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	<title>教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</title>
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	<description>Watari Laboratory ver. 4.0, School of Education, Hokkaido University</description>
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		<title>[ノート011] 『教育課程の教育法学的検討』読書会(1)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 27 Jun 2026 04:09:38 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<p>同僚や院生との 中嶋哲彦 (2026).『教育課程の教育法学的検討』風間書房. の読書会。以下は、「第1章 学習指導要領の法規制の変遷」（pp. 19–82）に対する私のレジュメである。 (1) 現在の自らの立場も踏まえ [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>同僚や院生との</p>
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<ul>
<li>中嶋哲彦 (2026).『教育課程の教育法学的検討』風間書房.</li>
</ul>
<p>の読書会。以下は、「第1章 学習指導要領の法規制の変遷」（pp. 19–82）に対する私のレジュメである。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12132"></span></p>
<p>(1) 現在の自らの立場も踏まえて、最も重要だと感じるのは以下の展開である。</p>
<p style="padding-left: 40px;">[a] 「1950年の学校教育法施行規則改正により(旧)第25条における学習指導要領の位置づけが、『教科課程、教科内容及びその取り扱い』の基準から『教育課程』の基準へと変わっ」たことにより、「学校教育法（旧）第20条による大臣への委任事項である『教科に関する事項』を超えるものであるとの疑いを生させる(ママ)可能性が生まれた」(p. 34)。<strong>【比較的容易なレベルでの改正実施】</strong></p>
<p style="padding-left: 40px;">[b] 1951年学習指導要領において「教育課程」は、そ「の内容に『教科以外の活動・特別教育活動』が追加された以外、1947年学習指導要領の『教科課程』と基本的に同じ意味で用いられている」(p. 38)。中嶋によれば、この「概念の登場は、『自由研究』の廃止、及び『教科外の活動』との関連で理解しなければならない」(p. 39)。<strong>【形式上の整合性・論理性の確保】</strong></p>
<p style="padding-left: 40px;">[c] さらに「単なる用語上の便宜ではなく、欧米で教科外の活動を含めて学校の教育活動全体をカリキュラムと捉えていたことが認識されており、文部省内でも学校教育のあり方が模索されていたこともこれに関与していると思われる」(p. 40)。<strong>【学問動向の影響／理論的裏づけ】</strong></p>
<p style="padding-left: 40px;">[d] 1958年の「学習指導要領を法規として扱うことで法的に規制しようとした教育課程・教育実践はピンポイントに道徳教育だったのであり、それ以外の事項の多くは、教育課程を構成する教科等やその授業数などの学校制度的基準を除けば、学校・教員の裁量にゆだねてよく、また教育実践上は委ねざるをえないものだった」(pp. 48–49)。<strong>【異なる動機に基づく統制への利用】</strong></p>
<p>問題は、<strong>単独で見ればそれぞれに（それを実現する程度に）尤もらしい理由が存在するが、全てがつながると、現在の「教育課程編成を包括的に規制しようとする」(p. 69)条件を準備することになる</strong>という点である。（まだ「手引き」である時代に）[a]〜[b]が比較的目立たない程度に、それ自体は何らかの必然性を持つ形で行われ、場合によっては[c]がそれに正当性を付与したり一般的な支持を得やすくしたりする役割を果たすが、これらを[d]のレベルの「地ならし」と見れば、[a]〜[c]に対しても当然異なる判断があり得ただろう。このような、（少なくとも表面上は）統制を強める意図はないもののある言葉がその「器」として導入され、後に都合よく利用されるというパターンは他にも見出せるのではないか。</p>
<p>この点で、同時代に生きていたら気づくことができたかということは措いて、「『教育課程』の構成要素に『道徳』を追加し、学習指導要領に『道徳』で扱う徳目を詳細に書き込み、学習指導要領は法規であると主張するようになると、教育法学会から『教育課程に関する事項』を規定することは学校教育法（旧）第20条による委任立法の範囲（「教科に関する事項」）を超えるとの批判が提起され」（pp. 34–35）たというのは遅きに失しているということになる。先を見越した際に[a]〜[d]がどういう形で拡大解釈され、権力にとって都合よく利用される可能性があるかという「潜在性」の次元で検討しなければならないし、そのことに理解が得られる丁寧な論理が求められる。</p>
<p>(2) 関連して、「学校における教育実践がそれ自身の内在的必然性から教科外においても教育的価値を有する豊かな活動を生み出して自律的に展開していく可能性を持っていることと、学校教育を国の学校制度として組織化するために法的裏づけを与えて包摂しようとすることとの矛盾」(pp. 41–42)について、「学校における教育実践がそれ自身の内在的必然性から教科外においても教育的価値を有する豊かな活動を生み出して自律的に展開していく可能性を持っていること」はどのレベルで合意を得られていることだろうか。事柄の本性としてそうであることと、一般に、あるいは法律において、はたまた学術的にそう認識されていることとの距離の問題。一般や、現在の学校で果たしてそう理解されているだろうか？</p>
<p>(3) 上と類似して、「主体的・対話的で深い学び」というアプローチが、「その内容やあり方次第では児童生徒の人格形成の自由を侵害する可能性を秘めている」(p. 76)という指摘は、「内容やあり方次第」で「人格形成の自由を侵害する可能性」があるのはほとんど全てのことではないかとも思えるので、（教育法学的な）批判としてかなり粗いように思われる。</p>
