">神の責任のもとでの愛</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">まとめ</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc1">レビ記における愛のルール</span></h2>



<p>レビ記は一見すると細かい規定の集まりに見えますが、実はそこには「愛のルール」が貫かれています。どのように生贄を捧げるか、何が清いか清くないかといった規定は、単なる法律ではなく、神の愛がその根底にあるのです。</p>






<p><strong>神が聖であるから、私たちも聖でなければならない</strong>—これがレビ記の中心的なメッセージです。清いとは、神の側にあることを意味します。一本の線を引いて、神の側にあるものを「清い」、そうでないものを「汚れている」と呼びます。私たちは神の側に招き入れられ、清いものとして歩むようになったのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc2">神の秩序ある歩み</span></h2>



<p>レビ記19章には、神の側にある秩序ある歩みについての教えが記されています。畑の隅々まで刈り取らず、落ち穂を拾わないでおくこと、嘘をつかないこと、耳の聞こえない人を悪く言わないこと、目の見えない人の前につまずくものを置かないことなど、共同体の中で互いを大切にする教えが並んでいます。</p>



<p>そして今日の箇所では、「心の中で自分の兄弟を憎んではならない」「同胞をよく戒めなければならない」「復讐してはならない」「恨みを抱いてはならない」という教えが記されています。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc3">愛の挑戦</span></h2>



<p>これらの教えを聞くと、私たちはすぐに「でも…」と言いたくなります。「いい兄弟ならともかく、自分だけいい顔をして嫌なものは全部私に押し付ける兄弟もいるじゃないか」「何度戒めても聞く耳を持たない人もいる」「復讐したくて仕方がない状況に追い込んだのは相手ではないか」と。</p>



<p>しかし、これらすべての「でも…」に対する答えが、レビ記19章18節にあります：「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc4">愛とは何か</span></h2>



<p>愛とは何でしょうか。愛とは、神の側にあるものが、神の側にないものを招き入れることです。線の向こう側にあるものを「知りません、関係ありません」と言うのは簡単ですが、愛はその線の向こう側にあるものを招き入れようとするのです。</p>



<p>神様はイスラエルの民をエジプトから導き出されました。神の側にないものを、ご自身の側に招き入れられたのです。民が自分たちで「私たちは正しくなりました、あなたのものです」と言って入ってきたのではなく、神様がふさわしくないものをご自身の側に招き入れてくださったのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc5">愛を可能にする二つの意識</span></h2>



<p>では、どうすれば私たちはこのような愛を実践できるでしょうか。「そんなことできない」と思う私たちに、二つの重要な意識を持つことで愛することが可能になります。</p>



<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc6">1. 隣人になるという意識</span></h3>



<p>イエス様は「良きサマリア人」の例え話を通して、「誰が隣人になったか」と問いかけました。注目すべきは、イエス様が「誰があなたの隣人か」ではなく、「誰が隣人になったか」と問うたことです。</p>



<p><strong>隣人になるとは、隣に寄り添って立つこと、この人を何よりも大切にすること、この人を理解し、励まし、支え、守ることです。</strong> 単に愛するか愛さないかという行動の選択ではなく、隣人になるという意思が求められているのです。</p>



<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc7">2. 愛は次の人にまで届くという意識</span></h3>



<p>神様が望まれる愛の形を最もよく示したのがイエス・キリストです。イエスは弟子たちの足を洗い、「私が主であり師であるのに、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。</p>



<p>これは単に「私はあなたを愛している」ということ以上の意味があります。<strong>神の愛は、神から私へ、そして私から次の人へと流れていくものなのです。</strong> 私が誰かを許すとき、その人が次に誰かを許すような関わりをするのです。</p>



<p>例えば親が子を育てるとき、その子が将来どのように他者と関わるかを視野に入れながら育てます。私の行動が、目の前の人だけでなく、その先の人にも届いていくのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc8">神の責任のもとでの愛</span></h2>



<p>「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」という言葉の最後に「私は主である」とあるのは重要です。神様は「私が全てのことに責任を持つ、このことを定めた私はこのことの全部を手の中で動かす、あなたの歩みを司る」と言っておられるのです。</p>



<p>私たちが「できない、したくない」と思うとき、「私が主である」と言われる神様が全ての責任を持ってくださるのです。だから私たちは「神様、私にはできませんが、あなたが主であるというなら、導かれるままに、あなたに委ねながらやっていきます」と応答することができるのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc9">まとめ</span></h2>



<p><strong>神様の大きな愛のルールの中で、私たちは隣人となり、その愛が次の人にまで届くように生きるよう招かれています。</strong> それは私たちの力だけではできないことですが、「私は主である」と言われる神様の責任と導きの中で可能となるのです。</p>