<p>(4) 教育法学的考察は、時勢や社会的要因をどこまで考慮に入れる（べき、あるいはべきではない）のか。たとえば、1998年改訂に関しては「いわゆる『ゆとり教育』を推進し児童生徒の学力低下を招く恐れがあるとの懸念や批判が広がった」(p. 62)という事情が示されている一方、1958年改訂で教育課程編成を法的に管理しようとした背景についてはほとんど触れられていない。私が気になったのは片方にそれがあってもう片方にそれがないという首尾一貫性の欠如であるが、後者についても、戦後新教育における「学力低下」問題や、児童中心主義の「混乱」や「失敗」等々（教育方法学的には比較的よく語られるトピック）があったわけで、上記の[a]〜[d]を総体として批判的に検討しようとする場合は無視できないのではないか。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/27/notes_el001/">[ノート011] 『教育課程の教育法学的検討』読書会(1)</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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		<title>[ノート010] 石井 (2020) Ch. 7</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 23 Jun 2026 10:39:10 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、 石井英真 (2020).『授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ』ミネルヴァ書房. の「第7章 」（pp. 229–264）を検討した。 ゼミでは、p. 233の3 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、</p>
<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<ul>
<li>石井英真 (2020).『<a href="https://amzn.to/4mHzhHz">授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ</a>』ミネルヴァ書房.</li>
</ul>
<p>の「第7章 」（pp. 229–264）を検討した。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12128"></span></p>
<p>ゼミでは、p. 233の3つの「つまずき」をめぐって、3つの重要度の違いの指摘と、それぞれに対する教師の対応という角度から議論があった。</p>
<p>また、「学びの深さは、子ども自身が学習をどうとらえ、どのように学習過程をメタ認知的に自己調整しているかによって規定されます」(p. 258)という見解への疑義から、「学習評価論が行動主義的・管理的に論じられがちになるのはなぜか」という問いが浮かび上がり、その裏返しとして「学習の行為そのものよりも向き合っている内容、あるいは『思慮深い学び』を評価することは可能か」ということが論じられた。初回に言及した佐藤学の「目標・達成・評価 → 主題・探究・表現」の議論と接続され、そこで言う「表現」のアセスメントの試みとして、本章で言及されている「アンカー作品」についての協議や「モデレーション」が捉え直された。</p>
<p>以下は、その他に事前に文献を読んで、授業者として私が書き出していた論点。</p>
<ul>
<li>ルーブリックの定義（pp. 248–249）は、testingやassessmentの議論におけるrubricsの一般的な意味とは異なり、これを流布させることには問題が少なくない。何が足りないだろうか。各教科でアセスメントを行う側、アセスメントされる側の視点で考えてみよう。</li>
<li>表7-2の「日本文化を紹介しよう」発表のルーブリックは、どの観点の記述についても、このコミュニケーション（活動）を行う目的・場面・状況に応じた記述になっているとは言い難く、漠然とした狭いスキルの指定にとどまっていて問題が多い。どう改善できるだろうか。</li>
<li>「あるパフォーマンスを見た時に、そこに何を見てどのような点からそのようにレベルを判断したのか、専門家としての見えや判断を、他の人たちに見えるようにしていくために基準表を作成する、これが逆になってはなりません」(p. 255)と石井は述べる。この時、「評価自体は教師の判断をベースになされる」(p. 255)ことの妥当性はどこに求められ、課題や限界としてどういうことが指摘できるだろうか。p. 260の記述も参考にしつつ考えてみよう。</li>
<li>「触発性」や「創発性」(p. 262)はどういう点で教科にまたがって共通だと言えるか。また、どういう点で各教科で異なるだろうか。</li>
</ul>
<p>次章の検討に続く。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/23/notes_seminar007/">[ノート010] 石井 (2020) Ch. 7</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>[ノート009] 教育学読書会(5)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 19 Jun 2026 01:05:39 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<p>講読文献を『教育学年報16: 教育の自由／不自由』に移し、 平井悠介 (2025).「新自由主義的教育における言語と統治」隠岐さや香ほか(編)『教育学年報16: 教育の自由／不自由』（pp. 39–57）世織書房. を検 [&#8230;]</p>
The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/19/notes_ppp005/">[ノート009] 教育学読書会(5)</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<p>講読文献を『教育学年報16: 教育の自由／不自由』に移し、</p>
<ul>
<li>平井悠介 (2025).「新自由主義的教育における言語と統治」隠岐さや香ほか(編)『<a href="https://amzn.to/3SB4H7n">教育学年報16: 教育の自由／不自由</a>』（pp. 39–57）世織書房.</li>
</ul>
<p>を検討した。以下は、例によって私の読書ノート。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12124"></span></p>
<p>(1) 隔靴掻痒の印象。「教育学研究の新しい傾向として、新自由主義を原理的基盤とした教育への対抗論の構築が言語に着目した分析を基軸に進展していること」（p. 39）を明らかにしようとするのはいい。それを踏まえて「教育の公共性論が有効性を発揮するための要点とは何か」（p. 39）を明らかにすることが目的と言われれば自ずと期待は高まるが、海外の様々な論考を引いて本論で最終的に提示されるのが、ボランティア活動をしたり自宅で料理をしたり一緒に遊んだりと言われるとやや拍子抜けというか、中流階層の優等生的スローガンを聞かされたようで「そう言われましても」とたそがれざるを得ない。GDPを増やすことのない（資本主義をドライブする価値を相対化するような）経験が大事じゃないとはもちろん言わないが、それで「なぜ新自由主義的教育が現在に至るまでにこれほどまでに強力で、その影響を拡大し続け、リベラルな民主主義を脅かしているのか」(p. 41)という問いに答え、それを超える議論が提示できているといえるのだろうか。</p>
<p>(2) 「言語に着目した分析を基軸に進展していること」に対する平井さんの態度はイマイチつかめていないが、「私たちの認識に横たわる、経済的停滞の対応のためには競争もやむを得ないとする思考や、教育によって社会的課題が解消できるという発想が、新自由主義的教育への対抗を鈍らせている」（p. 47）ことと、「教育を社会問題の解決・手段とみなす考え方が蔓延している裏で、教育は『学習の統治化』と足並みを揃えて、人的資本の形成という点で新自由主義的統治に加担している」という指摘（p. 50）はそれなりに示唆的ではある。</p>