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				<itunes:subtitle>目次 レビ記における愛のルール神の秩序ある歩み愛の挑戦愛とは何か愛を可能にする二つの意識1. 隣人になるという意識2. 愛は次の人にまで届くという意識神の責任のもとでの愛まとめ レビ記における愛のルール レビ記は一見する […]</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[<br />
<br />
  目次<br />
    <br />
    * <a href="#toc1" tabindex="0">レビ記における愛のルール</a>* <a href="#toc2" tabindex="0">神の秩序ある歩み</a>* <a href="#toc3" tabindex="0">愛の挑戦</a>* <a href="#toc4" tabindex="0">愛とは何か</a>* <a href="#toc5" tabindex="0">愛を可能にする二つの意識</a>* <a href="#toc6" tabindex="0">1. 隣人になるという意識</a>* <a href="#toc7" tabindex="0">2. 愛は次の人にまで届くという意識</a>* <a href="#toc8" tabindex="0">神の責任のもとでの愛</a>* <a href="#toc9" tabindex="0">まとめ</a><br />
    <br />
  <br />
<br />
レビ記における愛のルール<br />
<br />
<br />
<br />
レビ記は一見すると細かい規定の集まりに見えますが、実はそこには「愛のルール」が貫かれています。どのように生贄を捧げるか、何が清いか清くないかといった規定は、単なる法律ではなく、神の愛がその根底にあるのです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
神が聖であるから、私たちも聖でなければならない—これがレビ記の中心的なメッセージです。清いとは、神の側にあることを意味します。一本の線を引いて、神の側にあるものを「清い」、そうでないものを「汚れている」と呼びます。私たちは神の側に招き入れられ、清いものとして歩むようになったのです。<br />
<br />
<br />
<br />
神の秩序ある歩み<br />
<br />
<br />
<br />
レビ記19章には、神の側にある秩序ある歩みについての教えが記されています。畑の隅々まで刈り取らず、落ち穂を拾わないでおくこと、嘘をつかないこと、耳の聞こえない人を悪く言わないこと、目の見えない人の前につまずくものを置かないことなど、共同体の中で互いを大切にする教えが並んでいます。<br />
<br />
<br />
<br />
そして今日の箇所では、「心の中で自分の兄弟を憎んではならない」「同胞をよく戒めなければならない」「復讐してはならない」「恨みを抱いてはならない」という教えが記されています。<br />
<br />
<br />
<br />
愛の挑戦<br />
<br />
<br />
<br />
これらの教えを聞くと、私たちはすぐに「でも…」と言いたくなります。「いい兄弟ならともかく、自分だけいい顔をして嫌なものは全部私に押し付ける兄弟もいるじゃないか」「何度戒めても聞く耳を持たない人もいる」「復讐したくて仕方がない状況に追い込んだのは相手ではないか」と。<br />
<br />
<br />
<br />
しかし、これらすべての「でも…」に対する答えが、レビ記19章18節にあります：「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」<br />
<br />
<br />
<br />
愛とは何か<br />
<br />
<br />
<br />
愛とは何でしょうか。愛とは、神の側にあるものが、神の側にないものを招き入れることです。線の向こう側にあるものを「知りません、関係ありません」と言うのは簡単ですが、愛はその線の向こう側にあるものを招き入れようとするのです。<br />
<br />
<br />
<br />
神様はイスラエルの民をエジプトから導き出されました。神の側にないものを、ご自身の側に招き入れられたのです。民が自分たちで「私たちは正しくなりました、あなたのものです」と言って入ってきたのではなく、神様がふさわしくないものをご自身の側に招き入れてくださったのです。<br />
<br />
<br />
<br />
愛を可能にする二つの意識<br />
<br />
<br />
<br />
では、どうすれば私たちはこのような愛を実践できるでしょうか。「そんなことできない」と思う私たちに、二つの重要な意識を持つことで愛することが可能になります。<br />
<br />
<br />
<br />
1. 隣人になるという意識<br />
<br />
<br />
<br />
イエス様は「良きサマリア人」の例え話を通して、「誰が隣人になったか」と問いかけました。注目すべきは、イエス様が「誰があなたの隣人か」ではなく、「誰が隣人になったか」と問うたことです。<br />
<br />
<br />
<br />
隣人になるとは、隣に寄り添って立つこと、この人を何よりも大切にすること、この人を理解し、励まし、支え、守ることです。 単に愛するか愛さないかという行動の選択ではなく、隣人になるという意思が求められているのです。<br />
<br />
<br />
<br />
2. 愛は次の人にまで届くという意識<br />
<br />
<br />
<br />
神様が望まれる愛の形を最もよく示したのがイエス・キリストです。イエスは弟子たちの足を洗い、「私が主であり師であるのに、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。<br />
<br />
<br />
<br />
これは単に「私はあなたを愛している」ということ以上の意味があります。神の愛は、神から私へ、そして私から次の人へと流れていくものなのです。 私が誰かを許すとき、その人が次に誰かを許すような関わりをするのです。<br />
<br />
<br />
<br />
例えば親が子を育てるとき、その子が将来どのように他者と関わるかを視野に入れながら育てます。私の行動が、目の前の人だけでなく、その先の人にも届いていくのです。<br />
<br />
<br />
<br />
神の責任のもとでの愛<br />
<br />
<br />
<br />
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」という言葉の最後に「私は主である」とあるのは重要です。神様は「私が全てのことに責任を持つ、このことを定めた私はこのことの全部を手の中で動かす、あなたの歩みを司る」と言っておられるのです。<br />
<br />
<br />
<br />
私たちが「できない、したくない」と思うとき、「私が主である」と言われる神様が全ての責任を持ってくださるのです。だから私たちは「神様、私にはできませんが、あなたが主であるというなら、導かれるままに、あなたに委ねながらやっていきます」と応答することができるのです。<br />
<br />
<br />
<br />
まとめ<br />
<br />
<br />
<br />
神様の大きな愛のルールの中で、私たちは隣人となり、その愛が次の人にまで届くように生きるよう招かれています。 それは私たちの力だけではできないことですが、「私は主である」と言われる神様の責任と導きの中で可能となるのです。<br />
<br />
<br />
<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
		<itunes:episodeType>full</itunes:episodeType>
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	</item>
		<item>
		<title>礼拝メッセージ「贖いの日」レビ記16章29-34節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message250209/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/message250209/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 09 Feb 2025 06:39:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[レビ記]]></category>
		<category><![CDATA[愛のルール]]></category>
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					<description><![CDATA[目次 レビ記における愛のルール贖いの日の意味神の内側での贖い贖いの儀式イエス・キリストによる完全な贖い レビ記における愛のルール レビ記は神様が私たちを愛してくださり、その愛が貫かれていくためのルールと理解することができ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-24" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-24">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">レビ記における愛のルール</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">贖いの日の意味</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">神の内側での贖い</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">贖いの儀式</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">イエス・キリストによる完全な贖い</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc1">レビ記における愛のルール</span></h2>



<p>レビ記は神様が私たちを愛してくださり、その愛が貫かれていくためのルールと理解することができます。前回は「清さ」について学び、神の側に置かれることが「清い」ということであり、神様が私たちを清い側に置くために労されたことを見ました。今回は、この愛のルールの中で特別な位置を占める「贖いの日」について考えていきます。</p>