<p>ただ、個別の議論に当てはめた時、たとえば下記の記事で述べた児童英語教育学会の議論において、「公教育の枠組みで外国語教育をいっそう推進しようと思うのであれば多言語・多文化共生教育の推進の方向で」と求めることは「教育によって社会的課題が解消できるという発想」に陥った考え方だろうか。この記事の中でも本論文を引用したが、「多言語・多文化共生」の方向が下位中間層にとっても良いことなんだと思ってもらう必要があるというロジックは平井さんの議論にも当てはまるように思われる。一方で、外国語としての英語教育の研究・実践は、「人的資本の形成という点で新自由主義的統治に加担する」(p. 50)ことのハードルがおそろしく低い。</p>
<p><iframe class="note-embed" style="border: 0; display: block; max-width: 99%; width: 494px; padding: 0px; margin: 10px 0px; position: static; visibility: visible;" src="https://note.com/embed/notes/nce79ba2140a3" height="400"></iframe></p>
<p>(3) 先日開催された中京大学のゼミOGOB会で、塾講師になりたての卒業生がNetflixの『<a href="https://www.netflix.com/jp/title/81947300">鉄槌教師</a>』（참교육, 英題<em>Teach You a Lesson</em>）にハマっているという。2エピソードだけ観てみたが、韓国版GTOというか、いじめの実行犯や学校秩序を乱す生徒に、「超法規的対応」と位置づけられた徹底的な暴力で制裁を加えていくドラマであった。他山の石ということはあるかもしれないが、これが「痛快学園アクション」と括られ、ヒットする現状が興味深いと思った（卒業生のことはやや心配になった）。強制的に「自らの利己的な生き方を反省」させる姿にカタルシスを見出す被教育者たちは、このドラマの視聴を通じて、「鉄槌」は下されずに済む教育に自ら統治される心性を強めているのか、それとも。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/19/notes_ppp005/">[ノート009] 教育学読書会(5)</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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		<title>[ノート008] 石井 (2020) Ch. 6</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jun 2026 05:35:29 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
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		<category><![CDATA[研究室]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、 石井英真 (2020).『授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ』ミネルヴァ書房. の「第6章 」（pp. 181–227）を検討した。 以下、事前に文献を読んで、 [&#8230;]</p>
The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/14/notes_seminar006/">[ノート008] 石井 (2020) Ch. 6</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、</p>
<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<ul>
<li>石井英真 (2020).『<a href="https://amzn.to/4mHzhHz">授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ</a>』ミネルヴァ書房.</li>
</ul>
<p>の「第6章 」（pp. 181–227）を検討した。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12122"></span></p>
<p>以下、事前に文献を読んで、授業者として私が書き出していた論点。</p>
<ul>
<li>Classroom Discourseに関心があれば説明の類型（p. 184）は有用だろう。</li>
<li>石井は「いずれにしても、発問は、わかっている人（教師）がわかっていない人（子どもたち）に問う点に特徴があります」(p. 185)と述べる。「発問」には本当にそれしかないのだろうか。すなわち、発問によって子どもたちの側から問いが立ち上がってくる可能性や、教師自身にとってもopen-endedな「発問」の可能性。</li>
<li>「しかし、子どもたちの考えを瞬時に理解し、学びを促進する的確な言葉をかけたり、考えを位置づけたりするには、教材研究や授業の構想検討を通して、教材の本質を理解し、そこに至る多様な思考の道筋を想定しておくこと、いわばより緻密な学びの地図を構成することが不可欠でしょう」(p. 190)。これはなぜだろうか。</li>
<li>
<p class="p1">「単に声が聞こえ相手に情報がわるということと、声が相手の身体に届くということは別物であることがわかります」(p. 195)。それぞれ教室の具体的な状況に当てはめるとどういうことが言えそうか。</p>
</li>
<li>p. 199の「リボイス」の議論は、宮崎 (2009)よりやや狭い解釈として提示されている。
<ul>
<li>宮崎清孝 (2009).『<a href="https://amzn.to/4aMo4R0">子どもの学び 教師の学び: 斎藤喜博とヴィゴツキー派教育学</a>』一莖書房.</li>
</ul>
</li>
<li>
<p class="p1">「ノート指導の三つの段階」(p. 213)の学校種・学年、教科ごとの特殊性はどのように考えることができるだろうか。その違いをもたらす原因（教科の固有性）はどこに求められるだろうか。</p>
</li>
</ul>
<p>次章の検討に続く。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/14/notes_seminar006/">[ノート008] 石井 (2020) Ch. 6</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>[ノート008] 石井 (2020) Ch. 5</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 08 Jun 2026 04:42:01 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
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		<category><![CDATA[論文]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、 石井英真 (2020).『授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ』ミネルヴァ書房. の「第5章 学習の流れと場の構造（Structure）を組織化する」（pp. 1 [&#8230;]</p>
The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/08/notes_seminar005/">[ノート008] 石井 (2020) Ch. 5</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、</p>
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<div dir="auto">
<ul>
<li>石井英真 (2020).『<a href="https://amzn.to/4mHzhHz">授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ</a>』ミネルヴァ書房.</li>
</ul>
<p>の「第5章 学習の流れと場の構造（Structure）を組織化する」（pp. 131–179）を検討した。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12117"></span></p>
<p>以下、事前に文献を読んで、授業者として私が書き出していた論点。</p>
<ul>
<li>「授業という営みは、教材を媒介とした教師と子どもとの相互作用の過程であって、始めから終わりまで一様に推移するわけではありません。<span style="text-decoration: underline;">それゆえ</span>、授業過程で繰り広げられる教師と子どもの活動内容には、時間的推移によって一定の区切り（教授段階）を取り出すことができます」(p. 133)の下線部「それゆえ」には論理の飛躍がある（それ自体は悪い意味ではないが）。一様に推移するわけではないからといって教授段階が発生するわけではないのだから。</li>
<li>本章は、「授業の流れやリズムやストーリー性を意識したりする発想」を「授業をドラマとして捉える見方」(p. 134)と括っているが、「ドラマとして捉える見方」だけで整理することは妥当だろうか。</li>
<li>「学びのスタート地点に子どもたちを立たせる」(p. 136)とは、具体的にどういうことだろうか。</li>
<li>石井は「授業の展開を生み出す際には、矛盾とゆさぶりの構造を生み出すことが有効」(p. 140)と論じる。教科ごとのこの解明こそが重要だろう。</li>
<li>「授業が<strong>教師主導</strong>か<strong>学習者主導</strong>かは『あれかこれか』という問題としてとらえられがちですが、実際には程度の問題」と言うが、本当に「程度の問題」だろうか。「主導」という捉え方自体を考え直す視点が必要と言えないだろうか。下記の指摘もその一端に触れるものと言える。</li>
<li>「詰め込みや一斉授業と批判される際の実質的な問題は、そうした生徒たちに委ねる部分の活動としての大きさやスパンであって、教師の穴埋め的な問いかけに一問一答で答えること（投げかけと反応のスパンが短い活動）に止まっている点なのです」(pp. 143–144)。</li>
<li>「認識の飛躍」（わたり）と「複合的な現実生活に埋め戻す」（もどり）に関わって、「『尻すぼみ』の単元構造を、『末広がり』の構造に変えることができる」という時の「尻すぼみ」や「末広がり」の構造とはどういうものか(p. 147)。</li>
<li>個人学習とグループ学習について、石井は「個での学習と集団での学習を相互に往還させる視点を持つ必要がある」(p. 157)と言う。そのことに異論はないにせよ、相互に往還させるべきなのは何故だろうか。教育方法学的な原理や根拠としてどういうことが言えそうか。</li>
<li>本章において、「授業づくりにおいては、その教室の学習集団の質を、すなわち、教師の<strong>人間関係</strong>の構造と、教室の成員に共有されている<strong>規範・文化</strong>の中身を問う視点が重要です」(p. 171)という指摘は、授業運営論として、また具体的な学習者を対象に教材構成を行う際の視点として、すこぶる重要である。「教室の成員に共有されている規範・文化の中身」を具体的に展開してみよう。</li>
<li>「教師から見て想定外の考え方、あるいは間違った答えであっても、<span style="text-decoration: underline;">対象世界と十分に対話することなく思いつきで発せられた意見</span>でない限り、その考えに至った思考過程に目を向ければ、一面の真理を見出せるでしょうし、それを手がかりに、教師の側で理解したつもりでいた対象世界について、違った解釈や思わぬ発見の可能性が見えてくることもあるでしょう」(pp. 174–175)。総論賛成の細かいツッコミではあるが、下線部は誰が、どうやって判断できると言うのか。</li>
</ul>
<p>次章の検討に続く。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/08/notes_seminar005/">[ノート008] 石井 (2020) Ch. 5</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>[ノート007] 教育学読書会(4)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 06 Jun 2026 00:19:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[リーディング]]></category>
		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[研究]]></category>
		<category><![CDATA[研究室]]></category>
		<category><![CDATA[論文]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>神代健彦 (2023).「コモンについて: 人間を中心にしすぎない公教育原理の素描」佐久間亜紀ほか(編)『教育学年報14: 公教育を問い直す』（pp. 309–326）世織書房. を検討した。以下は、例によって私の読書ノ [&#8230;]</p>
The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/06/notes_ppp004/">[ノート007] 教育学読書会(4)</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<ul>
<li>神代健彦 (2023).「コモンについて: 人間を中心にしすぎない公教育原理の素描」佐久間亜紀ほか(編)『<a href="https://amzn.to/4cvCsNH" target="_blank" rel="noopener">教育学年報14: 公教育を問い直す</a>』（pp. 309–326）世織書房.</li>
</ul>
<p>を検討した。以下は、例によって私の読書ノート。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12114"></span></p>
<p>(1) 書き方がかっこいい（自分にはこういう論文は書けそうもない）。これまでのコンピテンシー・ベースの議論やその批判を引き取りつつも、個別の事象や論点に埋没せず、さりとて宙に浮いた抽象論で「何言ってんの？」となるわけでもない。「評論」としてのポジショナリティは下記の通り明確であり、その立場における懸念・葛藤も包み隠していない。結論をくれるというよりは問題を提起し視点を与えてくれる「コンセプト・アルバム」的な論文だが、抽象原理をぶん回す議論とは一線を画している。</p>