<p><strong>贖いの日は、1年に1度、罪が贖われる特別な日であり、ヘブル語で「ヨム・キプール」と呼ばれます。</strong> この日は、イスラエルの民にとって代々親から子へ、子から孫へと語り継がれ、守られるべき永遠の掟となっています。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc2">贖いの日の意味</span></h2>



<p>レビ記16章29-34節によれば、第7の月の10日に定められたこの日には、すべての人が自らを戒め、いかなる仕事もしてはならないとされています。なぜなら、この日は「あなた方を清めようと、あなた方のために贖いが行われる」からです。</p>



<p>贖いとは何でしょうか。それは、何かが大きく揺れ動いている状態を沈め、治めることです。罪に関する贖いについて、まず2つの誤解を解いておく必要があります：</p>



<ol>
<li>「神は人の罪に怒っておられる」という誤解<br></li>



<li>「贖いの生贄が神の怒りを贖う」という誤解<br></li>
</ol>



<p><strong>実際には、神は一つ一つの罪を犯した人に怒っているのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。</strong> 神様は世界を良いものとして創造され、それを見て満足されました。しかし、人が神の言いつけに背くことで罪が入り、人間関係が傷つけ合うものになっていく姿を見て、神様は心を痛められました。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc3">神の内側での贖い</span></h2>



<p>神は罪の現実を見て、「もうこんなものはない方がいい」と全てを消し去ろうとされましたが、心を入れ替えて人を生かすことを選ばれました。神は罪の現実から人を救い、ご自分の清い側に招き入れるために、ご自身の力を注がれています。</p>



<p><strong>神は罪そのものを憎むかもしれませんが、罪人を憎むのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。</strong> そして、その罪ある現実から人を救い、良いものへと導こうとされています。</p>



<p>この「もう滅ぼしてしまおうか」という思いから「いや、救い導こう」という思いへの距離を縮めるのが「贖い」なのです。神様ご自身の内側で、痛ましい罪の現実を前に、怒って滅ぼすのではなく、確かな身業の中に良きものを回復しようと心を贖めて移っていくのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc4">贖いの儀式</span></h2>



<p>贖いの日の儀式は、神様が私たちのためにしてくださっていることを私たちが理解し、それにふさわしく歩むためのものです。儀式の中心となるのは2頭のヤギです：</p>



<ol>
<li>一頭目のヤギは神の前に捧げられ、その血が贖いの蓋に塗られます。これは「私たちの命は全てあなたのものです」という礼拝の表現です。<br></li>



<li>二頭目のヤギ（アザゼルのヤギ）は、祭司が手を置いて民の罪を告白し、その罪を背負わせて荒野に放ちます。これは「私たちの罪はもう私たちのうちにとどまらない」ことを象徴しています。<br></li>
</ol>



<p><strong>この儀式を通じて、私たちは神の前に「私の全てはあなたのものです」と捧げ、「私にはふさわしくないものがあります」と告白し、「あなたがそれを清め、取り去ってくださる」ことを確認するのです。</strong></p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc5">イエス・キリストによる完全な贖い</span></h2>



<p>レビ記に記された贖いの日の儀式は、年に一度の特別な出来事でした。しかし、神の救いの計画はそこで終わりませんでした。イエス・キリストは私たちのために神の前に贖いの備えとなられました。</p>



<p><strong>イエス・キリストにおいて、私たちは神のものとされ、私たちのふさわしくないもの全てを知りながらも、それを取り除いて許し、私たちを清め整え導いてくださるのです。</strong> そして、イエス・キリストは今や私たちの心のうちに住み、私たちと共に歩んでくださいます。</p>



<p>これは年に一度の馴染みのない儀式ではなく、毎日の生活に密着した形で体験できる救いです。私たちはイエス・キリストにあって、日々神のものとされ、ふさわしくないものをふさわしいものへと作り替えられていくのです。</p>



<p>神が私たちの罪に心を痛められ、ご自身の元に迎え入れ、導いてくださるという素晴らしい愛に招かれている喜び—それは平たく言えば「愛されている喜びを知る」ということなのです。イエス・キリストによってこの喜びを知り、その中に私たちの歩みが置かれているのです。</p>


<p><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/NMBkpclmLgY?si=GogOnc4sZRECyoLH" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
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				<itunes:subtitle>目次 レビ記における愛のルール贖いの日の意味神の内側での贖い贖いの儀式イエス・キリストによる完全な贖い レビ記における愛のルール レビ記は神様が私たちを愛してくださり、その愛が貫かれていくためのルールと理解することができ […]</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[<br />
<br />
  目次<br />
    <br />
    * <a href="#toc1" tabindex="0">レビ記における愛のルール</a>* <a href="#toc2" tabindex="0">贖いの日の意味</a>* <a href="#toc3" tabindex="0">神の内側での贖い</a>* <a href="#toc4" tabindex="0">贖いの儀式</a>* <a href="#toc5" tabindex="0">イエス・キリストによる完全な贖い</a><br />
    <br />
  <br />
<br />
レビ記における愛のルール<br />
<br />
<br />
<br />
レビ記は神様が私たちを愛してくださり、その愛が貫かれていくためのルールと理解することができます。前回は「清さ」について学び、神の側に置かれることが「清い」ということであり、神様が私たちを清い側に置くために労されたことを見ました。今回は、この愛のルールの中で特別な位置を占める「贖いの日」について考えていきます。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
贖いの日は、1年に1度、罪が贖われる特別な日であり、ヘブル語で「ヨム・キプール」と呼ばれます。 この日は、イスラエルの民にとって代々親から子へ、子から孫へと語り継がれ、守られるべき永遠の掟となっています。<br />
<br />
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<br />
贖いの日の意味<br />
<br />
<br />
<br />
レビ記16章29-34節によれば、第7の月の10日に定められたこの日には、すべての人が自らを戒め、いかなる仕事もしてはならないとされています。なぜなら、この日は「あなた方を清めようと、あなた方のために贖いが行われる」からです。<br />
<br />
<br />
<br />
贖いとは何でしょうか。それは、何かが大きく揺れ動いている状態を沈め、治めることです。罪に関する贖いについて、まず2つの誤解を解いておく必要があります：<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
* 「神は人の罪に怒っておられる」という誤解<br />
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<br />
* 「贖いの生贄が神の怒りを贖う」という誤解<br />
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<br />
<br />
<br />
実際には、神は一つ一つの罪を犯した人に怒っているのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。 神様は世界を良いものとして創造され、それを見て満足されました。しかし、人が神の言いつけに背くことで罪が入り、人間関係が傷つけ合うものになっていく姿を見て、神様は心を痛められました。<br />
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<br />
神の内側での贖い<br />
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<br />
神は罪の現実を見て、「もうこんなものはない方がいい」と全てを消し去ろうとされましたが、心を入れ替えて人を生かすことを選ばれました。神は罪の現実から人を救い、ご自分の清い側に招き入れるために、ご自身の力を注がれています。<br />
<br />
<br />
<br />
神は罪そのものを憎むかもしれませんが、罪人を憎むのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。 そして、その罪ある現実から人を救い、良いものへと導こうとされています。<br />
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<br />
<br />
この「もう滅ぼしてしまおうか」という思いから「いや、救い導こう」という思いへの距離を縮めるのが「贖い」なのです。神様ご自身の内側で、痛ましい罪の現実を前に、怒って滅ぼすのではなく、確かな身業の中に良きものを回復しようと心を贖めて移っていくのです。<br />
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<br />
贖いの儀式<br />
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<br />
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贖いの日の儀式は、神様が私たちのためにしてくださっていることを私たちが理解し、それにふさわしく歩むためのものです。儀式の中心となるのは2頭のヤギです：<br />
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* 一頭目のヤギは神の前に捧げられ、その血が贖いの蓋に塗られます。これは「私たちの命は全てあなたのものです」という礼拝の表現です。<br />
<br />
<br />
<br />
* 二頭目のヤギ（アザゼルのヤギ）は、祭司が手を置いて民の罪を告白し、その罪を背負わせて荒野に放ちます。これは「私たちの罪はもう私たちのうちにとどまらない」ことを象徴しています。<br />
<br />
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<br />
この儀式を通じて、私たちは神の前に「私の全てはあなたのものです」と捧げ、「私にはふさわしくないものがあります」と告白し、「あなたがそれを清め、取り去ってくださる」ことを確認するのです。<br />
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<br />
イエス・キリストによる完全な贖い<br />
<br />
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<br />
レビ記に記された贖いの日の儀式は、年に一度の特別な出来事でした。しかし、神の救いの計画はそこで終わりませんでした。イエス・キリストは私たちのために神の前に贖いの備えとなられました。<br />
<br />
<br />
<br />
イエス・キリストにおいて、私たちは神のものとされ、私たちのふさわしくないもの全てを知りながらも、それを取り除いて許し、私たちを清め整え導いてくださるのです。 そして、イエス・キリストは今や私たちの心のうちに住み、私たちと共に歩んでくださいます。<br />
<br />
<br />
<br />
これは年に一度の馴染みのない儀式ではなく、毎日の生活に密着した形で体験できる救いです。私たちはイエス・キリストにあって、日々神のものとされ、ふさわしくないものをふさわしいものへと作り替えられていくのです。<br />
<br />
<br />
<br />
神が私たちの罪に心を痛められ、ご自身の元に迎え入れ、導いてくださるという素晴らしい愛に招かれている喜び—それは平たく言えば「愛されている喜びを知る」ということなのです。イエス・キリストによってこの喜びを知り、その中に私たちの歩みが置かれているのです。<br />
<br />
<br />
<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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	</item>
		<item>
		<title>礼拝メッセージ「聖なる者として」レビ記11章44-47節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message250202/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/message250202/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 02 Feb 2025 06:36:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[レビ記]]></category>
		<category><![CDATA[愛のルール]]></category>
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					<description><![CDATA[目次 愛のルールとしてのレビ記清さとは区別すること神の聖さに倣う生き方愛の贈り物としての聖さ聖なる歩みの課題まとめ 愛のルールとしてのレビ記 レビ記は一見すると面白くない書物に思えるかもしれません。「何が清い、何が清くな [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img loading="lazy" decoding="async" width="680" height="383" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-680x383.png" alt="" class="wp-image-17730" srcset="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-680x383.png 680w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-500x281.png 500w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-768x432.png 768w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-120x68.png 120w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-160x90.png 160w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5-320x180.png 320w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/5.png 1280w" sizes="(max-width: 680px) 100vw, 680px" /></figure>




  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-28" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-28">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">愛のルールとしてのレビ記</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">清さとは区別すること</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">神の聖さに倣う生き方</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">愛の贈り物としての聖さ</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">聖なる歩みの課題</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">まとめ</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc1">愛のルールとしてのレビ記</span></h2>



<p>レビ記は一見すると面白くない書物に思えるかもしれません。「何が清い、何が清くないか」という細かい規定が延々と続き、多くの読者が途中で挫折してしまう箇所です。しかし、レビ記は実は「愛のルール」なのです。神様と私たちの間の特別な関係を規定する書物であり、神の民がどのように聖なる生活を送るべきかを教えています。</p>



<p>レビ記の前半（1-10章）では、どんな時に、何を、どうやって、誰が生贄を捧げるのかという規定が書かれています。そして11-15章では「清さとは何か」が詳しく説明されています。<strong>これらの規定はすべて「清さ」という概念に基づいており、神の民が神との関係の中でどう生きるべきかを示しています。</strong></p>






<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc2">清さとは区別すること</span></h2>



<p>レビ記における清さの概念を理解するためには、「区別する」という行為が重要です。清さとは、神の側にあるものとそうでないものを区別することから始まります。象徴的に言えば、一本の線を引き、神の側にあるものを「清い」もの、そうでないものを「汚れている」ものとして区別するのです。</p>