<blockquote><p>学習者の自律性を毀損することなく、むしろその自律を「支える」、その意味で学習者の依存先たりえること。学習者の成長・発達とともに縮小していく、必要最低限の権威性。それこそ、学校の本質（であるべきもの）だとわたしは考える。ともあれ教育なかんずく学校は、まさにその権威によって人々を、脅迫と快楽の痙攣的な往復運動を超えた、息の長い学びへ誘う可能性なのだと、まったく反時代的にも主張しておきたい（p. 318）。</p></blockquote>
<p>(2) しかし、上記の主張はなぜ「反時代的」なのか。「教育学概説（教育の内容と方法）」の「手段と目的」をテーマとする回のディスカッションにおいて、神代の記述（p. 314）を引いて、</p>
<blockquote><p>「『学ぶ』とは、学び方を学ぶことだ。学ぶことの目的は、もっと上手く学べるようになることだ」という意見について、あなたはどう思いますか。なぜそう思うのでしょうか</p></blockquote>
<p>と学生に問うてみた。途中でコンテンツ／コンピテンシー・ベースについて補足した上で聞いてみると、意外にもコンテンツ・ベース支持のほうが若干多数派だった（これが、そこまで重ねてきた授業の影響か、受講者の特性か、両方、あるいはその他の要因かは分からないが）。</p>
<p>一方で、この回に課した小レポートのコメントに、課題本体とは関係なく、「コンピテンシー・ベースの立場を支持してきたが、授業内の経験とこの課題に取り組むことを通じて、知識の習得それ自体がもたらす充実感や本質的な意義に気づいた」という趣旨の感想が寄せられた。「教材の可能性を如何に引き出すかこそが教育者の腕の見せ所であり、同時に、どのような教材にも価値を見出し、そこから貪欲に何かを吸収しようとすることこそが学習者の目指すべき主体的な姿勢なのだと感じた」と締め括られていた。</p>
<p>この学生が最後に挙げる「主体的な姿勢」の要求こそが、神代の下記の懸念、あるいは「別のパーフェクショニズム」（p. 321）を招くと危惧することもできようが、ともあれ神代の主張は「反時代的」というよりも、時代によらず（あるいはそれ自体が教育を通じて）獲得が必要な認識なのではないか。日常的な生活の中で「息の長い学び」は展望しにくく、そのための「必要最低限の権威性」を学校や教師が声高には言いにくい時代状況であるとは言えるかもしれないが。</p>
<blockquote><p>「自分で考え自分でやりなさい」「ちゃんとしなさい」「早くとりかかりなさい」「粘り強く計画的に続けなさい」「創造性を発揮しなさい」「目の前の学習に必要な人格特性を、さあいますぐ解放しなさい」––––本質的にVUCAな子どもたちへの、「主体性」を尊重する進歩的な叱咤激励は、黒板いっぱいの板書の「写経」よりもリベラルで、しかも心理学に裏付けられた「完成された人間」と「最高の学び方」に基づいているが、しかしその熱意のちょうどその分だけ、残酷にもなりうる。学習の（幸運な）結果であるはずの特性が、悪くすれば学習の条件になってしまうからである（それができないから学校にいるのに！）（p. 316）。</p></blockquote>
<p>(3) その意味で、「文化や科学の学習が、個々人の自律的な成長・発達を阻害する『詰め込み』となる場合」（p. 321）がどのような場合かについて詳述が欲しかったところ。批判意識も含めて進学校出身者はなんだかんだ学校知の「恩恵」に浴しているだろうと思えば、そんなことが実際にあるかなあと思う。その逆端で、ベンヤミンの『パサージュ論』における「人間が集団的無意識としてもっている根源的感情や太古的な不安や願望」を踏まえると、「ならばここで見出される未来は、テクノロジーの隆盛による学校の消滅というより、テクノロジーに媒介された学校の『転移』である」（p. 322）という神代の展望の実現可能性についてはやや悲観的にならざるを得ない（亘理, 2022）。</p>
<ul>
<li>亘理陽一 (2022).「エンハンスメントとアダプテーション: デジタル・テクノロジーによる主体性の行方」『教育学の研究と実践』17, 14-22. doi: 10.24470/tpe.17.0_14</li>
</ul>
<p>(4) 併せて、ラズ（2022, 188–195）を引いた上での「価値あるものはその価値を実現できる担い手を必要とし、また担い手は、価値あるものに適切な仕方で関わることによってその価値を実現する。そして教育は、その『適切な仕方で』に関わっている」（p. 320）という、「価値中心主義」の説明は私個人に対してはすこぶる説得的である。本論は、格差が拡大することについて、「結局これを緩和したければ、教育（システム）の合理化以外のなんらかの方法による、学習達成と社会経済的地位配分のデカップリング（脱連結）が必要となる」(p. 316)と指摘している一方で、その方法が（意図してか意図せずかは分からないが）十分詳らかにされているとは言えない。その手がかりとして、ラズの議論を追う方向があるように思う。</p>
<p>(5) 関連して、冒頭の「一線を画している」という私の評価は、「それでは教育の背後にある人間の営みの、その本来それぞれ通約不可能（ラズ 2021）な固有の価値が、たかだか（中略）心理学的に定義された人間の成長・発達に資するという人間中心主義の基準で均され、測られ、矮小化され、顧みられなくなってしまう––失われかねない均衡の保全」（p. 322）という（と神代が称する限りでの）執筆動機から、むしろ「人間を中心にしすぎない公教育」を論じ、「コンピテンシーの公教育（シームレスな日常のための教育）と、切断された余暇のための公教育という、本質的に相反する教育原理は、矛盾しつつもたれ合い、互いの危険性をけん制し合うそのことによって、結果としてディーセント（decent: まとも）な公教育の礎（重し）になる」(p. 322)という、成熟した、アウフヘーベン的視点に着地していることに依る。ただ、その「ディーセントさ」は誰をどこまで包摂できるだろうか（「礎」と「重し」を併記しているところがさらにニクいが）。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/06/notes_ppp004/">[ノート007] 教育学読書会(4)</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>[ノート006] 石井 (2020) Ch. 4</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 13:33:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[リーディング]]></category>
		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[研究]]></category>
		<category><![CDATA[研究室]]></category>
		<category><![CDATA[論文]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、 石井英真 (2020).『授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ』ミネルヴァ書房. の「第4章 『教材・学習課題（Task）』をデザインする」（pp. 95–130 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、</p>
<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<ul>
<li>石井英真 (2020).『<a href="https://amzn.to/4mHzhHz">授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ</a>』ミネルヴァ書房.</li>
</ul>