<p>例えば食べ物について言えば、「ひづめの分かれているもの」「反芻するもの」は清いとされます。これには衛生上の理由もあるかもしれませんが、本質的には「神の側にあるものを選ぶ」という象徴的な意味があります。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc3">神の聖さに倣う生き方</span></h2>



<p>レビ記11章45節には重要な言葉があります：「私はあなたがたの神となるためにあなた方をエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなた方は聖なるものとならなければならない。私が聖だからである。」</p>



<p><strong>神様は聖なる方であり、私たちも聖なる者となるように求められています。</strong> 神様は良いものと悪いものを見分け、良いもののために約束をし、それを実行される方です。エジプトから民を救い出し、海を分け、荒野でマナを与え、岩から水を湧き出させた神様は、常に民の幸いのために行動されました。</p>



<p>一方で、エジプトの力、厳しい天候、金の子牛などは民を導くことができませんでした。神様だけが真に民を導くことができたのです。そして神様は私たちにも、同じように「何が良いのか、正しいのか」を見極めながら、神様のために生きることを求めておられます。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc4">愛の贈り物としての聖さ</span></h2>



<p>この関係は、大切な人にプレゼントを送ることに似ています。プレゼントを贈る時、私たちは相手が何を喜ぶかを考え、それを約束し、そして実行します。時には障害があっても、相手を思う気持ちから犠牲を惜しまず行動するのです。</p>



<p>神様も同じように、私たちのために最善を尽くしてくださいました。<strong>神様と私たちの関係は、互いに心を尽くして贈り物を送り合うような特別な関係です。</strong> 神様が私たちのために心を尽くして用意してくださる恵み、そこに生かされる私たちが神様のために心を尽くして捧げていく歩み—この相思相愛の特別な関係に私たちは招かれているのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc5">聖なる歩みの課題</span></h2>



<p>神様と心を通わせて歩む時、私たちはさまざまな困難に直面します。正しいことを見分けることの難しさ、神様のために何かを約束することへの躊躇、そして実行する際の誘惑や罪の問題など、多くの障害があります。</p>



<p>しかし、神様の御言葉を聞く中で、私たちは一歩前進することができます。神様の励ましや促しを受け取りながら、この「愛のルール」に招かれて共に歩んでいくのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc6">まとめ</span></h2>



<p><strong>レビ記は単なる規則の書ではなく、神様と私たちの間の愛の関係を示す書物です。神様の聖さに倣い、神様の側にある者として生きることが、私たちへの招きなのです。</strong></p>


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<p></p>
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				<itunes:subtitle>目次 愛のルールとしてのレビ記清さとは区別すること神の聖さに倣う生き方愛の贈り物としての聖さ聖なる歩みの課題まとめ 愛のルールとしてのレビ記 レビ記は一見すると面白くない書物に思えるかもしれません。「何が清い、何が清くな […]</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[<br />
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  目次<br />
    <br />
    * <a href="#toc1" tabindex="0">愛のルールとしてのレビ記</a>* <a href="#toc2" tabindex="0">清さとは区別すること</a>* <a href="#toc3" tabindex="0">神の聖さに倣う生き方</a>* <a href="#toc4" tabindex="0">愛の贈り物としての聖さ</a>* <a href="#toc5" tabindex="0">聖なる歩みの課題</a>* <a href="#toc6" tabindex="0">まとめ</a><br />
    <br />
  <br />
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愛のルールとしてのレビ記<br />
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レビ記は一見すると面白くない書物に思えるかもしれません。「何が清い、何が清くないか」という細かい規定が延々と続き、多くの読者が途中で挫折してしまう箇所です。しかし、レビ記は実は「愛のルール」なのです。神様と私たちの間の特別な関係を規定する書物であり、神の民がどのように聖なる生活を送るべきかを教えています。<br />
<br />
<br />
<br />
レビ記の前半（1-10章）では、どんな時に、何を、どうやって、誰が生贄を捧げるのかという規定が書かれています。そして11-15章では「清さとは何か」が詳しく説明されています。これらの規定はすべて「清さ」という概念に基づいており、神の民が神との関係の中でどう生きるべきかを示しています。<br />
<br />
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清さとは区別すること<br />
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<br />
レビ記における清さの概念を理解するためには、「区別する」という行為が重要です。清さとは、神の側にあるものとそうでないものを区別することから始まります。象徴的に言えば、一本の線を引き、神の側にあるものを「清い」もの、そうでないものを「汚れている」ものとして区別するのです。<br />
<br />
<br />
<br />
例えば食べ物について言えば、「ひづめの分かれているもの」「反芻するもの」は清いとされます。これには衛生上の理由もあるかもしれませんが、本質的には「神の側にあるものを選ぶ」という象徴的な意味があります。<br />
<br />
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<br />
神の聖さに倣う生き方<br />
<br />
<br />
<br />
レビ記11章45節には重要な言葉があります：「私はあなたがたの神となるためにあなた方をエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなた方は聖なるものとならなければならない。私が聖だからである。」<br />
<br />
<br />
<br />
神様は聖なる方であり、私たちも聖なる者となるように求められています。 神様は良いものと悪いものを見分け、良いもののために約束をし、それを実行される方です。エジプトから民を救い出し、海を分け、荒野でマナを与え、岩から水を湧き出させた神様は、常に民の幸いのために行動されました。<br />
<br />
<br />
<br />
一方で、エジプトの力、厳しい天候、金の子牛などは民を導くことができませんでした。神様だけが真に民を導くことができたのです。そして神様は私たちにも、同じように「何が良いのか、正しいのか」を見極めながら、神様のために生きることを求めておられます。<br />
<br />
<br />
<br />
愛の贈り物としての聖さ<br />
<br />
<br />
<br />
この関係は、大切な人にプレゼントを送ることに似ています。プレゼントを贈る時、私たちは相手が何を喜ぶかを考え、それを約束し、そして実行します。時には障害があっても、相手を思う気持ちから犠牲を惜しまず行動するのです。<br />
<br />
<br />
<br />
神様も同じように、私たちのために最善を尽くしてくださいました。神様と私たちの関係は、互いに心を尽くして贈り物を送り合うような特別な関係です。 神様が私たちのために心を尽くして用意してくださる恵み、そこに生かされる私たちが神様のために心を尽くして捧げていく歩み—この相思相愛の特別な関係に私たちは招かれているのです。<br />
<br />
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聖なる歩みの課題<br />
<br />
<br />
<br />
神様と心を通わせて歩む時、私たちはさまざまな困難に直面します。正しいことを見分けることの難しさ、神様のために何かを約束することへの躊躇、そして実行する際の誘惑や罪の問題など、多くの障害があります。<br />
<br />
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<br />
しかし、神様の御言葉を聞く中で、私たちは一歩前進することができます。神様の励ましや促しを受け取りながら、この「愛のルール」に招かれて共に歩んでいくのです。<br />
<br />
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<br />
まとめ<br />
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<br />
レビ記は単なる規則の書ではなく、神様と私たちの間の愛の関係を示す書物です。神様の聖さに倣い、神様の側にある者として生きることが、私たちへの招きなのです。<br />
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<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
		<itunes:episodeType>full</itunes:episodeType>
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	</item>
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		<title>メッセージシリーズ「愛のルール」レビ記より</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/levi/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/levi/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 01 Feb 2025 07:02:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[レビ記]]></category>
		<category><![CDATA[愛のルール]]></category>
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					<description><![CDATA[レビ記は聖書の中でも最も読み進めるのが難しい書物の一つかもしれません。細かい儀式の規定、清い・清くないものの区別、複雑な生贄の捧げ方など、現代の私たちの生活からはかけ離れた内容が延々と続きます。多くの方が創世記、出エジプ [&#8230;]]]></description>
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<p>レビ記は聖書の中でも最も読み進めるのが難しい書物の一つかもしれません。細かい儀式の規定、清い・清くないものの区別、複雑な生贄の捧げ方など、現代の私たちの生活からはかけ離れた内容が延々と続きます。多くの方が創世記、出エジプト記と読み進めてきて、レビ記で挫折してしまうのも無理はありません。</p>



<p>しかし、この一見取っつきにくいレビ記の奥深くには、実は神の愛の真髄が隠されているのです。「愛のルール」シリーズでは、レビ記に記された様々な規定が単なる律法ではなく、神様と私たちの間の特別な愛の関係を表していることを探求します。神様が「私は聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と言われるとき、それは私たちに重荷を負わせるためではなく、神様ご自身の側に私たちを招き入れるという愛の表現なのです。</p>



<p>このシリーズを通して、レビ記の中に隠された神の愛の深さと、それに応答する私たちの生き方について共に考えていきましょう。</p>



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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-32" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-32">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">1. 聖なる者として</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">2. 贖いの日</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">3. 愛はあるのか？</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc1">1. 聖なる者として</span></h2>



<p>神様はなぜ私たちに「聖なる者となれ」と言われるのでしょうか？それは単に「規則を守れ」という命令なのでしょうか？このメッセージでは、「聖さ」とは何かを根本から考え直します。実は、神様と私たちの関係は、特別な贈り物を送り合うような相思相愛の関係に例えられるのです。神様がエジプトから民を救い出し、荒野で養われたように、神様は常に私たちの幸いのために行動されます。そして私たちも、神様の側にあって、神様が喜ばれることを選び、約束し、実行していくよう招かれているのです。あなたは神様との間にこのような特別な関係を築きたいと思いませんか？</p>



<figure class="wp-block-image alignleft size-large is-resized"><img loading="lazy" decoding="async" width="680" height="383" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-680x383.png" alt="" class="wp-image-17733" style="width:250px" srcset="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-680x383.png 680w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-500x281.png 500w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-768x432.png 768w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-120x68.png 120w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-160x90.png 160w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6-320x180.png 320w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/6.png 1280w" sizes="(max-width: 680px) 100vw, 680px" /></figure>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc2">2. 贖いの日</span></h2>



<p>私たちは皆、自分の罪や過ちに苦しむことがあります。「神様は私の罪に怒っておられるのではないか」「どうすれば神様の怒りを鎮められるのか」と悩むこともあるでしょう。しかし、レビ記に記された「贖いの日」の儀式は、私たちが考えているのとは全く異なる神様の姿を示しています。神様は一つ一つの罪に怒っているのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。そして、イエス・キリストにおいて、神様は完全な贖いを備えてくださいました。このメッセージを通して、神様の愛に基づく贖いの真の意味と、それが私たちの日常生活にどのように関わるのかを発見してください。</p>



<figure class="wp-block-image alignleft size-large is-resized"><img loading="lazy" decoding="async" width="680" height="383" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-680x383.png" alt="" class="wp-image-17734" style="width:250px" srcset="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-680x383.png 680w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-500x281.png 500w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-768x432.png 768w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-120x68.png 120w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-160x90.png 160w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7-320x180.png 320w, http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2025/03/7.png 1280w" sizes="(max-width: 680px) 100vw, 680px" /></figure>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc3">3. 愛はあるのか？</span></h2>