<p>の「第4章 『教材・学習課題（Task）』をデザインする」（pp. 95–130）を検討した。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12112"></span></p>
<p>報告者の質問・論点で十分以上に盛り上がったのだが、以下は、事前に文献を読んで、授業者として私が書き出していた論点。</p>
<ul>
<li>「教科書などで教材として開発されているものの内容や趣旨を理解し、その価値を教科の本質との関係で焦点化したり、捉えなおしたりすること」と説明される「教材解釈」の「2つの段階」、すなわち「教師が自分自身のために自分の納得ゆくまで教材をかみ砕く段階」と「授業を創ることを念頭に置いて、教えたいものを単純化したり構造化・組織化したりしていく段階」はなぜ必要なのか（pp. 99–100）。授業づくりにおいて、どういう意味を持っているのか。</li>
<li>「それに取り組むことで自然と教えたい内容が身につくもの」を「典型性」と呼んでいるのはどういう意味か（二杉, 1994の概念ではあるものの）。</li>
<li>「子どものつまずきを防ぎ、わかることを保障する」(p. 103)というのは、「つまずき」のネガティブな解釈であり、p. 70の記述と矛盾していないか。</li>
<li>「たとえば、『○人に一人が高齢者に』という新聞の見出しを考えさせる算数の課題の場合、現在の高齢者の割合を考えさせるよりも、子どもたちが大人になり高齢化問題が自分ごととなる、20年後の日本について、高齢者の割合を考えさせる方が、学習者は意義を感じやすいでしょう」(p. 106)。これはさすがに「自分ごと」の理解が一面的だろう。大半の子どもにとって20年後などまだまだ先の未来であって、そこに実感を持てるような老成した子どもより、自分の祖父母が置かれた状況を考えるほうが切実感を持ちやすい子どものほうが多いのではないか。</li>
<li>「『〇〇になる』とは、対象の姿や形を真似たり、言葉をジェスチャーで表現したりすることではなく、『〇〇として世界と接すること』」(p. 108)という時の、「〇〇として世界と接すること」の認識論的意味はどのようなものか。</li>
<li>「学校でしか通用しない『生きて働かない学力』（学校知学力）」(p. 110)という議論をどう思うか。「学校知学力」を擁護したいと考えるか。</li>
<li> 「教科の学習の意味は、（中略）対象世界との出会い直しの機会が保障され、子どもたちの生活でのものの見え方や世界との関わり方が変わることにあり（中略）、学習者の知的好奇心に火を付け、『わかる楽しい授業』に止まらず『もやもやするけど楽しい授業』になってゆく」（pp. 116–117）という一節に石井の授業観が示されている。その時、次項の「教材『研究』する」楽しさ」(p. 118)で語られているような筋（「ある者は…」の段落）の教材研究のやり方で、石井が理想とする授業は生まれると言えるだろうか。生まれにくいとすれば何が問題か。</li>
<li>「教科書に記載されるのは、世の中の建前や学校文化の枠内で飼い慣らされ切り取られた生活文脈なのです」(p. 122)。では教科書の役割とは何なのだろうか。</li>
<li>「（中略）近年の教科書の構成は、経験の浅い教師の増加を意識しすぎるあまり、子どもたちの学びをガイドするテキスト（児童又は生徒用図書）というより、教師に授業の進め方を示すマニュアル（経験の浅い教師用図書）となってはいないでしょうか」(p. 126)。石井が「教師に授業の進め方を示すマニュアル」を批判するのは何故か。そうではないとすれば、教科書は教師にとってどういうものであるべきなのか。</li>
</ul>
<p>次章の検討に続く。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/06/01/notes_seminar004/">[ノート006] 石井 (2020) Ch. 4</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>[ノート005] 石井 (2020) Ch. 3</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 15 May 2026 04:54:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[リーディング]]></category>
		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[研究]]></category>
		<category><![CDATA[研究室]]></category>
		<category><![CDATA[論文]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、 石井英真 (2020).『授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ』ミネルヴァ書房. の「第3章 『目的・目標（Goal）』を明確化する」（pp. 65–93）を検討 [&#8230;]</p>
The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/05/15/notes_seminar003/">[ノート005] 石井 (2020) Ch. 3</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、</p>
<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<ul>
<li>石井英真 (2020).『<a href="https://amzn.to/4mHzhHz">授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ</a>』ミネルヴァ書房.</li>
</ul>
<p>の「第3章 『目的・目標（Goal）』を明確化する」（pp. 65–93）を検討した。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12109"></span></p>
<p>ゼミで出た疑問・論点は、</p>
<ul>
<li>「目標を明確化することは目標を類型化することか」(p. 69)の「類型化」はどういうものを指しているか。</li>
<li>石井は「知っている」をどういう意味で用いているのか。「定着」や「獲得」との関連でどう考えるべきか。
<ul>
<li>「理解する」のレベルの中に「記憶」、「理解」、「活用」と、「理解」が再度登場するのも分かりにくい。どう捉えたらいいのか。</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>といった辺り。以下は、事前に文献を読んで、授業者として私が書き出していた論点。</p>
<ul>
<li>「目標の明確化とは、観点別に目標を整理することではなく、実践の出口の子どもの姿をイメージすること（目標の具体化）である」(p. 66)。「実践の出口」とは。</li>
<li>「上記のような意味での目標が明確に認識・吟味されていない場合、教育実践は子どもたちによる活発な活動のみがあって知的な学びが成立していない<strong>活動主義</strong>的傾向や、教科書の内容をただなぞるだけの<strong>網羅主義</strong>的傾向に陥るでしょう」(p. 68)。「活動主義」とは具体的にどういう状態で、理屈として何が問題なのか。</li>
<li>「そこに至るつまずきのポイントはどこか」(p. 70)。ここで石井が挙げているような事例をそもそも「つまずき」と呼ぶことは妥当なのだろうか。もちろん「指導のポイント」に関する指摘は重要で、「『江戸時代』に関して子どもたちは、中央集権国家のイメージを抱きがち」（p. 71）といったことが明らかになることは、教育内容構成にとって大きな意味を持つ。</li>