<p>「隣人を自分自身のように愛しなさい」—この言葉を聞くとき、私たちはすぐに「でも…」と言いたくなります。「あの人を愛するなんて無理だ」「そんなことをしたら自分が損をする」と。しかし、イエス様は「良きサマリア人」の例え話を通して、愛するとは何かについて根本的な転換を迫られます。愛とは単に感情や行動の問題ではなく、「隣人になる」という生き方の問題なのです。さらに、私たちの愛は目の前の人だけでなく、その先の人にまで届いていくという壮大な視点も示されます。このメッセージでは、神様の大きな愛のルールの中で、私たちがどのように隣人となり、愛を実践していけるのかを考えます。あなたの人間関係に新たな視点をもたらす内容です。</p>
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		<title>礼拝メッセージ「失うのではなく」ルカの福音書9章7-9節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/250126message/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 Jan 2025 00:10:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[ルカの福音書]]></category>
		<category><![CDATA[使命]]></category>
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					<description><![CDATA[1月最後の日曜日に、この礼拝を共に迎えられることに感謝します。今日のテーマは、バプテスマのヨハネの生涯と最期を通して、私たちが与えられた使命にどのように取り組むかについて考えることです。 目次 バプテスマのヨハネの最期バ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>1月最後の日曜日に、この礼拝を共に迎えられることに感謝します。今日のテーマは、バプテスマのヨハネの生涯と最期を通して、私たちが与えられた使命にどのように取り組むかについて考えることです。</p>







  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-34" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-34">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">バプテスマのヨハネの最期</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">バプテスマのヨハネが成し遂げたこと</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">私たちが使命に取り組むこと</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">まとめ</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc1">バプテスマのヨハネの最期</span></h2>



<p>バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの到来を告げ、人々に悔い改めを呼びかける使命を託されていました。しかし、その使命を果たす中で、ヨハネはヘロデ王の非道を指摘し、その結果、牢獄に閉じ込められることになりました。</p>



<p>ヨハネの最期は、ヘロデ王の娘が宴会の場で踊りを披露し、その報酬として母親の指示でヨハネの首を求めたことで、処刑されてしまうという悲劇的なものでした。一見、理不尽で意味のない最期に思えるかもしれませんが、この出来事には深い意味があります。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc2">バプテスマのヨハネが成し遂げたこと</span></h2>



<p>ヨハネの生涯は、イエス・キリストの到来を指し示すためのものでした。彼は「私の後に来る方は、私よりも偉大である」と語り続け、人々を救い主に向かわせるために、自らの命を捧げました。</p>



<p>たとえ彼が命を奪われたとしても、彼の言葉や行動はヘロデ王の心に影響を与えました。ヘロデはヨハネを殺害した後も、イエスに対して興味を抱き、「イエスに会いたい」と願いました。ヨハネの使命は、人々の心に救い主への関心を植え付けることに成功したのです。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc3">私たちが使命に取り組むこと</span></h2>



<p>私たちの人生においても、使命は神から託されています。それは、私たち自身の成功や実績を築くことではなく、他者に良い影響を与えることです。ヨハネが「自分は衰え、イエスが盛んにならなければならない」と語ったように、私たちも自分自身を主張するのではなく、他者を支え、周囲の人々を祝福する生き方を選んでいきましょう。</p>



<p>さらに、私たちが直接関わる人だけでなく、その人を通して影響を受ける次の世代や他者にも目を向けることが大切です。例えば、親が子供を育てる時、その子供が友人や将来の家族に与える影響を考えるように、私たちの行動がさらに広い範囲に及ぶことを意識していきましょう。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc4">まとめ</span></h2>



<p>バプテスマのヨハネの生涯は、私たちが使命に取り組むための模範です。自分自身の利益や成功だけでなく、他者の人生にどのような影響を与えるかを考えながら生きることで、私たちの使命は実現されます。</p>