<li>p. 72で例およびメタファーとして用いられている「ドリブル、パス、シュート」を規定しているものは何かと言えば「（バスケットの）ルール」である。このことを教育内容構成の側から見ると、どういうことが言えるだろうか。</li>
<li>「指導と評価の一体化」を頻繁に耳にする現状において、「目標と評価の一体化」(p. 72)の指摘は重要と言える。</li>
<li>「毎日の授業で『わかる』授業を組織するには、その授業のメインターゲットを一つに絞ることを意識するとよい」(p, 73)という指摘と、「『わかる』レベルの学習においては、学習者自身が知識をつないで意味を構成する活動を保障することが重要」(p. 75)という指摘を<strong>つなぐところ</strong>に教育方法学的原理がありそう（あることは保証されないけども）。</li>
<li>「学習者に示し意識化する『めあて』は、『ねらい』と同じ記述である必要はありません」(p. 77)。あるいは「子どもの言葉で『まとめ』を予想しつつ、教師の予想を超える『まとめ』が生まれることをめざして授業を展開する」(p. 78)。（授業内でも触れた通り）ここは、教育内容構成と教材構成（構成された教育内容を実際に授業で展開する過程の具体化）が必ずしも同一とは限らないことの指摘としても読み取れる。
<ul>
<li><em>Cf. </em>「授業（を通じて学習者の学び）は、プラン『以上』であっても『以外』であってもいいが、『以下』であってはいけない。」</li>
</ul>
</li>
<li>「大杉先生の授業は、『立方体』『直方体』という個別のトピックではなく、それらを統括する『立体』の授業として展開されています」(p. 79)。このことを理解して教育内容を構成するには、対象世界（ないしは教科を支える学問的成果）の「地図」が必要。各教科の地図はどうやって得られるか。</li>
<li>「習得・未習得の二分法」ではなく「程度の問題として捉える」(p. 85)。外国語としての英語の、とりわけ「習得・未習得の二分法」で捉えられがちな語彙・文法も同じである（p. 43を見る限り石井にその発想はあまりなさそうではあるが）。下記の指摘を参照。
<ul>
<li>「『三単現のS』は英語の述語の人称・数、時制、相、法（Mood）、態（Voice）の体系のなかでその独自性を主張して存在しているのであり、孤立して存在しているのではない。こう考えると『三単現のS』は中学一年で学習したと言えるものではない。レベルをかえて、その都度新鮮に教授＝学習される」(菅野, 1980<em>,</em> p. 105; 亘理, 2012, p. 71)。
<ul>
<li>菅野冨士雄 (1980).「『詩的な文法教材』はちっとも素敵ではない」『教育』<em>385, </em>104–110.</li>
<li>亘理 陽一 (2012).「学習英文法を考える際の論点を整理する」大津由紀雄（編）『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4327410802/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=7399&amp;creativeASIN=4327410802&amp;linkCode=as2&amp;tag=happenwhatmay-22" target="_blank" rel="nofollow noopener noreferrer">学習英文法を見直したい</a>』研究社，pp. 66–86.</li>
</ul>
</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>次章の検討に続く。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/05/15/notes_seminar003/">[ノート005] 石井 (2020) Ch. 3</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>[ノート004] 教育学読書会(2)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 08 May 2026 04:16:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[リーディング]]></category>
		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[研究]]></category>
		<category><![CDATA[研究室]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>第2回は 柏木智子 (2023).「公正な社会の形成に資する学校と教員の役割: 社会の分断を防ぐケア論に着目して」佐久間亜紀ほか(編)『教育学年報14: 公教育を問い直す』（pp. 183–204）世織書房. を検討した [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>第2回は</p>
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<div dir="auto">
<ul>
<li>柏木智子 (2023).「公正な社会の形成に資する学校と教員の役割: 社会の分断を防ぐケア論に着目して」佐久間亜紀ほか(編)『<a href="https://amzn.to/4cvCsNH" target="_blank" rel="noopener">教育学年報14: 公教育を問い直す</a>』（pp. 183–204）世織書房.</li>
</ul>
<p>を検討した。以下は、例によって私の読書ノート。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12103"></span></p>
<p>(1) 初読時はふむふむと読み流したところがあるが、じっくり再読しながら「結局、教師も子どもも無限に『たのしくたのしくやさしくね』ってことになっちまうのかなあ」とモヤモヤしていると、まさに「本稿の限界」としてそれが末尾で指摘されていた。評価としては「各論賛成、総論反対」という辺りなので、論じ方の問題と言えなくもない。</p>
<blockquote><p>ケアは、広く考えると、人間の生を保証するための営みである。そのケアと学びを結びつけることで、学びに充溢した意義が見出され、ケアも単なる優しさや思いやりではなく、思考に立脚した概念となり、社会の変革につながるものとなる。ただ、本稿では、それらを体系的に示すことができておらず、<span style="text-decoration: underline;">ケア概念の拡散を抑制できていない</span>(p. 200。下線は引用者)。</p></blockquote>
<p>以下はそのコロラリーになるが、</p>
<p>(2) 3節末尾（p. 193）で「ケアする能力の育成（が求められる）」と言う時、「誰が」「誰を」ケアする能力を「誰が」育成する話をしているのかという思いがよぎる。4節末尾（p. 196）に「ケアは、子どもが世界に参入するためのキー概念」とあってその解説を読む限り、「子どもが」「互いを」ケアする能力を、という話であり、5節によって、それを「教師が」育成する話だと判断できる。教師はその能力をどこから引き出し、その教師を誰がケアするのかと言い出すと、無限後退に至る気がしないでもない。</p>