<p>さあ、この1週間、神が私たちに与えられた使命を見つめ直し、日々の中でそれに取り組んでいきましょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>1月最後の日曜日に、この礼拝を共に迎えられることに感謝します。今日のテーマは、バプテスマのヨハネの生涯と最期を通して、私たちが与えられた使命にどのように取り組むかについて考えることです。 目次 バプテスマのヨハネの最期バ […]</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[<br />
1月最後の日曜日に、この礼拝を共に迎えられることに感謝します。今日のテーマは、バプテスマのヨハネの生涯と最期を通して、私たちが与えられた使命にどのように取り組むかについて考えることです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
  目次<br />
    <br />
    * <a href="#toc1" tabindex="0">バプテスマのヨハネの最期</a>* <a href="#toc2" tabindex="0">バプテスマのヨハネが成し遂げたこと</a>* <a href="#toc3" tabindex="0">私たちが使命に取り組むこと</a>* <a href="#toc4" tabindex="0">まとめ</a><br />
    <br />
  <br />
<br />
バプテスマのヨハネの最期<br />
<br />
<br />
<br />
バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの到来を告げ、人々に悔い改めを呼びかける使命を託されていました。しかし、その使命を果たす中で、ヨハネはヘロデ王の非道を指摘し、その結果、牢獄に閉じ込められることになりました。<br />
<br />
<br />
<br />
ヨハネの最期は、ヘロデ王の娘が宴会の場で踊りを披露し、その報酬として母親の指示でヨハネの首を求めたことで、処刑されてしまうという悲劇的なものでした。一見、理不尽で意味のない最期に思えるかもしれませんが、この出来事には深い意味があります。<br />
<br />
<br />
<br />
バプテスマのヨハネが成し遂げたこと<br />
<br />
<br />
<br />
ヨハネの生涯は、イエス・キリストの到来を指し示すためのものでした。彼は「私の後に来る方は、私よりも偉大である」と語り続け、人々を救い主に向かわせるために、自らの命を捧げました。<br />
<br />
<br />
<br />
たとえ彼が命を奪われたとしても、彼の言葉や行動はヘロデ王の心に影響を与えました。ヘロデはヨハネを殺害した後も、イエスに対して興味を抱き、「イエスに会いたい」と願いました。ヨハネの使命は、人々の心に救い主への関心を植え付けることに成功したのです。<br />
<br />
<br />
<br />
私たちが使命に取り組むこと<br />
<br />
<br />
<br />
私たちの人生においても、使命は神から託されています。それは、私たち自身の成功や実績を築くことではなく、他者に良い影響を与えることです。ヨハネが「自分は衰え、イエスが盛んにならなければならない」と語ったように、私たちも自分自身を主張するのではなく、他者を支え、周囲の人々を祝福する生き方を選んでいきましょう。<br />
<br />
<br />
<br />
さらに、私たちが直接関わる人だけでなく、その人を通して影響を受ける次の世代や他者にも目を向けることが大切です。例えば、親が子供を育てる時、その子供が友人や将来の家族に与える影響を考えるように、私たちの行動がさらに広い範囲に及ぶことを意識していきましょう。<br />
<br />
<br />
<br />
まとめ<br />
<br />
<br />
<br />
バプテスマのヨハネの生涯は、私たちが使命に取り組むための模範です。自分自身の利益や成功だけでなく、他者の人生にどのような影響を与えるかを考えながら生きることで、私たちの使命は実現されます。<br />
<br />
<br />
<br />
さあ、この1週間、神が私たちに与えられた使命を見つめ直し、日々の中でそれに取り組んでいきましょう。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
		<itunes:episodeType>full</itunes:episodeType>
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		<item>
		<title>礼拝メッセージ「幸せの実現」コリント人への手紙第一12章4-7節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message230716/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/message230716/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 16 Jul 2023 06:20:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[コリント人への手紙]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せの実現 聖書箇所 コリント人への手紙第一12章4-7節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>幸せの実現</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>コリント人への手紙第一12章4-7節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17655"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せの実現 聖書箇所 コリント人への手紙第一12章4-7節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
幸せの実現<br />
聖書箇所 コリント人への手紙第一12章4-7節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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	</item>
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		<title>礼拝メッセージ「幸せのゴール」コリント人への手紙第一9章19-23節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message230709/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 09 Jul 2023 06:18:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[コリント人への手紙]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せのゴール 聖書箇所 コリント人への手紙第一9章19-23節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>幸せのゴール</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>コリント人への手紙第一9章19-23節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17653"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せのゴール 聖書箇所 コリント人への手紙第一9章19-23節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
幸せのゴール<br />
聖書箇所 コリント人への手紙第一9章19-23節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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	</item>
		<item>
		<title>礼拝メッセージ「幸せのモデル」コリント人への手紙第一4章14-16節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message230625/</link>
					<comments>http://nobu.bokushi.jp/message230625/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 25 Jun 2023 04:53:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[コリント人への手紙]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せのモデル 聖書箇所 コリント人への手紙第一4章14-16節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>幸せのモデル</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>コリント人への手紙第一4章14-16節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17648"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せのモデル 聖書箇所 コリント人への手紙第一4章14-16節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
幸せのモデル<br />
聖書箇所 コリント人への手紙第一4章14-16節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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		<item>
		<title>礼拝メッセージ「幸せとは」コリント人への手紙第一1章26-31節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message230618/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 18 Jun 2023 04:49:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[コリント人への手紙]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せとは 聖書箇所 コリント人への手紙第一1章26-31節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>幸せとは</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>コリント人への手紙第一1章26-31節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17646"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 幸せとは 聖書箇所 コリント人への手紙第一1章26-31節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
幸せとは<br />
聖書箇所 コリント人への手紙第一1章26-31節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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	</item>
		<item>
		<title>礼拝メッセージ「あのときの私に」ヨシュア記24章11-15節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message230611/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 11 Jun 2023 03:04:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[ヨシュア記]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル あのときの私に 聖書箇所 ヨシュア記24章11-15節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>あのときの私に</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>ヨシュア記24章11-15節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17643"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル あのときの私に 聖書箇所 ヨシュア記24章11-15節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
あのときの私に<br />
聖書箇所 ヨシュア記24章11-15節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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		<item>
		<title>礼拝メッセージ「神の慈愛によって」ローマ人への手紙2章1-5節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message210912/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 12 Sep 2021 00:53:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[ローマ人への手紙]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 神の慈愛によって 聖書箇所 ローマ人への手紙2章1-5節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>神の慈愛によって</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>ローマ人への手紙2章1-5節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17638"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 神の慈愛によって 聖書箇所 ローマ人への手紙2章1-5節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
神の慈愛によって<br />
聖書箇所 ローマ人への手紙2章1-5節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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		<item>
		<title>礼拝メッセージ「生命の源」ローマ人への手紙1章16-17節</title>
		<link>http://nobu.bokushi.jp/message210905/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[中澤 信幸]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 05 Sep 2021 00:47:19 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[礼拝聖書メッセージ]]></category>
		<category><![CDATA[使徒の働き]]></category>
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					<description><![CDATA[&#160; 大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 生命の源 聖書箇所 ローマ人への手紙1章16-17節 &#160; 礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" style="background-image: none; float: right; padding-top: 0px; padding-left: 0px; display: inline; padding-right: 0px; border-width: 0px;" title="coverart" src="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart_thumb.jpg" alt="coverart" width="304" height="304" align="right" border="0" /></a></p>
<p>大野キリスト教会 主日礼拝</p>
<p>メッセージタイトル<br />
<strong>生命の源</strong></p>
<p>聖書箇所 <strong>ローマ人への手紙1章16-17節</strong></p>
<p></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span id="more-17636"></span></p>
<p><a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。</p>
<p></p>
]]></content:encoded>
					
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				<itunes:subtitle>  大野キリスト教会 主日礼拝 メッセージタイトル 生命の源 聖書箇所 ローマ人への手紙1章16-17節   礼拝メッセージ(Podcast対応)にて、 過去のメッセージを保存しています。</itunes:subtitle>
		<itunes:summary><![CDATA[&nbsp;<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/wp/wp-content/uploads/2015/01/coverart.jpg"></a><br />
大野キリスト教会 主日礼拝<br />
メッセージタイトル<br />
生命の源<br />
聖書箇所 ローマ人への手紙1章16-17節<br />
&nbsp;<br />
<br />
<a href="http://nobu.bokushi.jp/category/messages/ws/">礼拝メッセージ(Podcast対応)</a>にて、 過去のメッセージを保存しています。<br />]]></itunes:summary>
		<itunes:author>中澤信幸(大野キリスト教会牧師)</itunes:author>
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