<p>(3) マクロな社会論・経済福祉論が持ち出された時に、教育実践との具体的対応が不透明になる。例えばベックやバウマンの議論がデューイと接続された際、デューイが目指していたことの説明ではあるが「こうした考えに則った教育実践を行う」(p. 189)とある。「こうした考えに則る」というのは具体的にどういうことなのか。同様に、やや意地悪かもしれないが、センの議論も、主体・客体の関係が並行的に捉えられる保証はなく、ダイレクトに「これを教育に当てはめると」（p. 192）と言っていいのか疑念を抱かざるを得ない。また、ウンターホルターが着目する必要性を説いている「形式的平等から公正へと移行するための現実の行動」(p. 192)とは具体的にはどういうことか。教師が行う合理的配慮的なあれこれなのか、子どもが学校の中で意見を表明し、勝ち取っていくことなのか。</p>
<p>(4) 「今後求められる学びの内実と、それに基づく学校の在り方の検討」(p. 185)という研究課題に対して、p. 199の「したがって」の段落で涅槃のような展望が開陳される。その際、「日本の学校が行ってきた相互作用のある一斉授業と福祉的機能を捉え直し、子どもをめぐる関係性の質を同調圧力のある管理・統制的なものから差異を認める寛容でケアするものへと変える（ことで、実質的な教育機会の平等を図る）」(p. 199)という二項対立的な捉え方は果たして妥当だろうか。デューイが目指したような学校の「子ども間の対話と資源分配の経験を促し、子どもたちが他者との助け合いによって自他の自由を開放し平等な社会の形成に参加する力を身につけられる学びを提供する役割」、あるいはビースタの言う「世界への参入としての教育」(p. 190)は、著者自身、「従来から提示されていた学校の役割と大きく重なるもの」(p. 191)と述べており、これまでも今も「同調圧力のある管理・統制的なもの」と混淆したものとして存在し、そうでしかあり得ないのではないかと思ったりするのだが。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/05/08/notes_ppp002/">[ノート004] 教育学読書会(2)</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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		<title>[ノート003] 石井 (2020) Ch. 2</title>
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		<dc:creator><![CDATA[watari]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 May 2026 11:25:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[リーディング]]></category>
		<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[研究]]></category>
		<category><![CDATA[研究室]]></category>
		<category><![CDATA[論文]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、 石井英真 (2020).『授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ』ミネルヴァ書房. の第2章（pp. 3–26）を検討した。 以下は、事前に文献を読んで、授業者とし [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>前回のゼミ（専門演習）では、</p>
<div class="x14z9mp xat24cr x1lziwak x1vvkbs xtlvy1s x126k92a">
<div dir="auto">
<ul>
<li>石井英真 (2020).『<a href="https://amzn.to/4mHzhHz">授業づくりの深め方: 「よい授業」をデザインするための5つのツボ</a>』ミネルヴァ書房.</li>
</ul>
<p>の第2章（pp. 3–26）を検討した。</p>
</div>
</div>
<p><span id="more-12101"></span></p>
<p>以下は、事前に文献を読んで、授業者として私が書き出していた論点。</p>
<ul>
<li><span style="font-weight: 400;">「職業上の実力や人生における成功を予測する、社会的スキルや動機や人格特性をも含めた包括的な能力」(p. 32)という「コンピテンシー」の定義をどう思うか。「職業上の実力や人生における成功を予測」とはどういう意味で？その上の段落で言及されている「〇〇リテラシー」や「〇〇力」、あるいは別の議論では、「コンピテンシー」はどのように捉えられているだろうか。何のために？</span></li>
<li>「『資質・能力』は、レントゲン写真のようなものであって、そのもとになった社会像や人間像を明らかにしないと、カリキュラムの内容は系統は明らかにならない。逆に、骨格のみを示すものなので、内容や活動による肉付けの仕方に幅が生まれる」(p. 34の表2–2注)という指摘は鋭い。ただ、レントゲン写真というメタファーが的確であれば、精密検査を要する「怪しい影」は示されるのかもしれない。</li>
<li>「すべての子どもたちに公的に保障すべきもの」として、石井は「市民の育成」を重視している(pp. 38–39)。石井の考える「市民」とはどういうものだろうか。</li>
<li>「知っている・できる」、「わかる」、「使える」は、あらゆる教科で、常に、この包含関係を成すだろうか（p. 41）。関連して「学力・学習の質的レベル（学力の三層構造）に対応した各教科の課題例」(p. 43)にどの程度納得できるか。これに対する批判に「フレーム」や「ツボ」の見直しを迫る可能性が含まれる。</li>
<li>（「コンピテンシー」や「資質・能力」を通じた）「汎用的なものの強調については、蛸壺化した教科の壁の高さを低くするべく、教科の枠に閉じず知の総合化を追求していくことを本丸と捉えるべき」(p. 45)とあるが、本当に教科は「蛸壺化」しているのだろうか。どういう意味で？</li>
<li>「資質・能力の3つの柱は、学校教育法が定める学力の三要素（中略）それぞれについて、『使える』レベルのものへとバージョンアップを図るものとして」とあるが、これは常にrelevanceの観点で「使える」を意味しているのだろうか。</li>
<li>「学校教育の強み」を「回り道」に求め、「生活（生きること）」への「もどり」がないという課題の指摘(p. 53)について、各教科の授業でどう実装することができそうか。</li>
<li>「毎時間の授業レベルで『より深い学習』を追求することを心掛けるとよい」(p. 55)というのは、「日々の授業では、むしろシンプルな課題を豊かに深く追求する『わかる』授業、あるいは『わかった感』を残す授業を組織する」(p. 51)という提言と齟齬があるのではないか。</li>
</ul>
<p>次章の検討に続く。</p>The post <a href="https://www.watariyoichi.net/2026/05/03/notes_seminar002/">[ノート003] 石井 (2020) Ch. 2</a> first appeared on <a href="https://www.watariyoichi.net">教育方法学研究室でつっぱる [亘理研究室4.0]</a>.]]></content:encoded>
					
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